「もこ、おい、桃子!」

そう明るい声で、呼ばれた気がした。

誰よりも耳に馴染んだその声に、笑顔で振り返ると、そこには大きな道着姿の幼馴染が、砕けた笑顔で手を上げている。

「桃子!」

「拓海!」

思わず笑顔が零れるも、私はそのまま固まった。
拓海の横には、華奢で可愛い、知らない女の子が立っていたからだ。

その子はとても華奢で、まるでお人形さんみたいな可愛い子。

ふんわり、ふんわりと拓海の傍で安心したように微笑んでいた。

(誰……?)

「これが、俺の彼女、仲良くしてやってくれな…」

そう言って、女の子の、淡く柔らかい髪に触れながら、照れたように微笑む拓海。

知らない…
こんな拓海を私は知らない……

ドクンドクンと、冷たく重く鳴り響く心臓の音。
飲み込み切れない鉛のような暗鬱が胸に広がる。

動揺を悟られたくない私は「いつも通りに振る舞わなければ」と笑顔を懸命に維持しようとする。

凍りそうな顔を何とかしたくて、これじゃいけないと唇の端を懸命に釣り上げるのに、その努力に表情がついてこない。その事に泣きたくなり、今度は涙を堪えなければと、必死になる。

(祝福できない私を、知られちゃダメ…)

「どうした桃子、お前、変じゃないか?」

その言葉に私は顔を歪めた。

(変じゃないか…? 変じゃないか…? 変じゃないか?)

訝しく眉を寄せ、そう一言呟かれた拓海の声は、まるで、脳内にこだまするように、私を追い詰める。

(いつも通りでいなきゃ… いつも通りで……)

―――そうじゃなければ、壊れちゃうから

―――でも、いつも通りでいていいの?

―――いつもどおりなんて、もう、許されない?

なら…
私はこれから、どうすればいいの?

(拓海、わ、わたし…)

どうすればいいの?

まるで四方八方を塞がれたような閉塞感が苦しい。
だけど、私は、ギクリと凍り付く。

だって、その問を投げかける相手も、きっともう目の前の相手ではないと悟ったから。

そう思うと、突然暗闇に背中を押されたような孤独に恐怖を感じた。

今までいた場所は、もうない?

だとすれば、唯一胸に残った虚無を、誰が受け止めてくれるというのか。

失った場所に代わるものなど、あるはずがない。
拓海の傍に、代われる場所など、どこにもない…

急に息すら出来なくなる……
まるで、急に酸素が絶たれたように苦しい……
苦しいよ、拓海、助けて……

そう、拓海に涙ながらに手を伸ばすのに、私の喉からは声すらでない。

拓海はもう、こっちを見ていない。
違う方向に向かっている。

だから、私の思いは、きっと、永遠に、届かない…

(なんでだよ、拓海、いつもは鬱陶しいほど、こっちばかり、見てるクセに…)



「桃子? おいっ、桃子、大丈夫か、おい、お前、魘されてるぞ?もも、目、開けてみろ?大丈夫か、お前?」

突然肩を揺さぶられた私は、さっきまでとは違う顔が目の前にある事に眉を寄せる。

(拓海、じゃ……ない?)

「え、…お、にいちゃん?」

酷く焦った様子の兄の顔を見て、覚醒していた頭でも、これが夢だった事に気付いた。

そして、同時に、この虚無感が、夢ではない事にも気付いてしまう。

「な、んで……」

少しだけ、ホッとしたような兄の顔をみて、気付かれないよう、密かに息を整える。

「お前、酷い顔してるぞ? 一体何の夢を見てたんだ?その分じゃ、稽古、相当無理し過ぎてるんじゃないのか?去年の怪我の事もあるからって、あんまり自分を追いこんじゃダメだからな?」

そう心配顔で私を気遣う兄に、取り繕うように、素直に頷いた。

酷く喉が渇いていた。寝汗が凄くて、まだドクンドクンと胸を支配する悪夢の余韻が残っている。心配してくれる兄には申し訳ないが、理由は兄が心配するそれではない事くらいは、自覚している。

