「その、糸?」
「はい。こういたしますと、徐夫人の陛下を思うお気持ちが、正確に呪文に反映されます。強く思う者が、より多くを手に入れるのは世の道理でございましょう」
よく回る舌だ、と我ながら感心する。
こう言っておけば、徐夫人は強く心で皇帝を思うだろう。
「強く思えばいいのね。簡単だわ」
案外あっさりと、徐夫人は翠玉の誘導に乗ってきた。
(ありがたい)
ほっと胸を撫で下ろし、翠玉は徐夫人の小指に糸を結ぶ。
辺りの暗さも頃合いだ。絹糸の彩りも、よく見えるだろう。
部屋に灯りをともそうとしている侍女に「しばしお待ちを」と頼んで止めた。
「では、目を瞑ってくださいませ」
「……いいわ」
翠玉は、左手で糸を握り、スッとひと撫でした。
わかるのは、心の憂いの遠因だ。
糸の色は、淡く変じはじめた。桃花。薄紅。珊瑚。
キラキラと輝く様に、胸の内だけで驚く。
(なんと美しい……)
色彩もさることながら、日の光を弾く朝露のような輝きは、息を呑むほど美しい。
これほど純粋な気に、翠玉ははじめて触れた。
「恋――」
口から、自然に言葉がこぼれていた。
ハッとして、顔を上げる。
「あら、どうしてわかるの?」
目を瞑ったままの徐夫人は――はにかんでいた。
翠玉は、自分の不用意な言葉を悔いる。
(陛下とは、入宮した日にお会いしたきりだと言っていた。一目で恋に落ちた、とも考えられなくはないけれど――)
徐夫人が思う相手まで、糸の彩りから読み取ることはできない。
もし未来の夫以外の相手だったならば、その恋は許されぬものである。
「失礼いたしました。不躾なことを」
翠玉は、静かな声で謝罪した。
「いいの。謝らないで。……本当ですもの」
「え――」
「私、啓進様にお会いしたことがあるの。お話もしたわ。……お花をいただいたの。大きくて、綺麗な、紅い花。あれは十二歳の頃……あの日からずうっと……啓進様の妻になりたいと願ってきた。その願いがやっと叶うのよ」
目を閉じたまま、うっとりと言う徐夫人の様子に、ひやりとする。
(まさか、面識があったなんて! どちらと? 洪進様? 明啓様?)
双子は、外では啓進、と名乗っている。
徐夫人が会って話したのが、兄弟のどちらなのかは判断できない。
(蚕糸彩占をした甲斐があった)
ひやりとはしたが、反面、ほっとする。徐夫人が、なにをどの程度知っているかはわからないが、今の段階で知れたのは幸いだ。
(斉照殿の人たちにも、速く報せないと)
ドキドキと落ち着かない鼓動を、深呼吸で落ち着けて、もう一度糸を撫でる。
糸の色は、触れた箇所から変じていく。
山吹。稲穂。柚子。
黄色は、商人の客に多く見られる色だ。契約を伴う関係に現れる場合がある。
「今、ご実家とは――」
「まぁ、本当になんでもわかるのね! そうなの、それが悩みの種。実家がせっつくの。早く早くって。わずらわしいわ」
目を閉じたまま、徐夫人は肩をすくめた。
最後に、ひと撫で。
糸の色は――濃紫に変じた。
現れる色彩は、必ずしもひとつの事柄を示すとは限らない。
濃紫は、高位に上る兆しとも読めるが、その反面、深い喪失を示す色でもあった。
皇帝を慕う徐夫人にとっては、不吉な兆しになり得る。
(……言わずにおこう)
翠玉はそう判断し、糸を解いた。婚儀を控えた姫君には、余計な情報だ。
「以上でございます。では、これより護符を貼らせていただきます」
ぱちりと瞼を上げた徐夫人に会釈をし、翠玉は、パン、パン、と二度手を叩いた。
すると、それを合図に李花が入ってきた。彼女も翠玉と同じ黒装束に、布を頭から被り、さらに顔を半分隠している。
ここからは、彼女の出番だ。
護符の貼り方にも作法があるらしい。書いた本人が貼るのが望ましいらしく、部屋の外で待機していたのだ。
当初は、同席するよう頼んだが、断られた。曰く、融通のきかない性質だから――とのことだった。
「呪文は『太栄繁興』で頼みます」
ひそり、と翠玉は李花の耳元に囁いた。
ところが――なんのことやらさっぱりわからない、という顔を李花はしている。
当然だ。そんな呪文はない。適当に景気のよさそうな文字を並べただけ。蚕糸彩占に誘導するための方便だった。
翠玉は、目を片方瞑って合図を出したが、
「『太栄繁興』?」
李花が、なんの話だ? とばかりの大きな声で聞き返してきた。
さすが、自分で融通がきかないと言うだけのことはある。
(……まずい。通じてない!)
ひやりとした。
しかし李花は、翠玉の表情を見て自分の間違いに気づいたようだ。
惜しい。一瞬だけ早ければ、あんな大きな声で聞き返したりはしなかったろう。
「そ、そうです。徐夫人は特別なお客様ですから。手間はかかっても『太栄繁興』を行うべきです」
李花は「承知しました!」と一礼して、てきぱきと準備をはじめた。
「あれを持ってきて」
徐夫人が、つごう六つめの雪糕を口に入れつつ侍女に命じる。
運ばれてきたのは、大きな翡翠の指環だった。
「これは――」
「私は、特別な客なのでしょう? しかるべき品を差し上げようと思ったの」
ふふ、と徐夫人は、朗らかに笑んだ。
「もったいのうございます。このような素晴らしいお品を」
「いいの。私の望みは、美しい指環をすることではないのよ。ただ、愛する方の妻になりたい。それだけなのだから」
徐夫人は、白魚のごとき指を飾る、珊瑚の指環を撫でた。
ほしくはない、と言いながら、耳飾りも、腕飾りも、それぞれに翠玉が一生触れる機会さえなさそうな品々ばかり。実家の裕福さが一目でわかる。
「では、ありがたくいただきます。必ずや、この護符が報いましょう」
恭しく指環を受け取った。
金目のものを欲しがらない占師は、怪しまれる。いったん受け取って、ほとぼりが冷めた頃に、斉照殿の者にでも謝罪つきで返却してもらえば済むだろう。