「冤罪です!」
翠玉は、馬車が止まった途端、叫んだ。
「三家の末裔を始末すれば、呪いは解けると信じる者がいるのだ」
「殺して済むなら、二百年前に全員殺していたはずです!」
「一理ある」
啓進は、肩をすくめた。
こんな騒ぎのあとだというのに、実に涼しい顔をしている。
(なんてこと。……もう、あの家には戻れない)
たしかに江家は特殊な家だ。それは認める。
翠玉が、多少の異能を、存命の一族で唯一継いでいるのも事実である。
だが、それゆえに命を狙われようとは思わなかった。
「無事ですね? 子欽」
翠玉が、隣にいる子欽に聞けば「はい」としっかりした返事が返ってくる。
ついさっきまで、いつもどおりの一日だった。五月にしてはやけに暑かったくらいで、屋台に来る客も同じ。張太太からの見合い話も、珍しくはなかった。
なにも起きてはいなかったのだ。この――目の前にいる貴人が、長屋の扉を叩くまでは、なにも。
(どうしてこんなことに……)
啓進は「弟か?」と子欽を見て確認した。
翠玉より先に子欽が「はい」と答える。
「子欽に江家の血は入っておりません。私の生母が亡くなったあと、実父と継母が再婚いたしまして、子欽は継母の子でございます。もちろん、異能とも無縁です」
「事実であろうと通じまいな。江家には姉と弟がいる、と報告を受けている。諸共狙われたのだろう」
翠玉は、頭を抱えた。
頭に被っていた黒布はもうない。夢中で逃げるうちに、落としてしまったらしい。乱れた髪が、頬にかかる。
「江家は、呪詛など行っていません」
「冤罪の晴らし方は世にひとつしかあるまい。――真犯人を見つける。それだけだ」
啓進の言葉にパッと顔を上げ、だが、すぐに重いため息をついた。
「簡単におっしゃらないでくださいませ。……明日からどう生きれば……いえ、それどころか、今夜寝る場所さえ失いました。呪いにまで頭が回りません」
江家の者だと露見する度、祖父も父も、すぐ居を移していた。
だが、貧しい村や治安の悪い都市に、占師の仕事はない。それに、郷試対策の学問を、地方で受けるのは難しいのだ。
身ひとつで琴都を追われる過酷さが、この貴人にはわかっていない。
(わかるはずがない)
人目がなければ、きっと泣き伏していた。
しなかったのは、子欽がそこにいたからだ。継母の葬儀の時、誓った。彼の前で二度と涙は見せない、と。
「ひとつ提案がある。ひとまず、貴女の弟は安全な場所に(かくま)っておこう。私塾に通っているのだったな? 学問は休めんだろう。よい師匠をつけてやる。安心しろ」
翠玉は、目をぱちくりとさせ、次にスッと細めた。
「なにが目的ですか?」
気味の悪さを、翠玉は感じている。
この青年の思惑は、まだわからぬままだ。
「そう警戒するな。貴女の弟の件は、安心してもらうための地ならしだと思ってくれ。力を借りたい。なんとしても皇帝の呪いを解きたいのだ。陛下に死なれては困る」
それは、さぞ困るだろう。なにせ天命を受けた唯一無二の皇帝だ。
二百年にわたって冷や飯を食わされ、今になって皆殺しされかけている三家の人間とは、命の重さがまったく違うのだろう。理解はできる。腹は立つが。
「そんな取引が、成立するとお思いですか? よりによって、なぜ三家の私に? 貴人を助けようとする人は、星の数ほどおりましょう」
「気持ちはわからんでもない。このまま皇帝が死ねば、貴女の憂さは一瞬だけ晴れるだろうが、その後に待つのはいっそう悲惨な末路だけだぞ」
「別に溜飲など下がりません。三十三人目の子が亡くなれば、呪詛の主が誰であれ呪いは終わります。わざわざ、三家の末裔を刺激して、新たな呪いを生み出す愚は犯さないでしょう」
翠玉は「その手には乗りません」とつけ足した。
突然、ははは、と啓進が笑いだす。
「江家の姫君は、なかなかの知恵者だな。頼もしい限りだ」
「姫君ではありません。庶人に落としたのは、他でもない宋家でございましょう」
笑いを収め、啓進は身体をわずかに乗り出した。
端正な顔が、ぐっと近づく。
涼やかな香りが、かすかに濃くなった。