全ての原因は長年一緒に育った幼馴染の拓海に彼女が出来た事が原因なのだ。そのショックで魘される程には、きっと私は拓海が好きだったのだ。

「う、うん、大丈夫だよ? お兄ちゃん、いつ帰ってたの? 今度は、長くいられそう?」

そう話を逸らした私に、気まずそうに瞳を曇らせた三歳年上の兄は、大学に入ると同時に一人暮らしをしている。

「あー…、悪い、調べもの取りに、昨日の夜遅くこっちにきて泊まったけど、今からすぐ帰らなきゃならないんだ? 論文の提出期限が近くてさ、母さんがせめて、お前と飯食ってからにしろっていうから…」

そう言って頭を掻く兄。

「そっか…」

すると、兄は、何か思いついたように私に声をかけた。

「そうだ、せっかくだから、拓の奴も誘って、飯一緒に食うか?」

そう言われた私は、ギョッとして、首を横に振った。

(無理…、今は無理だから……)

「たっ……拓海は、きっと、この時間はジョギングだよ?」

思わずそう嘘をついてしまった。
そんな私の言葉を疑う事もなく兄は、少し残念そうにしながらも頷いた。

「そうか、それは残念だな、まっ、いっか、拓にもよろしく言っておいてくれな、頑張れって!今年は期待してるぞって」

「う、うん… 伝えとくね」

そう言った兄は、私の頭をポンと一つ撫でて、「それじゃ、早く降りて来いよ!」と言って部屋をでていった。

溜息を吐きながら、私の頭は数日前に遡った。

ほんのついこの間まで、こんな物思いなんて知らなかった。

悩みなんて、痛めた膝のコンディションと空手の試合の事くらいだったはずなのに、あれから私はどうにもおかしい。

―――失恋と同時に自覚する恋心なんて、報われなくても自業自得だ。


≪数日前≫

蒸すような夏の夕方の道場の中、後輩達が息を呑んで見守る中、私は神経を研ぎ澄まし、一点に集中しいていた目を細めた。

「っ…、せいっ…!」
「はっ……」
張り詰めた掛け声と同時に繰り出された下段への蹴りを受け止め、体制を持ち直した私は攻撃に転じた。上段に見せかけた蹴りを中段に切り替えた私の動きを見切った友人沙也加は、拳を数回繰り出した後に、今度は膝蹴りに転じようとしたが、それをかろうじて避けた。
少しの緊張状態の後に、再び繰り広げられる攻防に一瞬の隙を見つけた私は、同じく拳を数回振りだした後、中段回し蹴りを繰り出した。

(決まった……)

目の前には悔しそうに歪む沙也加の顔。
飛び交う汗も気にせずに、無心に相手に向っていた私達に、「止め」の合図が入る。

その瞬間、私たちは、緊張の余韻を残したまま、少しだけいつもの顔に戻る。
鋭かった表情に、砕けた友人の顔を取り戻す沙也加。

今日の勝者は辛うじて私だ……

差し出した手を払った沙也加はピョコンと飛ぶように立ち上がり、悔しさを顕わにした仁王立ちで叫んだ。

「くぅ~ ピエン!!まぁた、負けたぁぁ~、っうう~これで四勝七敗かぁ~!!くっそ~!!」
その雄叫びは一瞬にして張り詰めた空気を笑いに変える。

「いや、さや、ピエンって……、そこの部分だけ妙に浮いてるから、使い方間違っちゃってるよ…」

そう言って悔しそうに持っていたタオルをギリギリと握りしめる沙耶香に、私も苦笑する。
沙耶香と私は、4歳の頃から共にこの道場で空手を始めた無二の親友でもあり貴重なライバルでもある。

