燕月娥が十八の頃である。
毎日、家の裏手にある廟に参拝するのが月娥の日課だった。花堯の各地には公兎を祀った廟が存在する。かつては参拝にやってきた民で賑わっていたが、長く続いた戦乱により民らの間で公兎伝承は薄れ、廟は閑散としていた。
廟の前には泉があり、そこは清らかな水が流れていて心地がよい。
そこで、その生き物と出会った。はじめは兎か狐だと思った。体は水碧色をした毛に覆われ、長く伸びた双耳がひょこひょこと動く。小さな体は月娥の細腕でも抱えられそうだった。四足獣だが腹を引きずって歩くのではないかと思うほど手足短く、ずっぷりと膨らんだ腹や腹毛に埋もれている。尾は兎にしては長く、狐ほどふわふわと膨らんでいない。見たことのない獣だった。
「慧眼の娘よ」
矯めつ眇めつ眺める月娥は、確かに声を聞いた。周囲に月娥以外の気配はなく、喋るとすればこの獣しかあり得なかった。獣は黄金色の瞳をこちらに向けている。
「偽りを見抜く慧眼の娘、燕月娥よ。聞くがよい」
水碧色の不思議な獣は月娥の名を呼んだ。なぜ名を知っているのかという疑問は生じたが、黄金色の瞳に見つめられると動けなくなる。吸いこまれそうな、夜の満月に似た瞳だ。
「我は陽を見極めし公兎龍。お前を公兎の娘として選ぼう」
足繁く廟に通う月娥は公兎伝承をよく知っていた。戦乱の終焉を報せる月神が公兎であり、それに選ばれた娘は花堯の地にとって救世主となる。伝承に過ぎないと思っていた公兎龍が目の前に現れ、ましてや自分を公兎の娘だと選んでいるのだ。
まったく信じられないことである。月娥は呆然とそこに立ち尽くすだけであった。
「我はお前の中に。公兎の加護はお前の中に。お前の慧眼は天命を見極める。この地に平穏をもたらすべきが誰であるのか、お前だけが見極められる」
そう告げて、ひとつまばたきをする間に、そこから消えてしまった。
凪いだ泉に映るは月娥の姿だ。都に出れば指をさされて笑われるほどのひどさである。何度も繕い直した襦裙は襤褸布のようで、そこから伸びた手足はひどく痩せている。
「わたしが公兎の娘なんて、そんなこと」
そう自嘲するほどに、信じられなかった。
月娥は、生家である燕家にて疎んじられて育ち、奴婢同様の扱いを受けてきたのだ。その証拠のように、水仕事の多さにやられてひび割れやあかぎれだらけの手である。
そういった境遇から、月娥は自分がが公兎に選ばれたなど夢であろうと片付けていたのである。
何事もなく家へ帰る。門をくぐれば、遅い帰りに不機嫌をあらわにした姉の燕麗陽が仁王立ちで待ち構えていた。
「あんた、どこに行ってたのよ」
血を分けた姉だが、麗陽は月娥を妹などと思ってはいなかった。ふたりの間に格差があるのだと示すように、麗陽は刺繍が入った煌びやかな襦裙に半臂を纏っている。裕福な家の娘たちが好む、流行の格好をしていた。
「まさか都に出ていたんじゃないでしょうね。やめてよね、あんたみたいな痣持ちが都に出ればこの家が何て笑われるか。あんたは俯いて生きていかなきゃいけないんだから、外に出て恥を振りまかないでちょうだい」
忌々しそうに告げた後、麗陽は屋敷に戻っていった。月娥は何も言い返せず、その場に俯くだけである。
月娥がこのような扱いを受けるようになったのは、痣が原因である。
顎の下から首にかけて紅痣があった。生まれつきあったものだが成長しても痣は消えない。顔をあげればこの痣が見えてしまうため、幼い頃から俯くことを命じられていた。両親や麗陽といった家族らは、痣持ちの月娥を疎んじ、家事雑用を命じて屋敷から出すまいとしていたのである。
「きっと似合うと思ってな、簪を買ってきたぞ」
夕餉の頃に父が言った。懐から取り出した水碧色の簪は一本。それは当然のごとく麗陽の前に差し出され、月娥には見向きもしない。
麗陽は簪を受け取りながらも頬を膨らませた。
「お父様、今度は珊瑚の簪を買ってくれると言っていたじゃない。これは水碧色よ。玉もついてないわ」
「そう怒るな。珊瑚の簪は今度見つけたら買ってやるとも」
怒る麗陽をなだめながら父が笑う。母もにこりと微笑んだ。
「麗陽はとても美しい娘だから、何だって似合うわ――どこかの汚い子と違うもの」
