どきり、と心臓が大きく跳ねる。
 それは――翠玉の名だ。
 賽は、すでに掌から転げている。
 翠玉は、卓の上に目を落とした。賽の目は、すべて【一】。
 示す場所は、ここ――この長屋だ。
 翠玉は、まっすぐに青年の瞳を見つめた。 
「その……人物を探して、どうなさるおつもりです?」
 青年も、まっすぐに翠玉を見つめている。
「この康国が建つ以前――二百年前の話だ。それまで中原の北半分を治めていたのは宇国であった。宇国の皇帝には異能を持つ三家が仕え、これを支えた。――裁定者たる江家。守護者たる劉家。執行者たる陶家」
「…………」
「宇国を滅ぼした高祖は、自軍を最後の最後まで苦しめた三家の者を族誅(ぞくちゅう)――九族に至るまで皆殺しにした。ここまで刑が苛烈になったのは、高祖の恐れの証しでもある。だが――恐れるがゆえに、彼らを根絶やしにはしなかった。その怨念を避けるべく、祭祀を続ける者をごく少数だけ残したのだ。彼らは先祖の霊を慰めるのを条件に、赦免(しゃめん)された」
 翠玉は、青年の目を見つめたまま、動けずにいる。
 青年も、同じように翠玉を見つめている。部屋のわずかな燭の灯りが、その瞳の中でちらちらと輝いていた。
(この男、何者だろう)
 目的が読めず、翠玉は眉を寄せた。二百年前の話を、わざわざ下町の外れまでしにくる意味がわからない。
 青年は、翠玉の素性まで知っているようだ。今の話――三家の伝説も、子供の頃から何度も父から聞かされた話である。とぼけるのも時間の無駄だろう。
 四神賽と糸とを箱にしまい、竹籠に戻してから翠玉はスッと背筋を伸ばした。
「ご用件をうかがいましょう」
「呪いだ。三家の呪いが、今、康国を(むしば)んでいる」
「まさか」
 翠玉は、苦笑した。冗談にしては、ひどく悪質である。
戯言(ざれごと)ではない。事実だ」
 内容はバカバカしいが、青年の眼差しは真剣であった。
 だからといって、鵜呑みにできるはずもない。
「そんな力は、三家に残されておりません。他の二家(にけ)は存じませんが、江家には無理でございます」
 二百年も前に、先祖の行いなど知ったことではない。にもかかわらず、翠玉が生まれたその日から罪と則はついてまわった。
(うんざりだ)
 三家の子孫に許されたのは、祭祀のみ。
 公職には就けない。国試どころか郷試さえ門前払いを食らう。
 役所に届け出の要る職業にも就けず、自ら商売をするのも禁じられている。家屋も、田畑さえも所有できない。
 届け出不要の日雇い仕事しかできないのは、罪人と同じ。入墨(いれずみ)こそ強いられてはいないが、偽称の許されない姓で縛られている。偽称は重罪なのだ。
「呪いは、たしかに存在している」
「二百年も前の話でございますよ? だいたい呪いなど――」
「実際に、江家はいまだ異能を所有しているではないか」
 青年が、卓の上をトントンと指で叩いた。
 むっと翠玉は唇を引き結ぶ。
(呆れた。試したの?)
 後悔した。が、もう遅い。
 蚕糸彩占も、四神賽も、江家だけに伝わる特殊な占いだ。試されているとわかっていれば、他の占術とて、いくらでも用意できたというのに。
 見料に期待して、張り切ったのが間違いだった。
「ただの占いです。細い絹糸一本で、人など呪えません」
「高祖直系の三十三人目の男子は、加冠を前に呪殺される。――それが二百年前に三家が施した呪いだ」
 ここで、青年を追い返すのは簡単である。
 子欽に頼んで、二軒隣の用心棒に銅銭を包めばいい。
 だが――
(この方は、本気で呪いを信じておられる)
 翠玉にとってはバカバカしい話でも、彼にとっては重要な問題であるらしい。
 察するに、この青年は、宮廷――皇帝の居城にして康国の(まつりごと)を司る天錦城(てんきんじょう)から来たのだろう。それも、ただの文官ではない。高位の貴族だ。
(宮廷が、三家の呪いを信じている……?)
 自分の想像に、身の毛がよだつ。
 呪いを信じる青年を、鼻で笑っている場合ではない。
 疑われているのは、翠玉だ。
 真剣に、このバカバカしい疑いから逃れる方法を考えねばならない。
 そうでなくとも、理不尽な制約のせいで貧しい暮らしを余儀なくされているというのに、この上濡れ衣など、まっぴらごめんである。
「つまり――先月ご即位なされた皇帝陛下の体調が優れぬ。この不調は高祖様直系の三十三番目の男子を殺す、という三家の呪いのせいだ、とおっしゃるのですね? ちなみに……その三十三人、というのはどのように数えるのです?」
「死産を含んだ場合、含まなかった場合、夭折の基準を何歳とするか――数え方によっては、陛下ではないはずだった。実際に陛下を三十三人目と数えるには、七歳までに死亡した場合を除くようだ。陛下は現在十九歳。加冠は、半月後の六月八日。倒れたのは五月八日。ちょうど加冠の一ヶ月前だ。以来、一度も目を覚まされない」
 青年の説明は、ごくわかりやすい。彼の属する世界では、理屈が通っているらしい。
 だが、翠玉のいる世界では、意味不明である。
「呪いでなくとも、人は――たとえ天命を受けた貴いお方であっても、病に倒れるものではございませんか。なにも呪いと決まったものでもないでしょう」
 翠玉は食い下がった。こんなバカな話はない。
「呪いなのだ。このままでは、陛下のお命は間もなく尽きるであろう。対策はふたつ提案されている。三家の者に呪いを解かせるか――もしくは、皆殺しにするか」
 カッと頭に血が上った。
(なんなの、一体!)
