「まさか、火事か?」
「……行ってみましょう」
姜夫人の侍女たちほど屈強ではないが、下町暮らしで力仕事には慣れている。水を運ぶくらいの手助けはできるだろう。
ふたりは踵を返し、来た道を引き返した。
人が、次々と集まってくる。
すでに一宵の刻を過ぎ、辺りは暗い。火の輝きは、目を鋭く射た。
(紅雲殿と……翡翠殿の間……あれは、庭?)
火が見えたのは、ちょうど双蝶苑と、先ほど立ち去ったばかりの百華苑の間だ。
石畳の道の真ん中で、火が焚かれている。
後宮の規則に詳しくはないが、さすがに、こんな場所で火を焚くとは常識の範囲を逸脱している。周辺の殿は、すべて木造だ。
火を囲む数人が、紙らしきものを、一枚、一枚、と放り込んでは燃やしている。
衛兵が「なにをしている!」「火を消せ!」と言っているが、火の前にいる人は動く気配がない。
「あれは……なんだ?」
「わかりません。でも――まるで……」
頭に浮かんだ言葉を、口に出せなかった。
(まるで、呪詛だ)
火を囲む、暗い色の袍の人々。異様な光景だ。
不気味さを感じているのは、翠玉たちだけではない。
遠巻きにしていた宦官や女官らも、恐れをなして止められずにいるようだ。
「燃やせ! 燃やせ! 忌まわしい呪符をすべて焼くのだ!」
火の前にいた人が、大きな声で叫んだ。
凛とした、女の声だ。
「三家の呪符が、後宮を侵さんとしている。燃やせ! 燃やせ!」
暗さと炎の輝きのせいで、彼らの着ている袍の色はわからない。
だが――おそらく、深緑のはずだ。他に考えられない。
祈護衛の何某だ、と人が囁く声も聞こえてくる。
三家。祈護衛。呪符。
そこまでそろえば察しがつく。
(呪符……燃やされているのは、李花さんが貼った護符だ!)
火に、一枚、一枚と放り込まれているのは、あの護符に違いない。
翠玉と李花が、百華苑を離れてから、まだ間もないはずだ。
(まさか……見張られていたの?)
李花が貼った護符を、祈護衛は呪符と呼んだ。三家の仕業、と断定までして。
護符を貼ったのは、たしかに劉家の李花だ。
貼らせるよう誘導したのは、江家の翠玉である。
あくまでも洪進を助けるための作戦ながら、後宮に三家の末裔が呪符を貼った――と彼らが言うのは、ほぼ事実なのだ。呪符ではなく護符だ、と声を上げても、聞く耳は持ってもらえないだろう。
「に、逃げましょう。李花さん」
「あぁ、この場は撤退だ!」
幸いにして、風もなく、人手も十分だ。火はすぐに消し止められるだろう。
(逃げなければ――殺される)
走り出した李花の後ろに、すぐ続くつもりだった。だが、足が竦んで、動きはひどく緩慢になった。
今思えば、姜夫人の言葉は恫喝であった。姜家の地元の港町ならばいざ知らず、本気で内城の中で人を殺すつもりはなかっただろう。
だが――祈護衛は違う。本気で、翠玉たちを殺そうとしている。
翠玉の動きの遅さに、李花はしびれを切らしたらしい。ぐい、と翠玉の腕をつかんで「急げ!」と引っ張った。
(死にたくない!)
まだ、こんなところでは死ねない。
このまま死ねば、雪辱は果たせぬままだ。
父の顔、祖父の顔――子欽の顔。伯父や従兄の顔まで頭をよぎった。
(死んでたまるか!)
必死に足を動かし、前へ、北へ、斉照殿へと進む。
「あッ!」
月心殿の辺りで、足がもつれた。
李花の手が、その勢いで離れ――視界が大きく揺らぐ。
どさり、と音を立て、勢いよく倒れ込んだ。
鋭い痛みが、足首に走る。
「翠玉! 大丈夫か!?」
大丈夫、と答えたかったが、首を横に振らざるを得なかった。
倒れた拍子に挫いたらしい。痛みは強く、すぐには歩けそうにない。
「……すみません。足を挫きました。先に行ってください」
「わかった。私では、貴女を抱えられない。斉照殿で助けを呼んでくる」
「ごめんなさい、足を引っ張ってしまって」
「バカを言うな。我らは一連托生。この世で、唯一の仲間ではないか」
李花は力強く翠玉の肩を叩き、ぱっと北に向かって走り出した。
その背を追う視界が、涙でぼやける。
こぼれた涙は、ぱたりと白い石畳の上で弾けた。
仲間など、持ったことがない。――ずっと、ひとりだった。
父を亡くし、継母を失ってからは、子欽の件で伯父とも距離ができていた。
背負う荷の重さを、感じなかった日はない。
「う……」
ぽたぽたと涙がこぼれ、嗚咽がもれた。
李花の気持ちをありがたく思う。だからこそ、己の不甲斐なさが悔しい。
(なにも得られなかった……なにも)
焼かれてしまっては、護符の変化も読み取れない。その上、三家の呪符と断じられてしまった。夫人たちの殿への出入りも難しいだろう。
(李花に申し訳ない……明啓様にも、洪進様にも――)
一度堰を切った感情は、止めるのが難しい。
また、はらはらと涙がこぼれる。顔を隠す黒布は、涙を吸って濡れていた。
遠くで「捜せ! ふたりいるはずだ!」「黒装束の娘を捜せ!」と声が聞こえる。
あれは、翠玉と李花を指しているに違いない。
祈護衛は、自分たちを捕らえる気だ。
(殺される……!)
逃げなければ。手で這って、身を隠そうと思った。その時――
「翠玉!」
李花の声が聞こえた。
涙を拭おうと思った。仲間と呼んでくれる李花に、泣き顔は見せたくない。
そして、顔を上げ――
翠玉は、白昼に龍を見たかのように口をぽかんと開けていた。
そこに――明啓がいる。
「あ……」
幻か、と思った。
いっそ幻であってくれた方がありがたい。
(どうして明啓様が……?)
ここは後宮だ。すぐそこには斉照殿がある。
だが――彼は皇帝の兄だ。皇族だ。
天錦城に来て、貴人の暮らしぶりには驚いてばかりである。広い城に、たくさんの殿。整った庭。とんでもない値がつきそうな調度品。美術品。長い行列で食事が運ばれ、衣類はとてつもなく豪華だ。まさに、雲の上の人だというのに。
衛兵ならば、いくらでもいたはずだ。なにも、自ら助けに駆けつける必要はない。
「無事か? 翠玉!」
問われても、答える口がない。
命に別状はないが、足を挫いてはいる。はい、とも、いいえ、とも返せなかった。
(なんとお答えすればいいの?)
戸惑っているうちに、ぐい、と明啓に抱え上げられていた。