―――ここは【拳闘会 油木道場】
大きな派閥には直属してはいない中堅の空手道場であるが、過去数名の有力選手を輩出したこともあり、ここ数年で評価を著しく上げた道場である。
そして、私の育った場所と言っても過言ではない。

私の名前は九重桃子(ここのえももこ) 17歳。
ごくごく普通の高校2年生だ。

一つだけ、誇れる事があるとしたら、この道場でここにいる皆と切磋琢磨しながら空手の稽古を重ね、17歳の現在にして黒帯となっていることくらいだろうか。

世間でフルコンタクトと言われる、身体と身体をぶつけ合う、実践的な空手の試合の最高峰ともいえる大会で、いずれはその頂上に立つことが私の目標だ。その志はここにいる皆も同じであり、私たちは性別・年齢それぞれ違えど、多くをこの「道場」という一つの社会から学び、今の自分というものを築き上げてきた。

だからこそ、ここには、他では得られない確固とした強い絆がある。
だけどそうして共に過ごしてきた私達も、すでに17歳を迎え最近、徐々に気づき始めた事がある。今、私たちは人生の岐路に立っている。
きっと、高校を卒業する頃には、今までのように皆一緒に今までの生活を過ごす事は難しくなるだろう。

それはかつて私たちの世話を焼き、可愛がってくれた多くの先輩をここから見送った事からも経験済みだ。

空手を続けるもの。
新しい道の為、退会の道を選ぶもの。
場所を変えて追求し続けるもの。
ごく少数でああるが、キックボクシング等 違う道に転向を選ぶ人もいた。
でも私はまだまだ、ここで自分の決めた目標を目指し続けたい。

---ここまで頑張ってきたからには「頂点」をこの手に…

できる事ならば、苦楽を共にしてきたこのメンバーがいるこの数年で皆でいられるこの数年で、過去の努力を形に残したい。

もちろんそれは自分の為、そして、今まで共に心を寄せてくれた多くの人たちの為でもある。
そして、今キラキラと強くなることに憧れ真っ直ぐな瞳で日々の鍛錬をを続けている後輩達に少しでも熱くなれる何かを残せる先輩でありたいとも願っていた。

「うわー もこ先輩 さや先輩 今日迫力!絶好調ですね!!くっ~、なんか刺激されたぁ!!私も頑張らないと、この後、青年部にも残っていいですか? あ!! それでもって今日もファミレス行くなら一緒に行ったらダメですか!?私、相談したいことがあって……」

「えっ… ずるい~ なら私も~ もこ先輩 さや先輩 いいでしょ??」

「おいってば、待てよ、ずっり~な~!! もこ先輩 さや先輩 俺も、いっすか?」

「あんたはいいのよ、男はいらない!邪魔!!」

「ひっで~、なら俺、女の子になる♡」

「…うざっ」

練習を終えようとしていたら、元気な中学生の後輩達に取り囲まれて、私は沙耶香と苦笑する。皆、今より、強い自分になろうとキラキラしていて、色々な話に興味深々だ。多感な時期だけあって、最近では恋愛相談も多い。自分達にもこんな時期があったなって、目を細めて、沙耶香と目配せをして、ついつい仕方ないかと、思わず「ファミレスは無理だけど、ちょっとだけなら」って頷きそうになっていると、後ろから不機嫌な声がかかった。

「お~い!!お前ら…練習熱心なのは結構な事だけどよ、それは、ま、さ、か、とは思うが、現実逃避と直結してるやつじゃないだろうな?? おっ??」

そう言って、強面の男が登場する。

「ひっ、…た、拓先輩っ!」

男の子の後輩、陸くんは、気まずそうに引き攣った笑顔を作りながら、後ずさり、女の子達は、キャーと大袈裟に驚いた振りをしながらも、明らかに嬉しそうな表情に変わる。明らかに構ってもらえる事に期待している姿がまだまだ子供の名残を残していて中学部の後輩達はとても可愛い。ついこの間まで小学生だったもんね、と微笑ましくなる。

