――淡々と、蟲を掘り起こす作業は進んでいった。
「翠玉。少し時間をくれ。陛下が。貴女と話をしたいそうだ」
明啓に言われ、翠玉は輿に近づいた。
「お騒がせいたしましたこと、心よりお詫び申し上げます」
膝をつこうとしたが、洪進に「そのままで」と止められた。
「無茶をしたものだな。貴女は、呪詛は自分がしかけたと言ったとか。……因縁の相手であろうに。祈護衛が憎くはなかったのか?」
洪進が、細い声で問うてきた。
三家を族誅に導いた呂氏は、たしかに、憎い。呂衛長の口から出た罵詈雑言が、どれだけ翠玉の心を傷つけたかわからない。よりによって、あんな相手を命がけで助ける羽目になるとは思っていなかった。
だが、そうするしかなかったのだ。
あの時の翠玉には、他の道が見えなかった。
「因縁は、どこかで断ち切らねば終わりません。できる者が、できる時にすべきことと存じます。あの時、呂氏を見殺しにしていれば、新たな因縁が生まれていたでしょう。――騒ぎが大きくなれば、明啓様が見つけてくださると信じておりましたし」
洪進は、明啓と翠玉を、ゆっくり交互に見てから、かすかに笑んだ。
「……そうか。貴女たちの働きには、必ず報いよう」
「もったいないお言葉でございます。――洪進様、どうぞ斉照殿へお戻りを。間もなく焼かれるとはいえ、蟲の近くにおられますと、お身体に障ります」
「そうさせてもらおう。明日、使いを出す。今日は翡翠殿で休んでくれ」
洪進の合図で、輿が動き出す。
輿が去ったのち、応援の衛兵が、どっと槍峰苑に入ってくる。
池の水が堰き止められ、次々と桶で運ばれていく。
衛兵たちに指示を出し終えた明啓が、近づいてきた。
翠玉は、その高いところにある顔を見上げる。
「仮初の主従関係も幕引きだな。――言葉に尽くせぬだけ、感謝している」
「短い間でしたが、お仕えできて光栄でした。廟に眠る父や祖父も、きっと涙を流して喜んでおりましょう」
呪詛の主は明らかになった。
翠玉は役目を果たし、明啓はすでに罪と則を撤廃した。
短い、そして奇しき縁も、ここで終わりだ。
「もう行かねば。後宮に、皇帝の兄はいられない」
「――はい」
後宮は、皇帝以外の男子は立ち入れぬ場所だ。
皇帝の兄と、名誉を回復したばかりの江家の娘。
これからはじまる新たな日常の中に、お互いの姿はない。
「翠玉。……明日、弟はそなたに入宮の打診をするだろう」
「……明啓様……私……」
「その……答えを出すのは、貴女であるべきだと思う。貴女を思う気持ちは、他の誰にも負けはしないつもりだが、皇帝の妻ばかりは奪えない。だから、入宮だけはしないでほしい。我儘は百も承知だ」
不器用な明啓の言葉に、翠玉は小さく笑んだ。
きっと明啓は、慣れていないのだ。この恋とでも呼ぶべき感情に。
翠玉も同じだ。だからわかる。
もっと時間をかけて、ゆっくりと育む感情のはずだ。だが、出会いは突然で、時間も短く、別れも唐突にやってきてしまった。
「明啓様こそ、内城から一歩外に出た途端、縁談が山ほど舞い込みましょう」
突如現れた先帝の息子だ。放っておいても、美しく、背のすらりと高い、楽器をよくする良家の娘が、列をなすだろう。
翠玉の、嫉妬じみた感情など、きっと明啓にはわからないだろう。
「なんの障害にもならない。俺が共に歩みたいのは貴女だけだ。必ず、迎えに行く。どうか待っていてくれ」
あまりにまっすぐな言葉に、泣き笑いの顔になる。
明啓を愛おしく思う気持ちは、結局、恐れていたよりもずっと深くなってしまった。だが、もう今は怖くない。
「気長に、お待ちしております」
翠玉は、丁寧に頭を下げた。
明啓は、慌ただしく去っていく。その背を、翡翠殿で夫婦の真似事をしていた時と同じに見送った。
遠くで「あったぞ!」「こっちも見つかった!」と声が聞こえる。
清巴が許可を出し、その場で火が焚かれた。
ひとつ、ふたつと、蟲は焼かれて消えていく。
焼かれる度に、きゅう、きゅう、と小さな鳴き声が上がり、衛兵たちは震えあがっていたが、皆、果敢にも耐えた。
やっと終わった、と一同が安心したのも束の間であった。徐夫人は、全部で四つだ、と言ったが――昼過ぎに四神賽を用いたところ、紅雲殿の中庭で、五つめの蟲が見つかったのだ。
翠玉を呪った時のものだろう。庭の天幕を警戒したのか、時間がなかったのか。そのひとつだけは自身の房の中庭を使ったらしい。
効かぬ呪詛なので放置したのだろう、と翠玉は思ったが、李花は「効かぬとわかってもなお、寵姫への呪詛を続けたかったのだろうか」と徐夫人の怨念の強さを恐れていた。
真相は知れない。
そうして――最後の蟲も無事焼かれた。
翠玉と李花は、その日、翡翠殿で休息を得た。
泥のように眠り、翌朝になって、床払いをした洪進に拝謁している。そして、蚕糸彩占によって、呪詛が消えたことが明らかになった。
白い炎は上がらなかった。後宮を襲った呪詛は、去ったのである。
糸を撫でた三度めに現れた色は、濃紫色。高位に上る兆し、もしくは、深い喪失を示す色――奇しくも徐夫人の未来に見えたのと、同じ彩りであった。