意気揚々とした返事をして、それから私たちは物語のラストまでの展開の摺り合わせと、出版までの大まかなスケジュールを立てていった。
順調に行けば、おそらく春の始めごろには新作を書店に並べることができるだろう。
新しい作品を世に出せるというのは、何度経験しても嬉しいものだ。
この物語が誰かの手に取られる瞬間を想像しながら、愛用の手帳にうきうきと予定を書き込んでいく。
すると突然、東雲さんが意味深にこちらを見たのが分かった。

「どうしました?」

「いえ、今日の先生はやけに上機嫌ですから。例の彼との関係はどうなったのかと気になりまして」

眼鏡の奥の切れ長の目が真っ直ぐに私を映す。
他人の色恋沙汰など露ほども興味がないだろうに、どうやら東雲さんはずっと私を心配してくれていたらしい。

「関係は、特に何も変わってないです」

「では、あなたの中で何か心境の変化が?」

「そうですね。とても当たり前のことに、今さらながら気づくことができました」

「当たり前のこととは」

「今、目の前にある幸せを見逃すことが、一番不幸だということです」

そんな至極当然のことを、さも大発見かのように堂々と述べて、それから私はすぐに苦笑いを浮かべた。

「まぁそんなことを言っても、私のことだからまたすぐに落ち込んだりすると思うんですけどね」

しかしここまで思い至ることができたことこそ進歩なのだと胸を張る。
するとずっと静かに私を見つめていた東雲さんが、突然弾かれたように笑い声を上げた。
彼から聞くのは珍しい、皮肉の混じらないその笑い声に、ただただ呆然とする。

「な、なんですかいきなり」

「ははっ、すみません。ただ喜ばしいと思ったのですよ」

「喜ばしい?」

「はい。あなたはその生い立ちのせいか、幼いころからあまり人を寄せつけず、どこか淡白で、しかしそんな孤高の気質が作品に活かされているのだと私は肯定し続けてきましたが」

そこまで言うと、東雲さんは見たこともないほどにその鋭い瞳を和らげた。
薄暗い喫茶店の窓から、まだ見ぬ春を感じさせるような柔らかい日差しが降り注ぐ。

「あなたをそばで見てきた身として、あなたが誰かと生きることに幸せを見出してくれたことが、とても喜ばしいのです」

つい東雲さんの目を見られなくなり、俯きながら「どうも」と返す。
そんな私の照れ隠しを見た彼は、やはり愉しげに笑った。



「はぁい、分かった。うん、それじゃあ」

東雲さんとの打ち合わせを終えた一週間後。
その日は朝から引っ越しの準備をしていたはずが、突然の母からの着信でやむなく中断させられてしまっていた。
母が急に電話をしてきたのは、私が先ほど、千里くんと本格的な同棲をするために引っ越しをするというメッセージを送ったためだ。
いちおう礼儀として知らせておこうと思い送ったものだったのだが、どうやらその簡素な報告が彼女の癇に障ったらしい。
電話口の母の声は相変わらず神経質で冷たく、聞いているだけで頭が痛くなってくる。
私に相槌も許さないほどに喋り倒され、やっと話を切り上げられたころには、ゆうに三十分が経過してしまっていた。

「聖ちゃん、お疲れ様」

へとへとになって電話を切ると、遠くから様子を見守ってくれていたらしい千里くんが、あたたかいホットミルクを持ってきてくれた。
そのほのかなシナモンの香りが、私のささくれた心を癒してくれる。