馬車は、天錦城には向かわなかった。
 どこぞの貴族の邸に入り、そこで明啓と別れ、翠玉だけが降りた。
「では、頼むぞ。廟の件は任せてくれ」
「はい。よろしくお願いいたします」
 走り去る馬車を見送った直後に、邸から人が出てきた。
 松の木が見事な前庭に、風格ある門。見るからに立派な邸だ。
 出てきたのは、年配の貴婦人で「(はん)家の者でございます」と名乗った。
 貴婦人は挨拶もそこそこに、翠玉の手を取って邸の中に入る。
 どこかの部屋に案内され、有無を言わさず着替えをさせられた。さらに、化粧と髪結い。数人の侍女たちがてきぱきと事を進めていく。
 おとなしく、されるがままになっているうちに、李花(りか)と合流できた。
「あぁ、李花さん! 無事でなによりです」
 李花も、この邸で着替えをしていたようだ。美しい空色の袍を着、髪は乱れなくまとめられている。
「そちらも無事だったと聞いている。なによりだ。……廟は残念だが、今日のうちにも、郊廟で祭祀ができるよう計らってもらえた。私の家族も、そちらに避難している。江家の人たちも一緒だそうだ」
 少なくとも、向こう十日は琴都に留まるよりも、郊廟にいた方が安全だろう。
 明啓の計らいに、翠玉は改めて感動を覚える。失敗を失敗と認め、次の手を打つ。その柔軟さが、彼の美点だ。
「まさか、この機に罪と則から解放されるとは思っていませんでした」
「そうだな。驚いた。母など腰を抜かしていたぞ」
「急でしたからね」
 ふたりで「よかった」と声をそろえる。
 罪と則から、三家は解放された。
 だが、李花はここにいる。彼女もまた、戦場に戻る覚悟をしたのだろう。
「あとは、我らの敵を暴くだけだな」
「……はい」
 さて、と言って李花は、持っていた竹籠を卓に置いた。
「貴女の部屋にあった商売道具だ。清巴さんが届けてくれた」
「あ! よかった……! 助かりました。ありがとうございます!」
 竹籠の中には、天算術の木盤や、星画牌が入っている。
 絹糸と四神賽を入れた箱は、いつも懐に入れているが、それ以外の占術道具は、(せい)(しょう)殿の部屋に置いたままになっていた。
 翠玉は、竹籠を抱きしめる。大事な商売道具だ。
「我々は昨夜のうちに離職し、実家に帰った――ことになっているそうだ」
「別人として、改めて後宮に入るわけですか」
「あぁ。焚火騒ぎに、廟の放火。尻尾を巻いて逃げる方が自然だろう」
「生憎と、図太くできていますけれど」
 ふふ、とふたりは小さく笑い、固い握手を交わした。
 そこに、出迎えてくれた年配の貴婦人が入ってきて、やっと「潘の妻でございます」と早口で挨拶をした。
 特に説明はなかったが、ここは潘家の屋敷で、彼女は主の妻なのだろう。
「入宮は、二昼の刻までに行わねばなりません。お急ぎを。潘、でございますよ。貴女様のお名前は、潘翠玉。翡翠(ひすい)殿に信頼できる者が待機しております。空色の袍を着た者だけは、信用していただいて結構です。諸々、こちらの紙に書いておきました。翠玉様は、記憶力が素晴らしいとか。天錦城に着くまでに、すべて覚えておいてくださいませ」
 慌ただしいことこの上ない。
 潘夫人は、早く、早く、と侍女たちを急かしている。
 支度の最後に羽織ったのは、鮮やかな翡翠色の袍だった。
 いつ、どんな経緯で用意されたものか知らないが、翡翠殿の主に相応しい色彩だ。
 裾の辺りに水面の波紋が刺繍されていて、なんとも涼やかである。
「さ、さ、お急ぎを!」
 立ち上がると、袍がずしりと重い。
 髪飾りも、頭が少し傾くだけで重さを感じる。
(美々しい装いは、こんなに重いものだったのね)
 麗しい姫君たちの天女めいた姿は、努力の成果であったらしい。よくも早朝から駆け比べなどできたものである。
 急かされるまま、李花と一緒に馬車へ乗り込んだ。
 持たされた饅頭を移動中に食べつつ、潘夫人に渡された紙を開く。
 潘氏についての説明が、書かれている。
 先帝の腹心。離宮にも出入りしており、双子とも親しい。西部の(じょう)(しゅう)()()から身を起こし、現在は、(しょう)書令(しょれい)の地位にある。
 左僕射の(しゅう)氏、(けい)()(しょう)(しょ)(じょ)氏とは政敵で、事あるごとに反目しているそうだ。(しゃ)()将軍の(きょう)氏とは、とりわけ接点はないという。
 文の最後に、潘家で子欽を預かっている、と書かれていた。元気な様子で、潘家が手配した家庭教師も、覚えがいいと褒めていたそうだ。
(まぁ、子欽は同じ邸にいたのね!)
 時間の都合で、会わせる時間が取れなかった、と詫びの言葉がある。
 明啓が厚く信頼する相手だと想像がつく。気づかいに、翠玉は心から感謝した。
(そういえば、潘氏の邸では、角を確認されなかった)
 慌ただしく準備に追われはしたが、人かどうかを疑われはしなかった。事情をすべて知っている者ならば、祈護衛が作った三家の伝説も耳に入っていただろうに。
 どの段階で、彼らの感覚が改まったのかはわからない。
 ただ、ほんの数日の間に、様々なことが変わったのは肌で感じる。
(恩は、呪詛を除いて返すしかない)
 馬車は天錦城へと向かっていく。
 向かう先をキッと見据え、翠玉は決意を新たにしたのだった。