(父上は……喜ぶだろうか)
気づけば、翡翠殿の客間の長椅子に座り、今日植えられたばかりの八重の芍薬を眺めていた。淡い朱鷺色の、大ぶりなものだ。美しく、華やか。明啓が選んだようだが、翠玉に相応しいとは思えない。
(伯父上は喜ぶだろう。……子欽も、きっと)
柔らかな寝具に、美しい調度品。鮮やかな翡翠の袍。そして、卓を埋め尽くす料理の皿。そして、香り高い茶。
(貴妃になれば、これが日常になる)
もう、飢えずに済む。雨漏りを我慢しなくていい。素性が露見する度に土地を転々とする必要もない。子欽の教育に頭を悩まさずに済み、廟も守られる。
あとは――自分の心ひとつだ。
「きゃあああッ!」
突然、悲鳴が聞こえ、ぼんやりとしていた翠玉は、腰を抜かすほど驚いた。
「何事ですか!?」
寝室を出、悲鳴のした廊下に出れば、四穂が護符の前で震えている。
「ご、護符が……欠けております!」
それがどれほど恐ろしいことか、李花から聞いたのだろう。四穂は青ざめている。
翠玉も、最初に欠けた護符を見た時は、恐怖した。
人の為すこととは思えない。とんでもないことが起きている、と。
(きっと、私にかけられた呪詛に、護符が反応したんだ)
それほど強い呪詛をかけられながら、翠玉の体調には、なんの変化もない。
――三家の者だから。
「大丈夫です。今は蟲が移動しましたから。すぐに落ちつきます」
翠玉は、四穂や、駆けつけた他の稲たちに、気休めのような言葉をかけた。
そのままを、口にするのが怖かった。
三家の者は、人とは違う。
人に知られるのが、恐ろしい。
――陛下がお越しです。
客間の方で声がして、翠玉は慌てて戻った。
「手間をかけたな、翠玉。ご苦労だった」
もう明啓は客間に入っていて、長椅子に腰を下ろしていた。
翠玉は会釈をし、卓をはさんだ向かい側に座る。
「いえ……よいお知らせができず、残念です」
茶器が運ばれてきた。茶杯に茶をそそぎ、どうぞ、と差し出す。
「槍峰苑の捜索は、昼夜を問わず続けることにした。李花には、指揮を頼んでいる」
「頼もしい限りです」
この程度の報告ならば、一穂に言伝すれば済むのではないか――とちらりと頭をかすめた言葉には、蓋をした。
胸の嵐が去らない。今は、あまり顔をあわせたくなかった。
「弟が、先ほど言っていた入宮の件だが――」
「……はい」
「――貴妃とは、大した出世だな」
ぽつり、と明啓が言った。
翠玉は、きょとんとしてしまった。意味がわからなかったからだ。
それから、言葉にある棘の鋭利な輪郭を理解した。
世の侮りくらいは、想像がつく。二百年の罪を忘れたか――と謗る声も頭に響く。洪進の申し出を受けるならば、しなくてはならない覚悟だ。
だが――その侮りを、まっさきに明啓から受けるとは、思っていなかった。
(三家への偏見は、捨ててくださったものと信じていたのに)
これまでの数日で築いた信頼を、翠玉は見失った。
空しいやら悲しいやらで、いっそ泣きだしたい気分だ。
「侮りには慣れております。私を挑発しても、得るものはございませんよ?」
翠玉は「どうぞ」と改めて茶杯を勧めつつ、にこりと笑んだ。
「侮ったつもりはなかった。すまん。――いや、つい――」
つい、うっかりと、侮るつもりもなく侮った、と言うのだろうか。
「私どもは、この件を片づけねば、安堵して眠ることさえできません。どれだけ侮られても、戦い続けますので、ご安心を」
翠玉は、会釈をして立ち上がった。これ以上、なにも話すことはない。
「待ってくれ。ただ、俺は――」
「口が過ぎました。多少、疲れているようです。では――」
家族を守るためだ。己ひとりの心を殺すなど容易い。
明啓に失望を感じていようと、三家の者としての役目は果たす。
こんな胸の痛みは、些事だ。
翠玉は、くるりと背を向け、寝室に向かった。
「――翠玉」
名を呼ばれ、翠玉は足を速めた。
(些事だ)
大したことではない。だが、一刻も早く、この感情から逃れたい。
寝室に急ぐ翠玉の肩を、明啓がつかむ。
「あ――」
決して、強い力ではなかった。
驚いてもらした声に、明啓が「すまん!」と慌てて手を放す。
「大丈夫か? 走らぬ方がいい。足の怪我も癒えてはいまい」
「お構いくださいますな。私は――三家の娘です」
「どこの家の娘でも、怪我はするだろう」
「そうではありません!」
つい、声が大きくなった。高ぶった感情のまま、正面から明啓を見つめてしまう。
「……悪かった」
「頭に角はありません。洞窟で集会もいたしません。でも……やはり、私は常の人とは違います。呪詛も効きませんし――」
「よいではないか。風邪をひきにくいのと同じだ」
「異能があります」
「剛力な者と同じだ」
翠玉は、頭を抱えたくなった。
話がまったく通じない。
「では、どうして――」
どうして、あんな嫌味などを言ったのか。
こちらから、入宮を望んだわけではない。洪進からの申し出だった。
「俺には、皇帝の貴妃に勝るものなど用意できない」
意味がわからず、翠玉はいっそう眉を寄せた。
いつも、明啓の話は明快だ。だが、今は違っている。
