カーン……カーン……カーン……
康国の建国より、二百余年。
漢典五年の初夏。康国の都・琴都の下町に、三夕の鐘が鳴っている。
「はい、肉包ふたつ! お待たせしました! 四銭いただきます」
翠玉は、蒸籠から出したばかりの肉包を、笹の葉でくるりとくるむ。
客の男は肉包を受け取り、笑顔を見せた。
「あぁ、いい匂いだ。仕事終わりには、ここの肉包が一番だよ」
ずっしりした肉包の代わりに、翠玉の掌には軽い銅銭が四枚のる。
「はい、たしかに四銭。暑い一日でしたね。まだ五月ですのに」
「まったくだ。新しい皇帝陛下がご即位されて、荷運びの仕事がどんと増えたのは嬉しいが、こう暑くちゃへとへとだよ」
「暑い中お疲れ様です。ありがとうございました」
客に深々と礼をして、送り出す。
夕時の下町は、客の姿を人の波に飲み込んでしまった。
(さぁ、今のうちに新しいのを蒸しておかないと)
ふたつ並んだ蒸籠の、右のひとつの蓋を開け、肉包を並べる。
ここは、ぽってり大きな肉包を売る屋台だ。
店名らしきものはない。『中通りの肉包の屋台』だとか、店主の名前で『張太太の屋台』だとかと呼ばれていた。この下町で一番安くて、一番大きな肉包の屋台だ。昼や夕には、長い行列ができる。
(今日は遅いな、太太)
十八歳の翠玉は、この屋台で働きはじめて三年になる。
高いところに、編んで二つに丸めた髪。笑むとえくぼの出る頬。大きな目と大きな口には愛嬌がある。張太太の屋台の看板娘だ。
「こっちも、肉包ひとつ」
「はい! ありがとうございます!」
てきぱきと蒸籠から肉包をひとつ出し、客の女に渡す。
小柄な身体がまとうのは煤けた灰色の着物ながら、物腰には品がある。
人混みに消えていく客と入れ違いに、店主の張太太が戻ってきた。大柄な彼女が蒸籠の前に立つと、小さな屋台はぐんと狭くなる。
「戻ったよ、翠玉。遅くなって悪かったね。皇帝陛下のご即位はめでたいが、どこも道が混んでしかたがない。――あのね、翠玉。さっき、そこでアンタの話をしてたんだよ」
「私の話、ですか?」
嫌な予感がする。これは、通算二十回目の見合いの打診に違いない。
「よく働くし、愛想もいいって。それでね、豆腐売りの魯さんのとこに、まだ独り身の三男がいるんだけど――」
やはり、予想どおりの展開だ。
「太太。私にはもったいないお話です。――慌ただしくてすみませんが、失礼します」
翠玉も慣れたものである。にこりと笑顔で断っておいた。
はぁ、と張太太はため息をつく。
「アンタも、もう十八歳だよ? 親だっていないんだし、いつまでも……まぁ、この話はまた今度ね。ほら、これ、持ってって。弟と食べな」
「いつもありがとうございます。では、また明日」
蒸したての肉包がふたつ、笹の葉にくるまれる。
翠玉は包みを受け取り、賑わう夕時の下町を走り出す。
(急がないと!)
