――昨年の暮れに、清巴がこの邸を訪ねてきている。
新しい廟に不備がないか、報酬は間違いなく届いたか、など。
今も清巴は、斉照殿で中常侍として働いているそうだ。
ただ、斉照殿の顔ぶれは半分以上が変わったと言っていた。祈護衛に情報を流した者は、処罰をしない代わりに遠ざけた結果らしい。
洪進は健康を取り戻し、精力的に政務に励んでいるそうだ。
夫人がたの位階についても、話をしてくれた。
周夫人が皇后に。姜夫人は貴妃に。予定どおり決定したそうだ。
夫人たちから手紙まで受け取った。翠玉も、その場で手紙をしたため、清巴に手渡している。
冷宮に入った徐夫人のことは、尋ねなかった。知ったところで、なにもできない。
刑部尚書の職権を濫用した徐家の当主は、一年の蟄居の上降格処分になったそうだ。
江家と劉家への襲撃を企て、失敗ののちは雇った男たちを秘かに殺害。さらに祈護衛に罪を着せて処刑しようとしたのが、徐家の当主だったと明らかになったためだ。
祈護衛の衛官たちは、竹簡などの処分を終え、年明けには全員が内城を出ることになったという。もう関わることもない。あまり詳しい話は聞かなかった。
――明啓様は、縁談をすべてお断りになっておられます。
清巴は、最後にそれを笑顔で伝えて帰っていった。
「姉上様」
ぼんやり窓の外を見ていたところに、ひょっこり子欽が顔を出す。
「まぁ、子欽。今日は早いのですね」
学問所は、二夕の刻までのはずだ。ずいぶんと帰りが早い。
庭から、ぐるりと回って子欽が扉を開けて入ってくる。
「ただいま帰りました。――どうしました? ぼんやりとなさって」
「なんでもありませんよ。――お帰りなさい」
子欽が拱手の礼をして、翠玉は膝を曲げて礼を返す。
すっかり背の伸びた子欽は、目の位置がもう翠玉よりも高い。
「今日は、魯老師にとても大事な用があるというので、早帰りです。なんでも、これから思い人のところに求婚に行くのだとか」
「あら、それはめでたいですね」
「向かう先は、隣の――劉家だそうですよ」
子欽が笑っている。
学問所の魯老師といえば、博学な学者だ。髪に白いものがちらほらとある、若いとはいえない年齢だったように記憶している。
「まぁ、それはそれは……二重にめでたいお話です」
李花の弟たちは、子欽と同じ学問所に通っている。その縁が、ふたりを結びつけたらしい。
喜ばしいことだ。翠玉は笑顔で「よかった」と祝福する。
だが、その笑顔も、
「実は、今しがた、この邸にも同じ用向きでいらした方がおられます」
子欽の言葉で吹き飛んだ。
「え? 同じ用向き? まさか、きゅ、求婚ですか?」
「姉上様に求婚を、と」
「嘘でしょう? 片っ端から断って、とお願いしていたのに!」
求婚まで話が進んでしまうと、断る手間が増える。
打診の段階で断ってくれ、と伯父にも従兄にも言ってある。従兄の新妻にも、事あるごとに頼んであった。
「さすがに、伯父上も断れないと思いますよ。大層な貴人ですから」
子欽は、笑っている。
「貴人?」
「はい。もうすぐこちらにいらっしゃいます」
「貴人って、まさか……」
「姉上様が幸せならば、私も幸せです。これまで身を粉(こ)にして私を育ててくださったことに感謝は尽きません。けれど、やはり姉上様ご自身の幸せを、大事にしていただきたいのです。父上も母上も、きっとこの縁談を喜ぶと思いますよ」
では、と頭を下げて、子欽は出ていった。
子欽が、こんなことを言う相手など、ひとりしかいない。
(待って。そんな……急に……)
すとん、と椅子に腰を落とし、だが落ち着かずにまた立った。
うろうろと部屋の中を歩きまわり、熱い頬を押さえる。
――出会って、たった数日。
明啓と過ごしたのは、初夏のほんの一時期だ。
同じ目的に向けて、手を携えた。非日常の特殊な環境だったのだ。
だから、怖い。すべて夢だったのではないか、と思えることさえある。
とんとん、と扉が鳴った。