だけど戻ろうと言われても一つ大きな問題がある。
「ねぇヒヨコさん、私のバイト先ここみたいなんだけど……」
「は!?ここがか!?」
「そう十五夜堂。看板に書いてあるし間違いないと思う。ちょっとお店の人に声かけてみる」
「正気か!?常世にあるということはあやかしの店だぞ!?」
「どうして常世の店の求人広告が私の家の近くのスーパーにあったんだろ。まさかの採用されちゃったし」
「まさか働くなんて言わないだろうな」
「それはさすがにないかな。ただ、断るにしてもちゃんと理由は話すべきじゃない?それに電話で店長さんすごく困ってる感じだったんだよね。初日から私が辞めちゃったらきっと困らせるかも。せめて次の子が見つかるまで」
「どうなっても知らんぞ。店にいるのが人間を食うあやかしだったらどうする」
「そのときは走って逃げるよ」
「……人間は妙なところで度胸がある」
ヒヨコさんは複雑そうな顔をしながらそう呟き、私の肩にとまった。それはこのたった数時間で私にとってすっかりお馴染みで安心感のある重みに変わっていた。
「ついてきてくれるの?」
「今日一日あやかしに襲われないように見張ってやると言った」
「律儀だね。ありがとう。本当はちょっと緊張してるんだけどヒヨコさんがついていてくれると思うと安心できるよ」
「ふん、わしは思慮深く高貴だからな」
「うん、そうだね」
ヒヨコさんが尾を揺らす姿が可愛くて、思わず笑ってその小さな頭を人差し指で撫でると。
「かーっ!神を気安く撫でるな!」
「あ、ごめん嫌だった?もうしないから。本当にごめんね。許して」
確かにペットのように撫でるなんていけなかった。だけど可愛くてつい。肩を落として謝る私にヒヨコさんは今度は慌てたようにチチチと鳴いた。
「べ、別にそこまでに反省せずともよい」
そう言って少しあたふたする姿はごめんやっぱり可愛い。最初に少し胡散臭いとか思ってごめん。
「今後気を付けるね。よし、じゃあ中に入ってみ」
──バシャッ
次から次へと何かが起こる。突然頭上から滝のように落ちてきた大量の水のせいで私とヒヨコさんはびしょ濡れだった。今のは明らかに雨じゃない。見上げると店の二階の窓から身を乗りだして木桶を構えた男がいた。十中八九この男に水をかけられたのだ。
男はまるで喪服のような真っ黒な着物に、同じく真っ黒の細長い布を巻いてなぜか両目を隠している。両目を隠しているはずなのに男はまるで見えているかのようにこちらを見下ろしていた。
「借金は全額返したはずだ!これ以上つきまとうならこっちにだって考えが……あれ、お前さんたち誰だ?」
男はそう言って心底不思議そうに首を傾げる。私は額にペタリと張り付いた前髪を分け、目を細めながらこう返した。
「その前に、とりあえず何か拭くものをいただけないでしょうか……」
*
「本当に悪かった!店の外が騒がしくて、時間的にアルバイトの奴はまだだろうから借金取りが来たのかと思ったんだ」
彼は何度も頭を下げて謝罪をしてくれた。いきなり水をぶっかけるなんてどうかしているとしか思えないけど、その後の対応を見る限り電話で受けた印象と変わらず悪い印象は受けない。言葉遣いは荒いところもあるけど対応は紳士的と言ってもいい。とりあえずどんなあやかしか分からないけど、会っていきなりガブリじゃなかったから良かった。ちゃんと話せそうだ。
濡れ鼠ならぬ濡れ雀になってしまったヒヨコさんをタオルで拭いてあげると身震いをしていた。濡れたのがショックだったのがさっきから全然喋らない。鳥って水浴びをするとは聞いたことがあるけど、こんなにびしょ濡れになってしまって大丈夫なのだろうか。まだ確認できていないけどポケットの中の私のスマホはお亡くなりになっているかもしれない。防水機能ついてたっけなぁ。私の前髪から水がしたたり落ちるとヒヨコさんの頭に当たって、ヒヨコさんはもう一度ぷるぷると身震いした。
「いえ、店の外でうるさくしていた私たちも悪いので」
店の中を見渡す。木目調の床と壁に、手前にはカウンターがあり一見すれば喫茶店のようにも見える。足元にはいくつも行灯が並んでいて、雰囲気があってとてもオシャレだ。だけどそれら全てを台無しにするほどの、ゴミ、ゴミ、ゴミ、ゴミ。この有り様、到底客を呼ぶ店とは思えない。片付け下手というよりそもそも片付けようという気持ちの欠片さえ感じない。
「ですがお客さんだとは思わなかったんですか?今って営業時間ですよね?」
「ああ、お客ね。最後に客が来たのいつだったかな……」
目隠しの向こうで遥か遠い目をしていそうだ。記憶を遡れないほど客が来ない店というのは相当だし、借金取りに取り立てられていたというのも相当だ。この店大丈夫なのだろうか。そもそもどういうお店なのだろう。喫茶店のように見えるけど、喫茶店でバイトをしたことがある身とすれば違う。普通お店なら中に入れば商品なりなんなりがあるはずなのに、ここには何屋なのか連想できるものが一切ないのだ。