汚い子というのは月娥のことだ。母はこちらを一瞥もしなかった。月娥のことを普段から汚いだの醜いだのと罵っている母だ。食事時に月娥の顔を視界に入れたくなかったのだろう。
「ねえお母様。わたしの羹、羊肉が少ないの。もう少し食べたいわ」
それを聞いて母が立ち上がった。月娥の顔を見ないようにしてこちらに近づき、手をつけずにいた羹の腕を持っていく。それを麗陽の前に置いて微笑んだ。
「これを食べなさい。あの子は食べなくてもいいのだから」
「ありがとうお母様!」
麗陽は羊肉を食べたかったわけではなく、月娥の分を奪うために言ったのだろう。こ宇言った扱いもよくあることのひとつだった。
麗陽は美しい。この一帯で一番の美女と讃えられ、通りすがる人が振り返るほどである。両親にとっても麗陽は自慢であり、真珠玉を削った欠片が娘になったのだと語っている。
それに比べて、月娥を讃えたことは一度もない。いまだって、同じ間にいるというのに両親は月娥に見向きもしない。両親が月娥を見る時は憎しみや苛立ちをぶつける時だけだ。
「最近は戦がないなあ」
父が呟いた。母が酒を注いでいる。
燕家はこの一帯では裕福な商家だ。近年は戦乱需要を見込んで、剣帯や鎧、箙などを作る革職人を多く抱え、それらの売り上げで稼いでいる。燕家にとって戦とは、最高の稼ぎ時なのである。
月娥が住む国は黄涼という。花堯と呼ばれるこの広大な地は五つに分かたれ、その一つが黄涼である。隣には碧縁国があり、過去何度も争ってきたが、ここ数年は静かだった。
戦が起きないことを嘆く父を横目に、月娥は廟に向かう前に見た景色を思い返した。
数年前は緑豊かであった畑が枯れていた。そこで働いていただろう若者の姿もない。
(戦乱が長く続くほど民は疲弊し、国力は消耗する)
廟に参拝する人が減ったのもその証拠だ。みな、明日を生き延びることで精一杯である。
「黄涼王が立ち上がってくれればいいんだがなあ」
「お父様の言う通りよ。早く戦になればいいのに」
父と麗陽は頷き合っていたが、月娥はそんな気になどなれない。
(戦なんてよくないものだ。戦になんて、なってほしくないのに)
この屋敷で、月娥の存在や思考は浮いていた。
***
毎日、家の裏手にある廟に参拝するのが月娥の日課だった。花堯の各地には公兎を祀った廟が存在する。かつては参拝にやってきた民で賑わっていたが、長く続いた戦乱により民らの間で公兎伝承は薄れ、廟は閑散としていた。
廟の前には泉があり、そこは清らかな水が流れていて心地がよい。
そこで、その生き物と出会った。はじめは兎か狐だと思った。体は水碧色をした毛に覆われ、長く伸びた双耳がひょこひょこと動く。小さな体は月娥の細腕でも抱えられそうだった。四足獣だが腹を引きずって歩くのではないかと思うほど手足短く、ずっぷりと膨らんだ腹や腹毛に埋もれている。尾は兎にしては長く、狐ほどふわふわと膨らんでいない。見たことのない獣だった。
「慧眼の娘よ」
矯めつ眇めつ眺める月娥は、確かに声を聞いた。周囲に月娥以外の気配はなく、喋るとすればこの獣しかあり得なかった。獣は黄金色の瞳をこちらに向けている。
「偽りを見抜く慧眼の娘、燕月娥よ。聞くがよい」
水碧色の不思議な獣は月娥の名を呼んだ。なぜ名を知っているのかという疑問は生じたが、黄金色の瞳に見つめられると動けなくなる。吸いこまれそうな、夜の満月に似た瞳だ。
「我は陽を見極めし公兎龍。お前を公兎の娘として選ぼう」
足繁く廟に通う月娥は公兎伝承をよく知っていた。戦乱の終焉を報せる月神が公兎であり、それに選ばれた娘は花堯の地にとって救世主となる。伝承に過ぎないと思っていた公兎龍が目の前に現れ、ましてや自分を公兎の娘だと選んでいるのだ。
まったく信じられないことである。月娥は呆然とそこに立ち尽くすだけであった。
「我はお前の中に。公兎の加護はお前の中に。お前の慧眼は天命を見極める。この地に平穏をもたらすべきが誰であるのか、お前だけが見極められる」
そう告げて、ひとつまばたきをする間に、そこから消えてしまった。
凪いだ泉に映るは月娥の姿だ。都に出れば指をさされて笑われるほどのひどさである。何度も繕い直した襦裙は襤褸布のようで、そこから伸びた手足はひどく痩せている。
「わたしが公兎の娘なんて、そんなこと」
そう自嘲するほどに、信じられなかった。
