男は一瞬真顔になり、そのあとで笑った。


「そうか。それなら仕方ない。悪かった」


 まさか店長の言葉なら解放してくれるのだろうか、などと甘いことを一瞬でも思ったのが馬鹿だった。

 男の手が私の体を思い切り押した。私の体はその力に対抗できず窓から投げ出される。咄嗟に伸ばした手は無情にも(くう)を切った。


 ──あ、落ちる。


 〝あなた近いうちに落ちるわよ〟

 思い出したのはあのときの白蛇のあやかしに言われた言葉だった。


「っ!」


 だけど私の体が地面に落ちきることはなかった。店長が手が伸ばして私の服の袖を間一髪のところで掴んでいたのだ。そしてそのまま引き上げる。腕を掴んだ方が遥かに引き上げやすいのだろうけど、そんなことは物ともせずに軽々と引き上げてしまった。私は畳の上にへたりと座りこむ。鬼の男しかり店長しかり、あやかしは人間では考えられないような力を持っている。

 軽々と引き上げたくせに、店長の表情には焦燥のようなものがあった。


「大丈夫か!?」

「は、はい。何とも」


 ただ心臓が痛いほど早鐘を打っている。


「そうか。…………おい遊佐ァ。テメェのそのご自慢の黒角をうら若き乙女に好評の桃色に変えてやろうか。喜べ。それはそれは愛らしく美しい色だぞ」

「それは勘弁願いたい」

「願いたいなら出ていけ」


 店長が助けに入るところまで想定内だったのかは分からないけど、鬼の男は私が助かったことに対して特に不満を見せなかった。店長が私を引き上げる邪魔をしようと思えば出来たはずなのにそれをしなかったということは、そこまでして私を害したいという意思もなかったのかもしれない。男は店長の言葉に笑い返すとそのまま踵を返して姿を消した。


「今のは実に色屋らしい脅し文句でしたね」


 そんな第一声。何を言うか考えるより先にそんな言葉が口をついて出ていた。もっと他に言うべきことがあるはずなのに。


「本当に大丈夫なのか?怪我はないか?」

「はい。店長が助けてくださったお陰でこの通り五体満足、元気です」

「腕は」

「ああ、大丈夫ですよ。そのうち消えます」


 男に強い力で掴まれていたせいで手首にくっきりと跡が残っていた。

 だけどこれくらい怪我のうちに入らない。元よりあのとき店長が助けに来てくれていなければ自分から窓から飛び降りて逃げるつもりだったのだ。その場合運が良ければ骨折、悪ければ洒落にならない大怪我を負うことになっていただろう。白蛇の予言通りにならなくてよかった。


「あ、服の袖は見るも無残に伸びてしまいましたけどね」


 強い力で引っ張られたせいでヨレヨレになってしまった袖を見せて冗談めかして笑った。私の予想ではそれに対して店長も一緒になって笑うか呆れるかしてくれて場の空気が和むはずだったのに、店長は笑いも呆れもしなかった。

 トラウマ克服訓練で常に店長の機敏に注視してきたお陰か、目隠しをしていてもそこに隠された表情が分かるようになってきた。だから今、店長が酷く強張ったような顔をしているのも分かっていた。それは克服訓練中にも見せなかったような顔だ。

 だから聞かずにはいられなかった。


「店長こそ大丈夫ですか?」


 と。声をかけるとほぼ同時に鼻を啜る音が聞こえた。


 ──え、泣いてる!?


 さすがに布の下で泣かれては分からないけど、鼻が少し赤くなっている気がする。だけど今店長が泣く理由とは一体。さすがに今ここで泣いているのではと指摘するほど空気が読めなくはないので理由は聞けない。心配して泣くとかそういうタイプには見えなかったんだけど。

 大きな店長が今は小さく見えて不覚にもグッと来てしまった。何だろう。何だかとてももどかしい。


「山岡」

「は、はい!」

「お前さんがいなくなるならそれはお前さんがここのアルバイトを辞めたときだ。それ以外の消え方はやめろ。許さん」

「えっと、それは心配の言葉と受け取っていいですか?」

「お前さんがそう思うならそうだ」


 死にかけたことに対する心配と思っていいのだろう。


「分かりました。ではそう解釈します。そう解釈した上で返事をするなら『はい分かりました』ですね」

「素直でよろしい」

「お父さん通り越して先生ですか?」

「なんだそれ」


 店長がくすりと笑う。良かった笑ってくれた。


「店長、助けにきてくださって──守ってくださって本当にありがとうございました」


 ぺこりと頭を下げる。そこからは余りにも自然な流れだった。自然すぎてそこにあった違和感なんて忘れていた。店長が私を抱き締めていた。その温かさに張り詰めていた緊張の糸が切れてしまい今になって体が震えてきた。あれ、実は私結構怖かったらしい。冗談を飛ばせるくらいには平気だったと思ったのだけど、案外脆かったのか。知らなかった。

 店長は抱き締めたまま何も言わない。私も何も言えない。それは必然的な沈黙だった。