そんななか、拓海は、既に身長180センチ半ばになっているであろう、体格のよくなった身体で、からかうような笑みを浮かべて、中学生の前に立ちはだかりニヤニヤと意地悪な笑顔を浮かべる。中学生達は実はこの顔が大好きだ。
拓海の姿は一見恐ろしいが、その瞳の奥にある親しみ深い愛嬌と優しさを知らないものはこの道場にはいないから。

今や、この道場に通う後輩達の中では一番の憧れになろうとしている一之瀬拓海。私の小さな頃からの幼馴染であり、一番近い同志とも呼べる存在だ。

「お前ら、今日テスト発表あったんだろうが…?俺が知らないとでも思っているのか? いいか、テストを優秀な成績で終了したら、心行くまで… いや、木っ端微塵になるまで稽古をつけてやるから、今日は帰って、しーっかりと勉強しろ。いーか?中途半端なことしてんじゃねえぞ?ここ辞めさせられて、机に括り付けられて泣いても知らねぇからな…」

拓海は恐ろしい顔で、中学生達を脅し上げている。

そんな脅しが功を奏したのか、後輩達は、明らかに顔を引き攣らせて、そそくさと頷き合って、荷物を纏めて、まるで蜘蛛の子を散すように引き上げていった。

最後に礼儀正しい「押忍」の挨拶だけは忘れない姿が、また可愛くて思わず笑みが零れる。

「じゃあな~、気をつけて帰れよ!!」

後輩達の背中を満足気にウンウンと見送った拓海は私達を振り返った。
満足そうな拓海の笑顔に私も顔を綻ばせる。

拓海と私は同い年だ。
艶のある漆黒の黒髪をいつも短くしていて、髪の癖を利用して自然にツンと立てている。 背も伸びて、しっかりと筋肉を纏った体つきだけでも十分に人目を惹きつけるようになったのに、男の子の顔つきも年齢に応じてその赴きを変えていく。最近では体格に比例するように顔立ちもファイターに相応しく端正に引き締まり、黙っていても、どことなく志とオーラーを感じさせるようになり、それなのに今みたいな砕けた笑みは、いつだって対する相手の懐に入り込む親しみを与える。そして、軽口を叩いて、馬鹿みたいに笑う姿はまさに世間でいうところの「兄貴」って感じで道場のムードメーカーだ。

なんだかちょっとずるいと思うくらいには、ここ数年ですっかりと男ぶりを上げていった拓海は、体力、技、どこか落ち着いてきた雰囲気も漂わせて、空手も飛躍的に強くなり続けている。

「もこ、さや、随分とエキサイトしてたじゃねぇか? お前ら、熱くなりすぎんなって忠告を毎度毎度、見事に無視しやがって、……痛めてないか? 揉んでやろうか?」

そう言って、手のひらをムニムニさせながらワザといやらしく笑う拓海に対して、さやも負けてはいない。少し意地悪く目を細めて笑うと反撃に転じた。

沙耶香は薄い色素の天然の茶髪をボブショートにしていて、童顔で可愛らしいのにとても気が強い。道場のもう一人のムードメーカーと言えば間違いなくこの沙也加だろう。

「揉んでもらいたいところだけど、下心ないでしょうねぇ?まぁ、いいよ?かかってらっしゃい、狙いは私じゃないでしょうけど?」

そう言ってからかうように、拓海を挑発して唇の端を上げて拓海と同じようにファイティングポーズをとり微笑む沙耶香。指はちょいちょいとカモンベイビーを思わせる振り付けになっている。

「は!?… お前、何言ってる? 誰が欲情するかよ、お前らなんかに、たくっ、ふざけんてんじゃねえっての…、いいから、二人とも一緒に座れ、大会近いってのに、馬鹿みたいに体を酷使しまくってんじゃねえよ!この阿呆どもが!」