月娥は、生家である燕家にて疎んじられて育ち、奴婢同様の扱いを受けてきたのだ。その証拠のように、水仕事の多さにやられてひび割れやあかぎれだらけの手である。
そういった境遇から、月娥は自分がが公兎に選ばれたなど夢であろうと片付けていたのである。
何事もなく家へ帰る。門をくぐれば、遅い帰りに不機嫌をあらわにした姉の燕麗陽が仁王立ちで待ち構えていた。
「あんた、どこに行ってたのよ」
血を分けた姉だが、麗陽は月娥を妹などと思ってはいなかった。ふたりの間に格差があるのだと示すように、麗陽は刺繍が入った煌びやかな襦裙に半臂を纏っている。裕福な家の娘たちが好む、流行の格好をしていた。
「まさか都に出ていたんじゃないでしょうね。やめてよね、あんたみたいな痣持ちが都に出ればこの家が何て笑われるか。あんたは俯いて生きていかなきゃいけないんだから、外に出て恥を振りまかないでちょうだい」
忌々しそうに告げた後、麗陽は屋敷に戻っていった。月娥は何も言い返せず、その場に俯くだけである。
月娥がこのような扱いを受けるようになったのは、痣が原因である。
顎の下から首にかけて紅痣があった。生まれつきあったものだが成長しても痣は消えない。顔をあげればこの痣が見えてしまうため、幼い頃から俯くことを命じられていた。両親や麗陽といった家族らは、痣持ちの月娥を疎んじ、家事雑用を命じて屋敷から出すまいとしていたのである。
「きっと似合うと思ってな、簪を買ってきたぞ」
夕餉の頃に父が言った。懐から取り出した水碧色の簪は一本。それは当然のごとく麗陽の前に差し出され、月娥には見向きもしない。
麗陽は簪を受け取りながらも頬を膨らませた。
「お父様、今度は珊瑚の簪を買ってくれると言っていたじゃない。これは水碧色よ。玉もついてないわ」
「そう怒るな。珊瑚の簪は今度見つけたら買ってやるとも」
怒る麗陽をなだめながら父が笑う。母もにこりと微笑んだ。
「麗陽はとても美しい娘だから、何だって似合うわ――どこかの汚い子と違うもの」
汚い子というのは月娥のことだ。母はこちらを一瞥もしなかった。月娥のことを普段から汚いだの醜いだのと罵っている母だ。食事時に月娥の顔を視界に入れたくなかったのだろう。
「ねえお母様。わたしの羹、羊肉が少ないの。もう少し食べたいわ」
それを聞いて母が立ち上がった。月娥の顔を見ないようにしてこちらに近づき、手をつけずにいた羹の腕を持っていく。それを麗陽の前に置いて微笑んだ。
「これを食べなさい。あの子は食べなくてもいいのだから」
「ありがとうお母様!」
麗陽は羊肉を食べたかったわけではなく、月娥の分を奪うために言ったのだろう。こ宇言った扱いもよくあることのひとつだった。
麗陽は美しい。この一帯で一番の美女と讃えられ、通りすがる人が振り返るほどである。両親にとっても麗陽は自慢であり、真珠玉を削った欠片が娘になったのだと語っている。
それに比べて、月娥を讃えたことは一度もない。いまだって、同じ間にいるというのに両親は月娥に見向きもしない。両親が月娥を見る時は憎しみや苛立ちをぶつける時だけだ。
「最近は戦がないなあ」
父が呟いた。母が酒を注いでいる。
燕家はこの一帯では裕福な商家だ。近年は戦乱需要を見込んで、剣帯や鎧、箙などを作る革職人を多く抱え、それらの売り上げで稼いでいる。燕家にとって戦とは、最高の稼ぎ時なのである。
月娥が住む国は黄涼という。花堯と呼ばれるこの広大な地は五つに分かたれ、その一つが黄涼である。隣には碧縁国があり、過去何度も争ってきたが、ここ数年は静かだった。
戦が起きないことを嘆く父を横目に、月娥は廟に向かう前に見た景色を思い返した。
数年前は緑豊かであった畑が枯れていた。そこで働いていただろう若者の姿もない。
(戦乱が長く続くほど民は疲弊し、国力は消耗する)
廟に参拝する人が減ったのもその証拠だ。みな、明日を生き延びることで精一杯である。
「黄涼王が立ち上がってくれればいいんだがなあ」
「お父様の言う通りよ。早く戦になればいいのに」
父と麗陽は頷き合っていたが、月娥はそんな気になどなれない。
(戦なんてよくないものだ。戦になんて、なってほしくないのに)
この屋敷で、月娥の存在や思考は浮いていた。
***