天錦城(てんきんじょう)は、琴都の北側の多くを占める広大な城だ。
宇国の建国前後に建てられ、康国は名だけを変えてそのまま用いている。三百五十年もの間、中原北部の政治を担ってきた場である。
 政治機関の集まる外城(がいじょう)に、皇帝の住まう内城(ないじょう)からなっている。
 内城とは、いわゆる後宮を指すのだが――
(まだ、悪い夢を見てるみたい……)
 翠玉(すいぎょく)は、その後宮のど真ん中にいる。
 清潔な寝具に包まれ、部屋には柔らかな朝日が差していた。
 ここは斉照殿(せいしょうでん)。後宮の北側にある皇帝の住まいだ。その斉照殿の裏にあるいくつかの部屋のうちのひとつである。
(いつもなら、もう屋台で働いている時間だ)
 昨夜、翠玉は啓進(けいしん)と取引をした。
(結局、頷いてしまった。……なんて大きな取引をしてしまったの)
 今更ながら、頭痛がしてきた。
 自由が欲しかった。ただ、ただ、自由が。
 子欽としばしの別れを惜しみ、長屋の管理人と、張太太(ちょうおくさん)の屋台への連絡を頼んだのち、ひとりで馬車を下りている。
 馬車が停まっていたのは、天錦城の外門の前であった。
 もう辺りは暗く、全容はわからないが、どこまでも塀が続いているのだけは理解できた。とにかく広い。
 ぽかん、と口を開けて立ち尽くす翠玉を迎えたのは、深緑(しんりょく)色の袍の宦官で、清巴(せいは)と名乗った。いく筋か髪に白いものの混じる、落ち着いた雰囲気の人である。斉照殿づきの中常侍(ちゅうじょうじ)で、事情をすべて把握する数少ない人物のひとりだそうだ。
 昨夜のうちに彼からいろいろな話が聞けたのは、外門から、この斉照殿にいたるまでの道が長かったからである。三つの門と、多くの建物の横を、ひたすら歩き続けた。
 そうして、この斉照殿の裏の部屋にやっと到着した時だ。
 清巴はまじまじと翠玉を見つめた。上から下まで。特に、頭のあたりを。
「本当に、江家の者でございますか?」
 清巴は、そう問うた。
「はい」
 翠玉は、素直に答えた。
「……本当に? あの、江家ですか? 三江(さんこう)の?」
 清巴が、もう一度確認してきた。
 江という姓自体、中原では珍しくない。三江とは、三家の江家と、それ以外を区別する際に用いられる呼称である。
「はい。あの江家です。三江の」
 二度聞かれれば、二度答えるしかない。
 偽称は罪だ。宋家の本拠地で、そんな大胆な真似はしたくなかった。
「その……(つの)は?」
「角? 角でございますか?」
「いえ、いえ、なんでもありません」
こほん、と咳払いをしてから、清巴は下がっていった。
それから、三人がかりで風呂に入れられた。花の香りのする風呂に入り、身体から髪まで――やけに頭だけ念入りだったような気はするが――洗われ、用意された真っ白な寝間着に着替えた。
そうして、きしまない丈夫な牀に入り――今に至る。
天井が、広い。広いだけでなく、格子になにやら複雑な模様が描かれている。柱にまで装飾が施されていた。大きな窓にもきらびやかな金糸で刺繍された布がかかり、なにもかもが目の眩むほど美しい。
(これが、二百年前に勝った宋家の住まい……)
 下町の長屋とは、まったくの別世界だ。
 シュ、シュ、と音がする。
 重なった雲が彫られた衝立の向こうから、衣ずれの音が聞こえてきた。
(相部屋だったのね。気づかなかった)
 昨夜は、とにかくバタバタとしていて、なにを考える余裕もなかった。
 一晩同じ部屋にいたというのに、まだ、挨拶さえしていない。
「――はじめまして。私、翠玉と申します」
 翠玉は、衝立の向こうに声をかけた。
 姓は口にせぬよう、と昨夜のうちに清巴から釘を刺されている。
 シュ、シュ、と音は続くが、返事はない。
(挨拶は、着替えを済ませてからにしよう)
 牀の横に、瀟洒な棚が置いてある。
 春霞の桜を思わせる、落ち着いた淡紅(あわべに)色の着物と袍だ。高価そうな品である。
 気おくれしそうになるのを、ぐっと踏みとどまる。
(三家の雪辱のためだ)
 父は、翠玉に礼儀作法を厳しく教えた。膨大な占術の知識だけに偏らず、子の教育に情熱を傾けていた。いつか来る、その日のために。
 父は祖父から、祖父はその父から――二百年、いつか罪と則から解放され、貴族に復する日が来ると信じていた。
 まさに、今が好機。着物ひとつで怖気づくようでは、二百年の雪辱など不可能だ。
(堂々としていればいい。……それにしても、この帯はどう結べばいいの?)