 祖父も父も、貧しさの中で死んでいった。
 江家の罪を悔い、則に従い、泣き言ひとつこぼさずに。
(二百年、江家は耐えたのに……)
 もう我慢の限界だ。
 翠玉は竹籠を抱え、スッと立ち上がった。
「呪いなど存在し得ません。この際ですから言わせていただきますが、二百年前の罪は、その場で清算されているはずです。族誅ですよ? それなのに、いまだ我らは公職に就けず、仕事も制限され、貧しい暮らしを余儀なくされているのです。私は、一朝の刻から三夕の刻まで下馬路で働き、一宵の刻から占師をして、ようやく生計を立てております。将来の蓄えも、財産と呼べるものないその日暮らし。呪詛とは、まじないの類でも最高難度の術。片手間にできるとお思いにならないでくださいませ。私の暮らしのどこに、そんな高度なものを行う暇があるというのです? まして天錦城など、ここから歩けば一刻はかかります。呪詛を行うには、遠すぎる距離です。冗談も大概になさってくださいませ」
 翠玉は最後に「お帰りを。お代は結構です」と伝え、くるりと背を向けた。
 話せば話すほど、腹が立つ。
 互いに、二度と会わぬのが最良の道だ。
「ひとまず、名乗らせてくれ。私は(そう)啓進(けいしん)
 翠玉は、奥の部屋に向かう足をぴたりと止め、青年の方を振り返った。
 宋、とは現在の康を支配する一族だ。皇族に違いない。
(高貴なお方だとは思ったけれど……まさか、皇族だったとは)
 この青年――啓進は、宋家に生まれたがゆえに豊かだ。一見しただけでわかる。門を構えた大きな邸に住み、苦労もせずに食事が提供され、上質な着物が用意され、頼まれずとも教育が与えられるのだろう。
(バカにするにも程がある)
 ぬくぬくと育った皇族に、なぜ、罪と則に縛られて生きる自分が脅されねばならぬのか。
「どなたが相手だろうと、答えは同じです。三家の呪いなど存在し得ません。天にでも神にでも――父祖の廟の前でも誓えます」
 翠玉は、きっぱりと言い切った。
「ひとまず話を聞いてくれ。俺は貴女の敵ではない。皆殺しには反対する立場だ」
 客のはずの啓進が、優雅な動作で「座ってくれ」と椅子を勧めてくる。
 敵ではない、という言葉を鵜呑みにしたわけではない。だが、その気であればとうに翠玉を殺していたはずだ。啓進は、帯に見事な剣を()いている。
(座を蹴るには早い)
 彼らの対策はふたつ。――三家を利用するか、皆殺しにするか。
 二択の内容は業腹(ごうはら)だが、命あっての物種だ。
「聞きましょう。命は惜しいです」
 ここは腹をくくるしかない。
 翠玉は眉を険しく寄せたまま、椅子に腰を下ろす。
「現在のところ、三家を利用しようと画策しているのは俺ひとり。皆殺しにしろ、と主張する過激派が多数派だ。今日にも廟を破壊し、生き残りを全員殺せと――」
 話の途中で、啓進の目が、ぱっと翠玉から逸れる。
 その時だ。
 バサリと奥の部屋の黒布が動いた。
 部屋に飛び込んできたのは、子欽である。
「姉上! 裏に、人が。賊です。中に入ろうとしています!」
「ぞ、賊!?」
 盗まれるようなものなど、なにも持ってはいない。とっさに、翠玉は商売道具の入った竹籠を小脇に抱えて袖で隠した。
 チッと啓進は舌打ちをする。
「過激派の――要は皆殺し派の連中だ。――逃げるぞ!」
「え? に、逃げるって……どこへ?」
 ここは、翠玉の家だ。この長屋を借りるのに、どれだけ苦労したことか。
 ピィッと啓進が指笛を吹くと、扉が外から開く。
 入ってきたのは、黒装束の男たちだった。
(なに? なんなの、これ!)
 わけがわからない。怒涛の展開に、翠玉の頭は混乱している。
「殺すな。賊は全員捕らえ、背後にいる者を吐かせろ」
 啓進が黒装束の男たちに指示をする。
 シャラン、と金属の音が――恐らくは、鞘から剣が抜かれる音がした。奥の部屋だ。大きな足音が、次々と続く。
 ここでやっと、翠玉にも事態が理解できた。
(留まれば、殺される)
 啓進が翠玉の空いている方の手をつかみ、部屋の外に飛び出した。
 背後で剣のぶつかる音が聞こえる。
 ヒッと悲鳴が出た。
 なにがなにやら、さっぱりわからない。
 だが、ひとつだけわかる。――足を動かさねば、殺される。
(まだ、死にたくない!)
 竹籠を小脇に抱えたまま、翠玉はひたすらに走った。すぐ後ろに子欽も続く。
 ここは下町。下馬路とは、いかなる貴人であろうと、下馬せざるを得ないほど道が狭いところからついた名だ。
 人がひしめきあう細い道を、ひたすら走った。
 三年住んだ町なのに、もうどちらが北で、南かもわからない。
 ただ、啓進に手を引かれるまま、ひたすら駆けた。
 目の前に現れた馬車に乗せられ、どこかへ連れて行かれた。
 二宵(にしょう)の鐘を、遠くに聞いたような気がする。