気づけば、翡翠殿の客間の長椅子に座り、今日植えられたばかりの八重の芍薬を眺めていた。淡い朱鷺色の、大ぶりなものだ。美しく、華やか。明啓が選んだようだが、翠玉に相応しいとは思えない。
(伯父上は喜ぶだろう。……子欽も、きっと)
柔らかな寝具に、美しい調度品。鮮やかな翡翠の袍。そして、卓を埋め尽くす料理の皿。そして、香り高い茶。
(貴妃になれば、これが日常になる)
もう、飢えずに済む。雨漏りを我慢しなくていい。素性が露見する度に土地を転々とする必要もない。子欽の教育に頭を悩まさずに済み、廟も守られる。
あとは――自分の心ひとつだ。
「きゃあああッ!」
突然、悲鳴が聞こえ、ぼんやりとしていた翠玉は、腰を抜かすほど驚いた。
「何事ですか!?」
寝室を出、悲鳴のした廊下に出れば、四穂が護符の前で震えている。
「ご、護符が……欠けております!」
それがどれほど恐ろしいことか、李花から聞いたのだろう。四穂は青ざめている。
翠玉も、最初に欠けた護符を見た時は、恐怖した。
人の為すこととは思えない。とんでもないことが起きている、と。
(きっと、私にかけられた呪詛に、護符が反応したんだ)
それほど強い呪詛をかけられながら、翠玉の体調には、なんの変化もない。
――三家の者だから。
「大丈夫です。今は蟲が移動しましたから。すぐに落ちつきます」
翠玉は、四穂や、駆けつけた他の稲たちに、気休めのような言葉をかけた。
そのままを、口にするのが怖かった。
三家の者は、人とは違う。
人に知られるのが、恐ろしい。
――陛下がお越しです。
客間の方で声がして、翠玉は慌てて戻った。
「手間をかけたな、翠玉。ご苦労だった」
もう明啓は客間に入っていて、長椅子に腰を下ろしていた。
翠玉は会釈をし、卓をはさんだ向かい側に座る。
「いえ……よいお知らせができず、残念です」
茶器が運ばれてきた。茶杯に茶をそそぎ、どうぞ、と差し出す。
「槍峰苑の捜索は、昼夜を問わず続けることにした。李花には、指揮を頼んでいる」
「頼もしい限りです」
この程度の報告ならば、一穂に言伝すれば済むのではないか――とちらりと頭をかすめた言葉には、蓋をした。
胸の嵐が去らない。今は、あまり顔をあわせたくなかった。
「弟が、先ほど言っていた入宮の件だが――」
「……はい」
「――貴妃とは、大した出世だな」
ぽつり、と明啓が言った。
翠玉は、きょとんとしてしまった。意味がわからなかったからだ。
それから、言葉にある棘の鋭利な輪郭を理解した。
世の侮りくらいは、想像がつく。二百年の罪を忘れたか――と謗る声も頭に響く。洪進の申し出を受けるならば、しなくてはならない覚悟だ。
だが――その侮りを、まっさきに明啓から受けるとは、思っていなかった。
(三家への偏見は、捨ててくださったものと信じていたのに)
これまでの数日で築いた信頼を、翠玉は見失った。
空しいやら悲しいやらで、いっそ泣きだしたい気分だ。
「侮りには慣れております。私を挑発しても、得るものはございませんよ?」
翠玉は「どうぞ」と改めて茶杯を勧めつつ、にこりと笑んだ。
「侮ったつもりはなかった。すまん。――いや、つい――」
つい、うっかりと、侮るつもりもなく侮った、と言うのだろうか。
「私どもは、この件を片づけねば、安堵して眠ることさえできません。どれだけ侮られても、戦い続けますので、ご安心を」
翠玉は、会釈をして立ち上がった。これ以上、なにも話すことはない。
「待ってくれ。ただ、俺は――」
「口が過ぎました。多少、疲れているようです。では――」
家族を守るためだ。己ひとりの心を殺すなど容易い。
明啓に失望を感じていようと、三家の者としての役目は果たす。
こんな胸の痛みは、些事だ。
翠玉は、くるりと背を向け、寝室に向かった。
「――翠玉」
名を呼ばれ、翠玉は足を速めた。
(些事だ)
大したことではない。だが、一刻も早く、この感情から逃れたい。
寝室に急ぐ翠玉の肩を、明啓がつかむ。
「あ――」
決して、強い力ではなかった。
驚いてもらした声に、明啓が「すまん!」と慌てて手を放す。
「大丈夫か? 走らぬ方がいい。足の怪我も癒えてはいまい」
「お構いくださいますな。私は――三家の娘です」
「どこの家の娘でも、怪我はするだろう」
「そうではありません!」
つい、声が大きくなった。高ぶった感情のまま、正面から明啓を見つめてしまう。
「……悪かった」
「頭に角はありません。洞窟で集会もいたしません。でも……やはり、私は常の人とは違います。呪詛も効きませんし――」
「よいではないか。風邪をひきにくいのと同じだ」
「異能があります」
「剛力な者と同じだ」
翠玉は、頭を抱えたくなった。
話がまったく通じない。
「では、どうして――」
どうして、あんな嫌味などを言ったのか。
こちらから、入宮を望んだわけではない。洪進からの申し出だった。
「俺には、皇帝の貴妃に勝るものなど用意できない」
意味がわからず、翠玉はいっそう眉を寄せた。
いつも、明啓の話は明快だ。だが、今は違っている。