「もう~、むきになっちゃって、拓海ちゃんたら、仕方ないなぁ、言う事聞いてやるか~」

「うるせえ!なんで上から目線なんだよ?」

拓海と沙也加のいつもの攻防に笑顔を向ける。
そして今日もまるでオカンのような拓海の愚痴が続く。

「大体お前らには、万全の体調で試合に臨むって気配りが足りないんだ…
つまらない勝負に入れ込んでんじゃねえよ。元も子もないだろうが…」

「だってさ、モチベーションは大事なんだよ?」

「うるせぇ、屁理屈言ってんじゃねーよ」

沙也加と未だ言い合いしながら拓海はタオルと、テーピングを持ってきて、道着に覆われている私の膝を出して見つめて、少し表情を曇らせる。
拓海が心配するように未だに不安を抱えた状態である事は分かっている。
それでも焦りと高ぶりからつい酷使してしまう膝。

「無理、すんなよ……」

「うん、ごめん……」

少し真顔でそう呟かれて、私は面目なくそう謝った。
前回の大会で傷を負い、まだ少し不調気味の膝を気遣ってくれているのだろう。
沙也加も私と目を見合わせて苦笑しながら、大人しく拓海に従った。

本当は私達も判っているのだ。こういうコンディション管理にどれだけ拓海に助けられているのか。拓海はこの数年でこういった怪我についての知識も何故か身に付けている。

年に数回出場する空手の試合というのは本当に過酷で、常に怪我とそれさえも克服しようとする自分との勝負でもある。空手の試合は身体と身体をぶつけ合いながらのトーナメントだ。どれだけ注目選手と言われても、優勝候補と目されても、ある意味、運のようなトーナメントの中で、早い段階で、互角以上の有力選手とぶつかり合い、傷を負ったまま、次の試合に臨む中で、最終的には格下とされていた選手に負けて涙を呑んだ事も数え切れない。

皆条件は同じなのだから、そういった運も実力の内と言えばそれまでだが、私はそうした中で、まだ目標の大会で優勝をしたことはなかった。

私たちが頂点を目指しているのは最近になってようやく流派を超え始めた全国的なものだから、強豪達が熾烈な戦いを繰り広げているまさに修羅の場だ。 気絶・骨折・救急車など当たり前の正に体当たりの勝負。そうして、涙を呑んだ試合で負った怪我が、また次の大会までに治りきらず、負のスパイラルに苦しむ事にもつながる。私の膝の負傷も去年の大会から長引いているものだ。

拓海自身も頂点を目指す身だというのに、こうして周囲への目配りを決して怠らない。
それはきっと拓海がこの場所を何より愛しているから。
私たちのテーピングが終わってからもあれだ、これだと周囲に指示を出す拓海。
常にあらゆるところに気を配り、師範をよく手伝い、弟や妹のように後輩たちの心に寄り添って、積極的に組織の運営を助けるように手伝いにもでている。
そんな拓海に師範初め、組織の上層部も将来を期待していて、その人間性と将来性を高く期待されているのは周知の事実だ。

そんな時、もう一人の仲のいい友人の成瀬哲也くん、通称「哲ちゃん」が戻ってきた。
彼も私達と同じ高校に通う同級生だ。
それに続いて私の同期達が次々と揃い始める。

男の子たちを紹介すると、まず、先ほどの哲ちゃん、彼は私と拓海の古くからの幼馴染であり、数か月前から沙也加と付き合い始めた。
優しくて気が利く長身の整った顔のイケメンだ。
地毛の柔らかい赤味を含んだ茶髪で、少し色素の薄い琥珀色の瞳で笑う姿はまるでモデルのようで、親しみやすい性格からも後輩達にも人気がある。そんなだから学校でもかなりモテていて沙也加はいつも気を揉んでいるのがとても可愛い。