「こう考えてくれ、江翠玉。俺は、皇帝にかけられた呪詛を解きたい。貴女は、三家の罪と則を撤廃したい。――秤にかけて、つりあうか?」
翠玉は、腕を組んで考え込む。
感情だけで動けば、今すぐこの馬車から飛び出したいところだ。
だが、子欽がいる。
琴都内に、廟を守る伯父はいるものの、頼るわけにはいかない。継母の葬儀の時に、江家の血を継がぬ者の面倒は見ない、と突き放された。
自棄(やけ)になってはいけない。冷静に……冷静に……)
翠玉が思案している間に、それまで黙っていた子欽が口を開いた。
「姉上、ご心配には及びません。こちらの啓進様のご厚意、ありがたくお受けしたいと思います。決して、姉上の足手まといになどなりませぬ」
「子欽……」
「皇帝陛下をお助けするなど、義父上が聞けば泣いて喜びましょう。これほどの名誉はありません。罪と則から解放されれば、三家は決して罪人などではなく、忠を知る者だと世の人々に知らせることができます」
キラキラと輝く瞳は、純粋である。義理の父親を敬愛していた子欽は、江家の忠実さを知っているのだ。
子欽の言葉に、啓進は「よく言った」とうなずいた。
「呪いを解こうにも、俺には呪詛のことなどまったくわからん。貴女が必要だ。そのためならば、三家の則と罪を撤廃するのに躊躇いはない」
翠玉は一度うなずき、だが、すぐに首を横に振った。
「申し出は魅力的ですが、不可能です。呪いとは、人の気を乱すもの。触れねば気は読めません。皇帝陛下がいらっしゃるのは天錦城。到底、届きはしません」
ふいに、啓進が身体を前に傾けた。
そのせいで顔がずいぶんと近くなる。
「では――俺の妻になればいい。そうすれば道は開ける」
あたかも、よい解決策でも提案するかのように啓進は言った。
目をぱちくりとさせたあと、
「嫌です」
翠玉は即答する。
「俺の妻になれば、皇帝に会える」
「意味がわかりません」
「後宮に入ることができる、と言っているのだ」
「私とて、後宮がどういう場所かは存じています。後宮は、皇后陛下と妃嬪(ひひん)――皇帝陛下の妻女の皆様がお住まいになる場所です」
また啓進が笑い出したので、いよいよ翠玉は(まなじり)を吊り上げた。
「いや、笑ってすまない。貴女の占いは素晴らしいな。たしかに良縁だ。正直、もうなにもかもが終わりかと絶望していたが、貴女に会って、道が開けたように思う」
「良縁? こんな時に、よくそんなくだらない話ができますね!」
「くだらないものか。こちらも人生がかかっている。――本来は俺が三十三人目の子のはずだったのだが……倒れたのは弟だった。半月後に死ぬはずだった俺は生きていて、今は弟の身代わりを務めている」
「双子……? え? ちょっと待ってください。貴方は――」
「康国第十五代皇帝の兄だ。呪いを恐れた先帝の計らいで、我らはひとりの皇太子として育てられた。双子であると知る者はわずかしかいない。秘中の秘だ」
ぽかん、と口を開けてしまった。
貴人どころの話ではない。――皇帝の、兄。
これほどの貴人が、他にいるだろうか。
「嘘……」
「俺は、弟を助けたい」
「お待ちください。それで、結婚というのは――」
「後宮に入るには、皇帝の妻になるのがてっとり早いと思ったのだが……どうしてもと言うならば、ひとまず、女官として後宮に入ってもらおう」
「できません。三家の末裔は、公職には就けませんので。お忘れですか?」
「私的な取引だ。俺の一存でなんとかする。もちろん、呪いの件が片づけば、晴れて貴女は自由の身だ。報酬も約束しよう。下馬路で同じ日数働くよりも間違いなく高額だ。琴都に百人いる看板娘ではなく、中原随一(ずいいち)の占師に仕事を依頼するのだからな」
今更ながら、頭痛がしてきた。
だが、ここで断る手はない。
いい加減、二百年続く首枷にも飽き飽きしている。
三家の冤罪を晴らす。そんな機会はもう二度とないだろう。
自由がほしい。なんとしても、自由が。
「わかりました。お受けしましょう」
翠玉は固い決意のもと、啓進との取引に応じたのだった。