天幕を侍女がまくり、鮮やかな紅色の袍の徐夫人が姿を現す。
 大きな花の髪飾りをつけ、華やかに化粧をした姿は、やはり女神のように美しい。
「一体、こんな時間に何事――どうして……どうして、この女がここにいるの!?」
 徐夫人が、不快さもあらわに、美貌を歪めた。
 衛兵が「呪詛から夫人がたをお守りするべく――」と事情を説明しようとした。
「黙りなさい! すぐにこの女を連れていって! 早く!」
 徐夫人は、天幕を揺らすほどの声で怒鳴った。
 動揺は好都合。翠玉は、負けじと大きな声を出す。
「なにをおっしゃいます! 私が施した呪詛は、命をも奪う危険なもの! 私が愚かでございました! さ、せめてもの罪滅ぼしに、呪詛を解かせてくださいませ!」
 呪詛は、三家の血を持つ者には無効。
 呪詛が行えるのは、陶家の者だけ。
 茶番である。誰より徐夫人がよくわかっているだろう。
「連れていって! 早く追い出しなさい!」
 徐夫人は、自分の横にいた侍女の背を叩いた。
「呪詛を解かせてくだいませ、徐夫人。それとも――なにか不都合なことでも? いえ、まさか! かけられた呪詛を解くなとはおっしゃいませんよね?」
 翠玉は、衛兵に「徐夫人の呪詛から解いて参ります」と断って、前に進んだ。
 ゆるやかな曲がり路は、牡丹に囲まれている。
 花を背にした徐夫人に一歩、また一歩と近づく。
 徐夫人の白い顔は、見る見るうちに紅く染まっていった。
 ここで姜夫人が「まぁ怖い! 早くしてくださいな!」と彼女らしからぬ悲鳴じみた声を上げ、周夫人も「早くなさって! 怖いわ!」と芝居がかった調子で続いた。
 翠玉は懐から、四神賽の入った小箱を取り出す。
 衛兵がぎょっとしていたので「呪詛を解くのに使います」と説明しておいた。
「近寄らないで! あっちへ行って!」
「呪詛を解くだけでございます。ご安心ください」
 青ざめた徐夫人は、くるりと背を向け、天幕に向かって走り出す。
 カーン……
 一暁の鐘が鳴った。
(もう、時間がない!)
 一刻後には、祈護衛の処刑が執行されてしまう。
 逃げようとする夫人の行く手を、姜夫人の侍女たちが素早く阻んだ。
 姜夫人の侍女たちと、徐夫人の侍女たちがもみあいになっている。
 徐夫人も窮しているが、翠玉も窮していた。
 賽を振る暇さえ惜しい。
 この時、翠玉の頭に浮かんだのは明啓の顔であった。
 涼やかで、高潔な、その姿。
(明啓様――)
 彼はいつでも、誠実だった。
 嘘などつかない。きっと。いや、決して。
「逆です! 徐夫人!」
 明啓は、嘘をついていない。
 だから――やはり逆だ。
「なにが逆ですって!?」
 キッと鋭く徐夫人がこちらを振り返った。
 少し傾いだ華やかな髪飾りを、手で押さえている。
「今、呪詛に倒れているのは弟君の方です!」
「――死にたいの?」
 ギッとにらみつける徐夫人の視線は、人をも殺せそうなほど鋭い。
「双子の弟は、先に母の腹から出た方ではありません。後に出た方なのです」
「なにを言っているの、貴女」
 不思議そうな表情で、徐夫人が翠玉を見ている。
 やはり――そうだ。
 南方出身の陶家に生まれた徐夫人は、双子の兄弟順を間違えている。
「逆なんです。南と北では、双子の兄と弟の順が、逆なんです」
「母の腹に、最初に生じたのが兄でしょう? 天の神が定めたじゃない。後から生じた弟に、場所を譲るからだって」
「斉照殿で女官の会話を耳にされた時、おふたりは兄君、弟君と呼ばれていたのではありませんか? 恐らく、即位された方が弟君だ、と」
 急な話の変化に、衛兵が割って入る。
「おい、なんの話をしている? お前が呪詛を解くんじゃないのか!」
 衛兵のうちふたりが、翠玉に長棒を向ける。その途端、
「控えなさい! 潘家のご息女ですよ! 縄目にかけるなど無礼が過ぎます!」
 姜夫人が一喝した。
「まさか……本物の……?」
 ひぃ、と悲鳴を上げ、衛兵たちは慌てて翠玉の縄を解きはじめた。