哲ちゃんの柔らかい雰囲気に対して、これから紹介する斎藤一也君。
彼は、基本的にはクールで無口なタイプで、人を安易に寄せ付けない雰囲気がある。
でも実は意外と気がつく繊細なところもあって、皆の事や道場の状況を的確にとらえていて、時々あっと気付かせてくれる言葉を発してくれる事も多い頼れる存在だ。
皆の中では、若干小柄な一也くんは軽量級のホープでもあり、昔から身のこなしが俊敏で身体能力はずば抜けていて、どんなスポーツでもこなせる天才肌なのだ。他の道場の人達からはからは≪拳闘会の黒豹≫とも言われてその俊敏さと繰り出される無数の技を恐れられてもいる。猫科の動物に例えられるだけあって、切れ長の瞳は独特の雰囲気を纏っていて、薄い唇をした一也君の美貌は女性でも見惚れる中性的なもので、本人は凄く嫌がって舌打ちしていたけど、大会前の格闘雑誌の取材を受けた際には上半身裸でタオルを被る姿は多くのツンデレ好きを萌えさせたと後輩の女の子たちが噂していた。

そして、身長190センチを超す道場一番の長身を誇る晴人君。
少し粗削りな男らしい顔立ちは正に世間が想像するところの格闘家のイメージに相応しい。
若干強面であまり余計な事を喋らない実直な晴人君は、彼の事を良く知らない人達から怖がられることもあるけれど、実は道場でも一二を争うほど温厚で思いやりのある性格で、彼を良く知る仲間からの信頼が厚い。そして、笑うと目尻が下がって凄く優しい顔になる。
家は隣街のお医者さんと言うだけあって、実は成績優秀なのだけど、そんな雰囲気を周りに感じさせない。
以前はこの街に住んでいたのだが、最近は隣町に引っ越した為、朝からバイクで道場に通って早朝練習をして、その後、学校に通学している。隣町にも系列の同じ道場があるのに、ここに通い続ける晴人くんもまた、私と同じでこの場所が大好きなんだと思う。


皆小学校の頃からこの道場で一緒だった私達は今、高校二年生で偶然にも同じクラスになった。学校は皆で示し合わせたように同じところを受験した結果なのだけど、二年になった今年、同じクラスだったことには皆声をあげて驚いた。

以上が私たちの同期で、この道場の「強化選手 」と言われる中心メンバーだ。

「哲ちゃんご苦労様。皆無事に帰れた?」

そう問いかける私に哲ちゃんは優しい笑顔で微笑んだ。

「あぁ…大丈夫だよ。けど、ほんとに物騒だな。早く犯人が捕まらないと落ち着かないよ。
奴ら、変に強くなった気になってるから、逆に危なかしい奴らばっか、だしな。」

「あはは、言えてる!ほんと、それだよね?」

そう言って、困ったように笑う哲ちゃんに、私達も同意して苦笑する。
時刻はすでに21時を過ぎていた。
一週間くらい前から、この近辺に不審者情報が頻発しているのだ。

だから、私達も警戒して、黒帯レベルの高校生の男の子が手分けして、保護者の送迎がどうしても都合がつかない女の子達を危なくないだろう場所まで送っていったりして事故のないよう対応していた。

哲ちゃんに続き、晴人君や一也君も女の子達を送って戻ってきた。

「お帰り、ご苦労様!」

「おうっ…」
「ただいまっ」

私たちはそう声を掛け合うなか、沙也加に歩み寄る哲ちゃん。

「さやっ!」

そんな哲ちゃんの顔を見ようともしない沙耶香はブスっとしていた。

(あ~……)

