翠玉は、青年に「どうぞ」と椅子を勧める。
 しかし――青年は腰を下ろす気配がない。
 もう一度「どうぞ、こちらへ」とうながせば、青年は「ここにか?」と確認してきた。
「客間は別にあるのだろう? 急いでいる。早く案内してもらいたい」
 翠玉は穏やかな笑顔を保ったまま、呆れ、かつ驚いた。
「占いは、こちらの部屋で行います」
「そうか。狭いな」
 余計な感想を述べたのち、青年は品のある所作で椅子に腰を下ろした。
(よほどお育ちのよい貴族様らしい)
 ここで、顔がはっきりと見えた。
 通った鼻梁と、凛々しい眉。切れ長の目は涼やかだ。
 黒に見えた袍は濃藍で、なにやら複雑な刺繍が施されている。金糸(きんし)の帯も、大層きらびやか。下馬路では、まず見かけない格の品である。
(あら。これは見料(けんりょう)に期待できそう)
 心の中だけで小躍りする。
 父と継母を、相次いで亡くして三年。
 下町とはいえ、琴都では長屋暮らしにも金がかかる。
 子欽の通う学問所の謝礼など、家賃より高いくらいだ。ボロボロの着物で通わせるわけにもいかない。筆、墨、燭。こまごまとした出費も続く。
 だが、覚悟の上だ。子欽の教育は、父の悲願であった。
 継母との再婚が決まった十年前、読み書きのまったくできなかった子欽に文字を教えたのは翠玉だ。
 郷試は二年後に控えている。合格すれば、よい養子の口も見つかるだろう。雨漏りのする長屋暮らしを続ける必要もない。代々続く貧困の連鎖から、彼だけは堂々と抜け出せるのだ。
 田舎を転々とする暮らしをやめ、琴都で華々娘子の看板をかかげて三年。このところ客筋もよくなり、実入りも増えてきた。今日の客にも、つい期待をしてしまう。
(子欽に新しい筆を買ってやりたい。ずっと軸が割れたまま使っているもの。袍の丈もすっかり短くなってしまったし……燭も買い足さなくては。たまには肉包以外のものも食べたい。いえいえ、まずは雨漏りをなんとかしないと)
 頭の中で皮算用に励みつつ、翠玉は微笑みを浮かべて、客の言葉を待つ。
「他言無用に願う」
「ご心配なく。占師たる者、秘密は必ず守ります」
「……そなたは、客の悩みをぴたりと言い当てるとか」
 青年は腕を組んだ。表情も硬い。その目は翠玉の頭のあたりを凝視している。
 こうした警戒は、客の身分が高ければ高いほど強いものだ。
「占いには――いくつかの手法がございます。たとえば、こちら」
 翠玉は、掌におさまるほどの木箱を、籠から取り出した。
 ぱかりと(ふた)を開け、出したのは古い木の画牌(がはい)だ。
「なんだ、これは」
「西域に古くより伝わる星画牌(せいがはい)でございます。占うべき事柄を念じ、画牌を卓上に配して、星の声を――」
「星の声を聞いている暇はない」
 青年は、声にいら立ちをにじませた。
「あるいは、生まれた年と月日から、二十四の大星(だいせい)と、四十八の小星(しょうせい)の位置を導き、日月星辰の声を――どうやら、こちらも相応(ふさわ)しくなさそうでございますね」
天算術(てんさんじゅつ)に用いる木盤(もくばん)を出しかけ、翠玉は思いとどまった。
(どちらも人気の占術なのに)
 青年の眉間のシワの深さから察して、天体の声は不要のようだ。
「運勢だの、天運だのと悠長な話をしたいわけではない。危急だ」
 逃したくない客だ。翠玉は、ここで勝負に出る決意を固めた。
「では――こちらを」
 木盤と画牌を、いったん竹籠にしまう。
 翠玉が、懐から取り出したのは、絹糸の束だ。
 するり、と一筋糸を引き出し、卓の幅だけ伸ばして小さな鋏でパチリと切った。
「こんな糸で、なにがわかる? また星の声ではあるまいな」
