「バカバカしい。成立しません。私に、益がありませんもの」
姜夫人の提案を、徐夫人は鼻で笑って跳ね除けた。
くらくらと眩暈がしてくる。
理解ができない。縊り殺さんとする手の力を緩めるのに、理由は要らないはずだ。
取引を蹴られても、姜夫人は諦めなかった。
「宋家の後継者は少ない。先帝の時代からわかっていたでしょう? 陛下にご兄弟がいるのなら、王として新たに門を構えていただく方がよほど益になるはずです。呪詛を解くだけでいい。貴女も地位を失わない。悪い取引ではないでしょう?」
姜夫人が言えば、徐夫人は、
「新たな王が門を構えれば、貴女がいずれ産む子の帝位も遠くなるわよ? ねぇ、姜夫人。私と――取引をいたしません?」
歌うように言った。その口元には、すでに笑みが戻っている。
今度は、姜夫人の眉がぐっと寄った。
「取引などしません! 呪詛を解かぬならば――」
語気の強い姜夫人の言を、手をスッと上げて徐夫人は遮った。
「呪詛は、祈護衛の自作自演……ということでいかが?」
にぃっと徐夫人の唇が、三日月の形になった。
(風向きが、変わっている)
ぞくっと翠玉の背筋が凍った。
今、この場の流れを主導しているのは、間違いなく徐夫人だ。
「……筋書きは? どうするのです?」
「こうしましょう。祈護衛は、功を焦ったのです。ありもしない二百年の呪いから宋家を守っても、功としては地味。そこで狂言として呪詛を行い、三家の呪いだ、と派手に騒ぎ立てた。とはいえ、無関係の三家が申し開きなどしては都合が悪い。それゆえ、皆殺しにせよ、と声高に叫んだ――というのでいかがです?」
「甘い。それでは三家が絶えたのちも、呪詛が続くことになります。その矛盾はどう説明するつもりです?」
姜夫人は、いら立ちを細い眉に示している。
「新たな呪いを自ら生み出し、これを三家の怨念と断じて、次の二百年も禄を食もうとした……とでもしましょうか。狡猾な呂氏らしい動機ではございません?」
徐夫人の筋書きに、姜夫人は一定の満足をしたらしい。深かった眉間のシワは、もう消え、ゆったりとうなずいている。
「筋書きはわかりました。そちらの要求も聞きましょう」
徐夫人は、にこりと笑んだ。
実家から送られてきた菓子の話をした時と、変わらぬ華やかさで。
「目を瞑ってくだされば、それで結構。あと数日ではじまる新たな日常を、黙って受け入れればいい。本音を言えば、啓進様には私だけを見ていただきたいわ。貴女たちだって消したいのだけれど――あぁ、忘れないでね。人を殺すのは簡単。でも、どうせ消したところで、替えの女が入ってくるだけだから、殺さないであげる。でも、うるさい女は嫌いよ。これ以上ごちゃごちゃ言うなら、端から順に殺す」
姜夫人の表情に、明らかな動揺が走る。
動揺したのは、翠玉も同じだ。
(……できるの? 簡単に、人を殺せる?)
呪詛は、簡単なものではない。
小さな雑言でさえ、安易に吐けば我が身に返るものだというのに。
人を呪い殺して、呪詛の主が無傷なはずはないのだ。
(嘘だ)
嘘――のはずだ。人の為すこととは、到底思えない。
姜夫人は、いったん動揺を収めて、
「そのような真似、できるはずがありません」
と言い切った。
だが、徐夫人の笑みは崩れない。
「できるわ。望めば、そのとおりに。正しく呪えば、誰でも殺せますの。そう難しくはないのだけれど――私にしかできない。私だけ。母もできたけれど、もう死んでしまったから。今できるのは私だけ」
朗らかに、徐夫人は言った。
望めば、望んだとおり。
そう難しくはないけれど、自分にしかできない。
――占いは、容易い。
糸を結び、撫でるだけでいいからだ。
人には見えない気の色が、見える。翠玉にだけは容易かった。
(人にできぬことができる。自分以外は、親だけが――)
翠玉には、わかった。
「異能……」
その不思議な能力を、人は異能と呼ぶのだ。
徐夫人が、翠玉を見た。
「まぁ、よくご存じね。たしかに、人はそう呼ぶわ」
ざわっと全身の肌が総毛立つ。
「もしや――陶家の……貴女は、陶家の末裔ですか?」
「そうよ。最後の生き残り」
裁定者の占術。守護者の護符。そして――執行者の呪殺。
陶家の異能は、人を殺し得る。
もう、簡単に殺せる、と言った徐夫人の言葉を疑う理由はなかった。
言葉が、いったん途切れた。そのすぐあとに、
「――私、下りますわ。この件から手を引きます」
周夫人が、両手を軽く挙げて言った。
「え?」
姜夫人が、隣にいた周夫人の方を見る。