私たちは、その理由が何となく判って、拓海と目を合わせて苦笑した。

「さや… 」
宥めるようにもう一度かけられる哲ちゃんの声を沙耶香は無視して、その顔を逸らす。

「さや… 何で怒ってるの?」

そう機嫌をとるように沙也加の顔を覗き込む哲ちゃん。

「…怒ってなんかないよ。そんな訳ないでしょ?」

そう言って顔を引き攣らせて、哲ちゃんを睨む沙耶香。

「やっぱ、怒ってんじゃん? さや… 」

そう言いながら、その場を離れて掃除道具を取りにいく沙耶香の背中を負って、哲ちゃんも私たちの元から去って行った。

「…見ていて馬鹿馬鹿しくなるほど、判りやすい奴ら、だな…」
呆れたように呟く拓海。

「あははっ…本当だね…」
子供みたいに素直なところがある沙也加の機嫌が直るまで毎回律儀に宥める哲也くんは本当に優しいし、何より沙也加が大好きなんだろう。

「哲って、…あんな情けなかったか?」

二人の背中を見つめ、同意しながらも哲ちゃんの為にフォローを入れる。

「情けないなんて、哲ちゃん優しいんだよ。ははは…」

「いや、あれは尻に敷かれ過ぎだろう?」

私には沙也加の不機嫌の理由は明確に分かっていた。
きっと、あえて「哲先輩!送って!!」と哲ちゃんを名指しで送って欲しいと言った女の子の意見を受け入れて、そのままその後輩の女の子を二人きりで送って行ってしまった事に、沙耶香は少なからず心中穏やかでいられなかったのだろう。

そして、多分哲ちゃんもそれは判っているのだ。

幼馴染のような関係だった沙耶香と哲ちゃんが付き合い始めてからまだ三ヶ月くらいしか経ってはいない。普段穏やかで、どちらかとしたらふんわりとした雰囲気の哲ちゃんは本当は凄く真が強い、いい男だと思う。そして、普段、凄く強気で豪快だけど、本当は繊細なところがあり、寂しがり屋で傷つきやすい沙耶香。

お似合いカップル成立に喜んだも束の間、数々の場で今までは無縁と思えた嫉妬を見せる様になった沙耶香をいつも、どこか嬉しそうに宥める哲ちゃんの姿が、未だ恋愛経験の無い私たちには甘すぎて、日々、お腹一杯状態なのだ。

それでも、二人が微笑ましくて、そしてちょっとだけ、羨ましいなんて感じてしまうのは、私もお年頃ということで仕方ないことだろう。

そんな私たちは、今日も練習後の空腹の辛さに勝てずに、4人で家の近くのファミレスに寄り、思い思いのものを注文する。練習直ぐの食事は筋肉になりやすいなんて理屈をいいながら、こうして語りあう時間が大好きなのだ。

拓海も哲ちゃんも長身で逞しいから、いつもとても店内で目立つ。
こうして練習後をこのファミレスで過ごすようになって何年がたつだろうか。
でも私は二人を見る周囲の女の子達の視線が色めき始めたことに随分前から気づいていた。

私と拓海の家は隣接していて、私は、物心つくころから拓海と一緒だった。
1歳から2歳くらいの「仲良く遊ぶ」何てまだまだできない頃から、共に公園や庭で遊ばされた。

あれはまだ幼稚園の年少さんだった頃だろうか。
物心つくころから、朝目を開けると拓海が満面の笑顔で私を見つめていた。
「俊ちゃん、もこ、遊ぼう!!」って…
休日でも時計を見ると6:30とか7:00だった事も度々で寝起きの母が苦笑していた。

「たっくんたら、もう脱走してきちゃったの?」
そう言って、母は、布団を持ち上げて、拓海を私達と同様にベッドに招き入れて、背中をトントンしながら二度寝に誘っていた。

その後、9:00頃にそれに気付いた拓海のお母さんが申し訳無さそうにお迎えに来てたっけ。

拓海が引っ越してきてから、私たちの母親同士は気が合って直ぐに距離を縮めていった。
私達は、自宅の庭のビニールプールに一緒に放り込まれ、どちらかの母親の仕事が忙しいと同じ布団に放り込まれ、同じ本を読み聞かされて眠りについた。

拓海のお父さんが早くに亡くなった為、拓海の家は拓海が物心つく頃から母子家庭で、お母さんが大手のデザイン会社のチーフデザイナーになった頃から毎日がとても忙しくなったそうだ。