「貴方様の、心の憂いが」
 にこり、と翠玉が笑めば、青年の凛々しい眉が寄った。
「……わかるのか?」
「はい。まず、目を瞑ってくださいませ。そうして、今、心の中で最も大きな場所を占める事柄を思い浮かべて――」
 青年は、目を瞑る気配がない。
 気にせず、翠玉は青年の小指に絹糸を結んだ。
「ただの糸ではないか。まだ星画牌とやらの方が、なにかの答えになりそうだ」
「では、星画牌になさいますか?」
「……いや、これでいい。納得のいく答えでなければ、帰るまでだ」
 疑い深いのも貴人の証し。ここで腹を立てる理由はない。
 青年は、目を閉じた。
 だが、すぐに一瞬だけ目を開け「見料は払う」と言ってきた。
(貴人にしては、生真面目な方だ)
 翠玉は浮かべたままの微笑みを、少しだけ深くする。
 そうして、卓上の燭をふっと吹き消した。
 暗い方が――よく見える。
 華々娘子の店が、日没後の一宵の刻からはじまるのには理由があるのだ。
 青年の小指に、糸の端を結ぶ。背も大きいが、手も大きい。
 結んだ方とは反対の端を、青年の手に比べれば、ひどく小さく見える自分の左の手でゆるく握る。
 そうして、右手の人差し指で、糸を軽く撫でた。
 ふぅっと淡い光が浮き上がる。
 蚕糸彩占(さんしさいせん)。七色に(いろど)りを変えるこの光は、翠玉の目にしか映らない。
 どういう理屈で色彩が糸に現れ、かつ、それが自分にしか見えないのか。理屈はわからないが、祖父も、父も、この占術ができた。
 絹糸に気を通す――らしい。
 翠玉の目には、その気の彩りが見える。
 人は、この能力を異能と呼んだ。
 ひと撫ですれば心の憂いの遠因が。
 もうひと撫ですれば、現在の問題が。
 さらに撫でれば、待ち受ける未来が。
 色は次第に、青い色を示しはじめた。緑青(ろくしょう)青褐(あおかち)紺青(こんじょう)。かすかに変化する青は、深い藍色に落ち着いた。
「過去の因縁――恐らく、とても古い……お(いえ)のことでございましょうか?」
 パッと青年は瞼を上げた。
「……そうだ」
 もう一度、糸を撫でる。すると糸は鮮やかな朱色に変じた。
「憂いは、とても身近にございます」
「たしかに。……だが、誰にでも当てはまるのではないか?」
 最後に、糸を撫でる。
 糸の彩りは、淡い朱鷺色に変じた。
「失礼ですが、奥様はいらっしゃいますか? 縁談のご予定などは?」
「どちらもない――いや、あり得るか。ないとは言い切れん」
 青年は眉を寄せ、否定なのか肯定なのか、わからぬ返事をした。
 まだ納得のいかぬ様子の青年の指から、するりと糸を外す。
「縁談でしたら良縁です。縁談でないにしても、女性(にょしょう)から得る助力が、憂いを晴らすことになりましょう。そのお方をお探しですか?」
 青年は、また腕を組み、考え込んだ。
 ややしばらくして「当たっている」と呟く。
「貴女の言うとおり、ここに来たのは、人を――ある女性を探してもらうためだ。下馬路に住んでいるらしい。名もわかっている」
「なによりです。ご存じの事柄が、多ければ多いほど精度が上がりますので」
 翠玉は、ほどいた糸を卓の上に置き、竹籠から古い小箱を取り出した。
 小ぶりな(さい)が四つ。黒、青、赤、白。
 四神賽(ししんさい)は、失せ物や探し人をぴたりと示す、翠玉の得意な占術だ。
「それで、探す者がどこにいるのかが、わかるのだな?」
「はい。近い場所に限りますが、精度は抜群。東西南北、方角とおおよその距離がわかります。では、そのお方のお名前をどうぞ」
 賽を四つ、両の掌の中でコロコロ転がす。
「――(こう)翠玉」
 青年は、ややゆっくりとその名を呼んだ。