挙げた両手を下ろし、周夫人は肩をすくめた。
「祈護衛にすべての罪を被せて、終わりにしましょう。たしかに宋家の皇族の男子は多い方がいいけれど、我が身と、恩ある周家を危険に晒してまで止める理由はない。下りるわ、私」
ひらひらと周夫人は扇子を振り、一歩下がった。
(……まずい)
ちらり、と祈りをこめて姜夫人を見る。
だが、いったん崩れた陣形を立て直すのは難しい。姜夫人も、一歩下がった。
「こちらは石礫。そちらは毒矢。ここは撤退が上策ですね。徐夫人、ひとつ確認させてください。私は、私に流れる血ほど尊いものはないと思っています。もし私が先に懐妊したとして、その子を呪殺するような真似をするならば――」
「いたしません。お約束します。私とて、人を殺す手段が、呪詛以外にあることは存じておりますもの。毒でも盛られてはたまりません。殺されぬために殺さぬ――というところでいかがかしら?」
徐夫人の提案に、姜夫人と、周夫人がうなずく。
互いに、不干渉を貫く――ということで話はついたらしい。
ふたりの夫人は、そろってくるりと背を向けた。
すると、残るのは翠玉と李花だけになる。
(そんな……まさか、夫人たちが洪進様を見捨てるなんて……)
利害が完全に一致するのは我らだけだ――と言った明啓の言葉が、ひどく重く思い出される。
はっきりと、翠玉は命の危機を感じた。
ふたりの夫人は、去り際に、
「そこにいるのは、江家と劉家の末裔です」
「煮るなり焼くなり、ご自由にどうぞ」
と順に言って、天幕の向こうに消えていった。
裏切られた上に、とどめまで刺され――庭には、三人だけ。
冷や汗が、頬をつたう。
「あぁ、そういうこと。おかしいと思ったわ。私の呪詛が効かないなんて、偽者かと疑ったけれど……それじゃあ効くはずがないわ。あれだけ念入りに脅したら、尻尾を巻いて逃げるかと思ったのに。わざわざ戻るなんて、バカなの?」
ほほほ、と徐夫人は愉快そうに笑った。
この庭ではじめて顔をあわせた時「本当に?」と確認されたのは、呪ったはずの翠玉が、無傷でいるのを不思議に思ったからだったようだ。
「李花さん」
「なんだ?」
お互いに、徐夫人から目を離さずに、喋っている。
さながら猛禽を前にした鼠だ。目をそらしたが最後、殺されそうだ。
「すみません。忘れてましたが、私、陛下と同じ呪詛をかけられてるんです」
「忘れるようなことではないだろう!」
「状況が状況で。なにせ縛られていましたし」
「……ぴんぴんしてるぞ」
「三家の者ですから」
「あぁ、そうか。……本当に効かないのだな」
じり、と徐夫人が近づいてくる。
嬉しそうに目を細め、ふふ、と笑いながら。
「蟲の埋まる槍峰苑で、三家の末裔が勢ぞろい。歴史的な再会ですわね」
徐夫人が近づいたのと同じだけ、ふたりは後ずさった。
「……徐夫人、よしましょう。祈護衛の自作自演で通せば、彼らは本当に殺されてしまいます」
翠玉は、震える声で訴えた。
祈護衛だけではない。呂氏の一族の多くが、命を奪われてしまう。
恐ろしい企みだ。しかし、徐夫人は笑顔のまま、朗らかに笑んでいる。
「あら。だって、腹が立つでしょう? 憎いでしょう? 入宮した日に聞いたのよ。斉照殿で食事をした帰りに。女官たちが話していたわ。調べさせたら、本当だった。二百年続く三家の呪いなんて話を、皆が本気にしてたの。祈護衛の連中は、私たちが飢えている時に、くだらない嘘をついてなに不自由なく暮らしてた。ひどい話よ。でも、もう終わり。呪詛が連中の仕業ってことになれば、族誅は間違いない。生き残った連中も、これから二百年、忌み嫌われ、飢え、蔑まれればいい」
徐夫人は目を細めて「いい気味よ」と明るくつけ足した。
生憎と、族誅をいい気味だと思える神経は持ちあわせていない。翠玉は、キッと徐夫人をにらんだ。
「呂氏は、異能を持っていません。呪詛のしようがないのです。無茶な理屈は破綻しますよ。すぐに呪詛を解いて――」
「あぁ、大丈夫。祈護衛をさっさと始末して、呪詛が成就したら、真犯人は異能の者たちだった、と明らかにするから。話がすっきりまとまるでしょう? 邪魔な貴女たちも消せるし、めでたし、めでたしね」
とても愉快そうに、ふふふ、と徐夫人は笑った。
そして――いきなり、絹を裂くような悲鳴を上げた。
「きゃあああ! 誰か! 誰か来て!」
衛兵の足音が聞こえてくる。
ふたりが衛兵に囲まれたのは、その直後である。
そして行きついた場所は――牢であった。