 意気込んで身支度をはじめたものの、作業は遅々として進まない。
 そこに「失礼します」と外で声がし、扉が開いた。
 入ってきたのは、女官がふたり。翠玉が格闘している着物と同じものを、隙なく身に着けている。
 どちらも四十歳程度だろうか。継母と同じくらいの年代に見えた。
 衝立の向こうにひとりが向かったので、ひとりずつ、女官がつくものらしい。
「おふたりは、陛下が直接招かれた賓客。ご滞在中は、我々がお世話をさせていただきます。佳雪(かせつ)、とお呼びください」
 女官は、てきぱきと翠玉に着物を着せ、帯を締め、袍を着せた。終わると、すぐに髪を結いはじめる。
 さすが後宮の女官だけあって、なにをするにも物腰が優雅だ。それに、都の言葉もなめらかである。父の影響で、言葉に南の訛りのある翠玉には、眩くさえ見えた。
「佳雪さん、この桜色の装束は、斉照殿の制服なのですか?」
「魔除けでございます。枝垂桜(しだれざくら)は、破邪(はじゃ)の力を宿すもの。皇帝陛下のお住まいたる斉照殿の女官は、すべて同じ装束をまとっております」
 魔除け、と聞くと、美しい袍が、いっそ神々しく見えてくる。
 髪も、同じ型にする決まりがあるようだ。高いところにぐっと持ち上げ、少し膨らませて(かんざし)で留めるのは、佳雪がしているのと同じである。
 その、釵を留める段階で、佳雪は手を止めた。
「……どうしました?」
「いえ……あの、角は……」
「角……ですか?」
 翠玉は、首を傾げた。
「なんでもありません。今、お食事をお持ちします」
 慌てて、佳雪は会釈をして下がった。
 衝立の向こうで作業をしていた、もうひとりの女官と合流し、扉の外でなにやらヒソヒソ話をしている。
(角って……なんのこと?)
 不思議には思ったが、こちらの耳に入れたくない内容ではあるのだろう。考えるだけ損である。
 間もなく、食事が運ばれてきた。
 干貝の香りのする、椀にたっぷり入った粥を一匙食べ、ふぅ、と吐息をもらす。
 屋台で食べる、雑穀の混じった粥とはまったく別物だ。 添えられた小皿の青菜も、しゃきしゃきとした歯ごたえがあって、香りがいい。
 量は十分あったのに、あっという間に平らげてしまった。こんな満ち足りた気分で朝食を終えたのは、記憶の限りではじめてだ。
(あぁ、美味しかった)
 衝立の向こうでかすかに聞こえていた、器と匙のぶつかる音も止まっている。
(あちらにいる方は、どなたなのだろう)
 部屋も同じ。待遇も同じ。
 同じ目的のために集められた、とは考えられないだろうか。
(もしかして、私と同じ三家の誰か? もしかして……異能を?)
