ふたりは重ねていた手を離し、いったん緊張を解いた。
明啓は扉を開け、「直接尋ねた甲斐があった」と言いながら、牀に腰を下ろす。
「明啓様……大逆罪というのは……本当に?」
「脅しだ。だが、場合によっては適応せざるを得ない。火焚きだけでも重罪だ」
「呂衛長は、話してくださるでしょうか」
「そう願うが……難しいかもしれんな。呂衛長の、あの態度……三家襲撃が、祈護衛とは別口の可能性もある」
明啓が、牀の上で腕を組む。
「しかし、祈護衛以外に三家を狙う者がいる……とは考えにくいです。廟は傾いていますし、国政にも無関係。財産もない。わずかな生き残りがいるだけです」
李花も、横でうなずいている。
益がないのだ。三家を滅ぼしたところで、誰も、なにも得られはしない。
別の何者かを想定するよりも、三家の呪いを妄信する祈護衛が、三家皆殺しを強引に実行しようとした、という方が、納得はできないが理解はできる。
「ともあれ、先に進まねばならん。――それとも、ここで降りるか?」
明啓の問いに、ふたりはそろって、
「「いいえ!」」
と勇ましく答えた。
このままでは、なにも得られないままだ。安全も、自由も。夢に見た穏やかな暮らしは、永遠に手に入らないことになる。絶対に退けない。
「よし、その意気だ。以降は、我ら三名だけが仲間だと思ってくれ。俺は弟を救いたい。貴女がたは三家の雪辱を果たしたい。利害が完全に一致するのは我らだけだ」
仲間、という言葉が、胸に響く。
李花にも、翠玉にも、慣れぬ言葉だ。そしてきっと明啓にとっても。
「とはいえ、作戦はいったん白紙に戻ってしまいました」
「時間はなく、打つ手は阻まれ、焦りはある。……だが、それはあちらも同じだ」
明啓の表情は、飄々としている。
「あちらも同じ……ですか」
対する翠玉の眉間は、狭まる一方である。
「そうだ。三家襲撃は失敗し、我らは祈護衛の暴走も止めた。洪進の呪殺にも至っていない。あちらの目的は、いまだ正しく達せられていないのだ。焦りは必ずある。ここは、挑発して誘き出す。罠をしかけるとしよう」
祈護衛は、焦りのあまり自ら罠に飛び込んだ。その要領でいけば、うまく進むかもしれない。
翠玉の眉間の憂いは晴れた。
「では、私はなにをすればよろしいですか?」
「寵姫になってもらいたい」
にこり、と笑顔で明啓は言った。
「寵姫……?」
とっさに、言葉が理解できない。
「皇帝の愛を一身に受ける寵姫。要するに、俺の妻だ」
意味を理解して、翠玉は手を顔の前で必死に振る。
「む、無理です!」
「もちろん、偽装だ。絶対に指一本触れぬと誓う」
「そういう問題ではありません! なぜそのようなことを!?」
無理だ。短期間ながら、貴族の姫君たちと接してわかった。彼女たちと自分との間には、越えがたい壁がある。
「ひとつ、敵を挑発したい。ふたつ、拠点を九殿のいずれかに置きたい。以上の理由から、貴女には翡翠殿に入ってもらいたいのだ」
紅雲殿の、西隣。
菫露殿の、北隣。
白鴻殿の、東隣。
それが、翡翠殿だ。護符による作戦を続行するならば、絶好の立地である。
さらに言えば、月心殿――未来の皇后の住まいに最も近い。挑発にも適している。
「ですが……入宮というのは、簡単ではないはずです。手続きですとか、審査ですとか……誰ぞの養女を装う必要もありましょう」
「もう済んでいる。貴女か、李花か、最初からどちらかに入宮を装ってもらうつもりで準備していた」
ふと、記憶が蘇る。
襲撃を逃れた馬車の中で、たしかに明啓は言った。
――俺の妻になれば、皇帝に会える。
やっと話がつながった。
さらに、周夫人から聞いた情報が重なる。
――加冠の前に、もうひとり夫人をお迎えになるのでしょう?
ぴたりと、情報が符合した。
「もしや……噂に聞いた新しい夫人というのは――」
「耳が早いな。弁の立つ貴女に頼みたい。適任だ」
横にいる李花が、うんうん、とうなずいている。
(そりゃ、たしかに李花さんの苦手な分野だとは思うけれど……私だって、そんな、人の妻のふりなんてできるとは思えない)
華々娘子として夫人たちを訪ねた際は、顔を布で隠していた。念のための用心が、ここで活きたと言える。化粧をすれば、そう簡単には気づかれはしないだろう。
(でも、気が咎める。……申し訳ない)
夫人たちは、入宮直後の食事以降、顔も見せない皇帝の訪いを待っている。
実家からの圧もあるだろう。焦りもあるはずだ。そんな気持ちを多少なりと知った上で、皇帝の愛を独占する役目など、あまに重い。重すぎる。
挑発で敵の隙を誘う作戦は有効だろう。明啓の知恵も、信頼している。だが、葛藤が邪魔をして、答えを出せない。
(私は、どうすれば……)
翠玉が頭を抱えた、その時だ。扉の向こうで、声がした。
「陛下、緊急のお知らせが。江家と劉家の廟が――何者かに燃やされました」
くらり、と目眩がした。
(廟が……? 燃やされた? そんな……)
廟は、父祖の魂の眠る場所だ。なによりも尊く、替えのきかぬものである。
全財産と廟。秤にかければ廟が重い。廟がなければ、父祖の魂は行き場を失ってしまうからだ。
(そこまで……そこまで三家は憎まれているの?)
襲いかかる嵐のあまりの強さに、翠玉は呆然とするしかなかった。