通りに軒をつらねる屋台からは、蒸鶏、揚餅、炒豆、焼鴨など、様々なにおいが流れてくる。ぐぅ、と腹が鳴るのは毎度のこと。
下馬路、と名のつくこの下町は、今日も喧噪の中にある。
四月の下旬に新皇帝が即位して以来、いっそう道行く人の数は増えた。
中通りから、ひとつ角を曲がって、北通りへ。
角から二軒めのしなびた長屋の、左から三つめのちょっと歪な扉。
ここが翠玉の住まいだ。
「ただいま帰りました!」
バタン! と歪な扉を開ける。
ほの暗い部屋の窓辺に、灯りがひとつ。
卓の上に竹簡を広げていたのは、今年十二歳になる翠玉の義弟だ。継母の子なので、血縁はない。父、母、継母もすでに亡く、今はふたりきりの家族である。
字を子欽という。
ひょろりと背が高く、小柄な翠玉とはあまり目線が変わらない。
「お帰りなさいませ、姉上」
子欽は笑顔で立ち上がり、丁寧に拱手の礼をした。
「ただいま帰りました」
翠玉も丁寧に、膝を曲げて礼をする。
飢えていようと、煤けた着物を着ていようと、示すべき礼を省いてはならない――というのが亡き父の教えであった。
「お疲れ様でした。すぐに片づけますね」
子欽が卓の上を片づける間に、翠玉は盥の水で手と顔を洗った。
「「いただきます」」
卓をはさんで座り、手をあわせ、声をそろえる。
笹の葉をめくれば、肉包はまだホカホカと湯気を立てていた。
「子欽、今日の塾はどうでした?」
「いつもどおりです。崩御されたばかりなので、最近は先帝陛下の功績のお話が多いように思います。今日は海岸線の防衛の話でした」
「そうですか。……先帝陛下もまだお若かったのに、急でしたよね」
先帝には子が十一人いて、男子はひとり。他は女子ばかり。
商人の家でさえ、後継ぎはひとりよりふたり、と次々求めるものだ。まして一国の皇帝の血筋。先帝は、切実に男子を求めていたのだろう。毎年、春の終わりには若い貴族の娘が入宮するのが恒例であった。
その度に、恩赦だ、ふるまい酒だ、とお祭り騒ぎになったものだ。今年は入宮より先に先帝が崩御してしまい、それもなかったが。
代わりに沸いたのが、新皇帝の即位だった。皇太子の頃から、新皇帝の聡明さは広く知られていた。よりよい世になる、とふるまい酒に酔った人々は口々に言ったものである。
「これからは、英明なる皇帝陛下が康国を率いてくださるでしょう」
翠玉は子欽の言葉に「そうだとよいですね」と相づちを打った。
――一宵の鐘が聞こえてくる。
「いけない。急がないと」
翠玉は慌ただしく肉包を口につめこんだ。子欽も続く。
「姉上、香は私が準備いたします」
「助かります。では、灯篭に火を入れてきますね」
卓にあった燭を手に、翠玉は外に出て、扉の横の灯篭に火を入れた。
ほんのり灯りがつき、灯篭に彫られた【華】の文字が浮き上がる。
(今日もお客様がたくさん来ますように)
手をあわせて灯篭を拝み、部屋に戻れば、ふわり、と香が漂う。
卓に黒い布を敷き、棚のすべてに黒い布をかけ、手早く準備を整える。下町のおんぼろ長屋から、生活臭を消すのも一苦労だ。
「あとは私がいたします。姉上は、お着替えを」
「ありがとう、子欽。では」
奥の部屋に入り、翠玉は灰色の着物を脱いだ。
手に取ったのは、黒い着物に、黒い帯。黒い袍。
髪を整える時間はないので、黒い布を目深にかぶって誤魔化し、準備は終わりだ。
仕事道具一式を入れた竹籠を抱えて戻る。
部屋の四隅の燭台が、ぼんやりと卓の縁を明るく照らしていた。
「では、のちほど」
子欽は、竹簡と燭を手に持ち、翠玉と入れ替わりに奥の部屋へ入った。
ゆったりと翠玉は椅子に座る。
さっそく、コンコン、と扉が鳴った。開店早々に来客とは、幸先がいい。
「どうぞ」
ギィ、と扉が開く。
入ってきたのは、背の高い青年だ。外はもう暗く、顔までは判別できない。
「ここは、華々娘子の店か?」
「はい、私が華々娘子でございます」
華々娘子――といえば、この界隈では名の知れた占師だ。
失せ物、人探し、吉日選び。縁結びに、悪縁断ち。
客は老いも若きも、男も女も。貧民から官吏まで、様々だ。
一朝の刻から三夕の刻までは肉包の屋台で働く看板娘。一宵の刻からは巷で噂の占師。
それが翠玉の日常であった。