今年の夏は猛暑であったが、早朝はまだ幾分か涼しかった。とはいえ、昼間に比べたら涼しいのであって、体感としては既に十分暑かった。涼太(ひょうた)は早々と起きると、家の裏にある井戸に水を汲みに行った。猫のハナも起きて、涼太の足にまつわりつきながら歩いていく。ハナは顔と背中が黒く、鼻先と腹が真っ白な毛で被われていた。鼻の脇に黒い黒子のような(ぶち)があったので、ハナと名付けられたのだ。

「おい、ハナさん。俺は水汲みするんだからね。邪魔しないでくれ」

緑色の手押しポンプを押して、バケツ一杯に水を入れると、風呂場まで運んで湯船に開けた。ハナが湯船の縁に登って、じっと水面を見つめている。ゆらゆらと光の青白い網がハナの体に写り込んで、不思議な模様を作っていた。

「落ちても知らんぞ」

風呂が一杯になったら、次は台所の水瓶だ。涼太の腰まである陶器の瓶が冷たい井戸水で満たされていく。涼太は独り暮らしのため、一日の水はこれで事足りるのだった。

 
 水汲みが終わると弁当をこしらえて、涼太は畑へと向かった。山間を開墾した畑には、トマトや茄子などが植えられている。この畑には、彼の祖父の話によれば、大昔に天女が降り立って御先祖に野菜の種を渡し、『村人を天へ送るため』に畑を作って野菜を育て、村人に分け与えるようにお願いした、という伝説があった。

「だからワシらは、畑を続けなけりゃならん」

これが祖父の寅吉(とらきち)の口癖だった。この村の殆どの住人は農業を営んでいたが、時代の流れと共に、より収益を上げるべく作物の品種改良をしている。だが、涼太の家だけは、先祖代々、頑なに昔からの品種を維持していた。

 
 涼太には母が居なかった。涼太が幼いときに父の辰雄《たつお》と離婚して村を出て行ってしまったという。父はその数年後に病死した。母との離婚がショックで、畑仕事にも精が出ず、食事もろくに摂らずに塞ぎ込んでいったのだった。涼太は母の事は覚えていない。古い薄ぼやけた写真で見る限りは美しい人だった。
 

 父と母がいなくなってから涼太は祖父母と畑仕事をして暮らしていた。子供の頃、母のことを寅吉に訊ねたら、烈火のごとく怒り出したので、それ以来母の事は訊かなかった。涼太が中学生の時に祖母のサキが亡くなり、それから数年経って寅吉が亡くなった。以来涼太は独りだった。いや、ハナがいた。数年前に何処からともなく現れて、涼太の家に住み着いたのだった。ハナは時々涼太の畑へ様子を見にぶらりとやって来る。今日もハナは畑へやって来た。

「おう、ハナさん。また見に来たのかね?」

涼太が声をかけると、ハナはゴロリと地べたへ仰向けになった。まるでオセロの様に、黒い背中が白い腹に入れ代わる。

「よしよし、何だかお前さん、犬みたいだぞ」

涼太はハナの腹を撫でながら笑った。

「ハナも来たことだし、ここらで休憩するか」

 
 巨大な楠の木陰へ腰を下ろし、涼太は黄色い包みをほどいて弁当を広げた。木の芳香に握り飯の(ほの)かな香りが混ざって、涼太の胃を刺激する。握り飯の米は近くの米農家がくれたものだ。涼太が野菜を村人へ届けると、そのお返しに米やら古着やら、野菜に見合った金などをくれるのだ。飲み水は井戸が有るし、薪なら山で手に入るし、涼太は殆んど自給自足の暮らしをしていたのだった。