当時の私の家は、3歳年上の兄の俊哉と両親の4人暮らし。だけど、父は忙しく不在が多い人だったから、休日家族揃ってお出かけなんてなかなかできなかった。
だから、母も母なりに子供達との楽しい時間を築こうとしていたのかもしれない。

土日は大抵母が、兄、私、拓海、そして、時には、少し離れた家に住む、母のママ友の子供であった沙耶香を連れて車で公園に遊びにいき、母は、まったりと木陰で楽しく遊ぶ私たちを見守りながら、「これだけいると、逆に楽だわねぇ…」なんて言いながら、自分は読書しながら、暢気に休日を過ごしていた。

母自身も仕事は持っていたから、割と体力のある人だったのかもしれないと今は思う。
本当に拓海とはまるで兄弟のように育った。それは兄である俊哉が未だに完全に拓海を弟扱いしている事からも分かる。

そうして、4歳の頃、母の「しばらく送り迎えはするから一緒にいいでしょ?体幹も鍛えられるっていうし、この子達こんなに仲良しなんですもの?」の一言で私たちは、母が知人から勧められたという空手道場に通うことになった。拓海のお母さんはその時、少しの間迷っていたらしいけど、結局拓海を道場に通わせ始めた。

そこで多くの仲間と出会い、今の私達がある。
その後、数年間で出会った多くの仲間の一人が今、沙耶香の隣にならんで微笑んでいる哲ちゃんでもあるし、一也君や晴人君でもある。当時はもっと沢山の仲間に囲まれていたがその数は様々な理由で徐々に減っていって今に至る。だからこそ、残った私たちの絆は固い。

子供の頃の拓海は、今では考えられないけど、比較的身体も小さくて、競い合う事よりも楽しい事を好むタイプで、どちらかといえば初めは空手には消極的だったと思う。
それでも、いつの頃からか、誰よりも空手に熱心になった。
それでも長い間、その努力に反して拓海は思うように勝ち進めなかった。

それに対して、私はたぶん元々女子の中では体格にも恵まれていた方で、空手とは別に少しの間だけ習っていたダンスのリズムやバランスなども何らかの効果になったのか、型の覚えも早いと言われ地方の大会で入賞することが多かった。

それでも拓海はひた向きだった。
黙々と通常の稽古、強化稽古、合宿、自主練習全てに努力を惜しむことは決してなかった。

そんな拓海の姿は誰より私が知っている。

だって、私は拓海の一番近くで拓海を見続けてきていたのだから。だから、私も、拓海に負けないように頑張ろうと思えたのだ。

中学に入ってしばらくの頃までだっただろうか。
男女の差は本当にあまり感じる事なく私たちは共に過ごしてきた。朝夕のランニングや筋トレ、体力をつける為のロードバイクでのサイクリングなど、可能な限り行動を共にしてきた。

拓海も私を変に女の子扱いはしなかったし、私も拓海に負ける気なんて無かった。

だけど、中学後半くらいからの体格差はやはりどうしようもなくて、日々逞しくなっていく、拓海において行かれたくなくて、必死に稽古に励んだ。女子は女子、男子は男子の部で活躍できたらそれでいいはずなのは頭の中ではしっかり理解していたのに、何故か私は焦っていた。

ずっと、拓海と同じ未来を見つめていたかった。
横で変わらず並べる程、強くありたかった。

私はずっとずっとそれを、大切な友達だからだと、兄弟のように育った幼馴染だからだと思っていた。

心に巣食い始めた焦りに似た何かに、違和感は感じていたのに、私はその違和感を直視する事を怠っていた。

その後、哲ちゃんと、沙耶香が想いを通じ合わせるようになり、そして拓海がここ数年で姿形を急激に変えて、学校や、道場で多くの女の子達の注目を浴びるようになった頃から、私の心の中には確かな戸惑いが芽生えていたはずだったのに。

―――私はそれを恋だと、認める事をしなかった。