 どきり、と鼓動が跳ねた。
「あ、あの……」
 思い切って声をかけたところで、トントン、と扉が鳴った。
「おはようございます。おふたりとも、ゆるりとお休みになられましたか?」
 入ってきたのは、清巴である。昨夜も思ったが、宦官だけに声が高い。
「おはようございます、清巴さん。お陰様で、ゆっくり休めました」
「それはなによりでございます。よろしければ、斉照殿をご案内いたしましょう」
「助かります。呪いを――あ、これは口にしても大丈夫ですか?」
 翠玉は、ハッとして自分の口を袖で押さえた。
「構いません。斉照殿に務める者は、離宮から移ってきた者ばかりです。兄君と弟君は、おふたりとも、琴都の西にございます離宮でお生まれになり、ご即位までお過ごしに  なられました。おふたりの秘密も、呪いの件も、今、兄君が身代わりをお務めになられていることも、斉照殿の中でだけは共有されています」
 ほっと安堵し、口を押さえていた腕を下げた。
(先帝陛下は、本当に信じられないような無茶をなさっていたのね)
 いずれどちらかが死ぬのを前提に、双子をひとりの皇太子として育てる――とは、いかにも無理筋だ。
 そんな無茶を長年貫いてきた側近たちが、この斉照殿を守っているらしい。
「宦官も、この深緑の袍をまとっているのは斉照殿の者だけ。深緑の袍と、桜色の袍。魔除けの枝垂桜の装束は、秘密を知る者の証しでございます」
 さしずめ、秘密を共有する精鋭部隊に客分で迎えられた、といったところか。
 翠玉が「よろしくお願いします」丁寧に挨拶をすれば、清巴も同じように返した。
「あぁ、清巴さん。部屋を出る前にひとつ、確認させてください。陛下をどのように呼び分けすればよろしいですか? 兄君、弟君と?」
 兄は、長屋を訪ねてきた方だ。
 弟が、呪いを受けて倒れた方。
 陛下と呼ぶべきは弟だが、いかんせん、倒れた件は伏せられている。今、政務を行っているのは兄だ。実にややこしい。
「先帝陛下のご子息は、啓進様おひとり。本来は、兄も弟もございません。(いみな)も、(あざな)もひとつきりでございます。それゆえ我々は、必要に応じて、兄君を明啓(めいけい)様、弟君を洪進(こうしん)様、とお呼びしております」
 まぁ、と翠玉は小さく声を上げていた。
 (そう)啓進、と長屋で名乗った字は、兄弟で共有していたものだったらしい。
 すると、昨夜、翠玉に「妻になってくれ」と言った兄は、明啓と呼ぶべきなのだろう。
(どちらかが呪いで死ぬから、名もひとつきりなんて。……信じられない)
 姓は、己の属する家を示すもの。
 諱は、生まれた時に親から授かるもの。外には明かされない。
 字は、常の暮らしで用いる通称である。人と関わるには不可欠なもののはずだ。
 豪奢な家屋も、正しい教育も、美食もそろっているのに、固有の字を持ってはいない。なにやら、歪である。
「では、今、明啓様は外城で政務をされていて、洪進様は――」
「斉照殿の中庭にある、桜簾堂(おうれんどう)でお休みになられています。本日、ご政務が終わられましたら、兄君の明啓様がおふたりをご案内します。今、桜簾堂では――あぁ、大事なことをお伝えし忘れておりました。秘密を知る者が、斉照殿の外にもおります。我らと同じ袍の色の、祈護衛(きごえい)に属する者たちです。昼夜問わず、彼らが桜簾堂で洪進様をお守りしています」
(祈護衛……そんな組織があるのね)
 その名前から想像するに、祈祷の類を行う部署なのだろう。
「祈護衛、というのは、呪詛を扱う部署なのですか?」
「宋家を――呪詛からお守りするべく、建国と同時に発足した部署でございます」
 言いながら、清巴は翠玉から目をそらした。
 呪詛、と口にする前の躊躇いの理由は想像できる。
(三家の呪いから皇帝を守る部署、とは、さすがに面と向かっては言わないのね)
 そちらは気まずいのだろうが、こちらは堂々としたものである。
 なにに憚る必要もない。三家の呪いなど、存在しないのだから。
「是非とも詳しくお聞かせください。私は、宮廷に伝わる三家の呪いをまったく存じません。祈護衛に、呪いに関する資料などはありますでしょうか? あぁ、お気遣いなく。三家の呪いは存在しません。絶対に。あくまでも、呪いがどのように伝わっているのか確認するため――」
 その時、突然大きな声が、部屋に響いた。
「白々しい!」
「え……?」
 部屋を仕切る衝立の向こうから、人が飛び出してきた。