「それで?」
「それでって、それだけですけど」
「あなたが自分と他人を比べて落ち込むなんて、昔からよくあることではないですか。今さらそこまで思い詰めるものなのかと疑問に思ったのですが」
さすが、十年来の付き合いは伊達ではないらしい。
なぜだか妙に興味深そうな東雲さんには、やはりすべてがお見通しのようだった。
そんな彼の様子を不思議に思いつつ、昨日の出来事を回想する。
「実は昨日、千里くんが昔好きだった人に会ったんです。賢くて正直で、彼の話もよく分かる、何もかもが私よりも優れたような人でした」
「ああ、つまりは嫉妬ですか」
「自分の複雑な感情をたった二文字に要約されると、なんだか無性にムカつきますね」
腹立たしさから下品に音を立ててフロートを吸い込むと、東雲さんが愉快そうに笑い声を上げた。
「でしたら今の気持ちをそのまま新作として書き起こしてみたらいかがですか?」
「今の気持ち?」
「ええ。恋愛小説だからと言って、美しく書こうとなんかしなくていいんです。今の感情をありのままに綴るんですよ」
どうやら東雲さんが謎の活気に満ちているのは、現状を打開する糸口を見つけたからだったようだ。
しかし執筆する側である私にはピンと来ず、訝しく彼を見上げる。
その視線を受け止めると、いつものシニカルさを潜めた東雲さんは、怖ろしいほど柔らかく微笑んだ。
「日下部先生が思うほど、その感情は罪深いものではありません。むしろ誰しもが普遍的に懐くような感情です」
「でも、そんなことをしたら目も当てられないくらいどす黒いものを生み出しそうなんですが」
「それもまた一興でしょう。Is love a tender thing? It is too rough, too rude, too boisterous, and it pricks like thorn.」
「tender thing……ええと、愛は柔らかいものか?」
「『ロミオとジュリエット』の一節です。恋が優しいものだと? 恋とは荒々しく乱暴で、茨のように人を刺すのだ、といったニュアンスですかね」
引用先が『ロミオとジュリエット』だなんて、やはりこの人はどこかロマンチストの気がある。
それはさておき、恋は茨のようだとはまさにいい例えだ。
私も千里くんに恋をしてから、楽しいと思うことよりも苦しいと思うことの方が増えた。
あたたかく純粋で崇高なものだと想像していた恋という感情に、そんな側面があっただなんて知らなかったのだ。
けれど、だからと言って千里くんへのこの想いを取り除いてほしいだなんて思わない。
心を突き刺すような痛みも彼を想う証ならば、もはやそれすら愛おしいのだから。
「一度筆を取ってみてください。きっといいものが書けると思いますよ」
確信めいたように言われ、完全に納得することはできなかったものの、私は素直に頷いた。
ほかの連載についての話し合いも終え、東雲さんと別れてからもどこかへ立ち寄る気力はなく、ファミレスから真っ直ぐにマンションへと帰る。
電気の消えた室内は、当たり前だけれど薄暗い。
玄関を抜けてリビングに入り、しんと静まり返った空間に耳を澄ます。
しかしどれだけ五感を研ぎ澄ましても、千里くんの気配を感じられるわけなどなかった。そんな部屋の中で「一人だ」と呟いた声も、誰にも届かずに消えていく。
一人は嫌いではなかったはずだ。
物語を紡いでいられればそれで満足だったし、誰かといると劣等感を抱いてしまう。
だから私はずっと一人だった。
それなのに。
ひっそりとした部屋で立ち尽くす私に襲いかかってきたのは、明らかに寂しいという感情だった。
これはなんてやっかいな感情なのだろう。
千里くんに恋をしなければ、こんな心細くて惨めな気持ちなど知らずにいられたのに。
「それでって、それだけですけど」
「あなたが自分と他人を比べて落ち込むなんて、昔からよくあることではないですか。今さらそこまで思い詰めるものなのかと疑問に思ったのですが」
さすが、十年来の付き合いは伊達ではないらしい。
なぜだか妙に興味深そうな東雲さんには、やはりすべてがお見通しのようだった。
そんな彼の様子を不思議に思いつつ、昨日の出来事を回想する。
「実は昨日、千里くんが昔好きだった人に会ったんです。賢くて正直で、彼の話もよく分かる、何もかもが私よりも優れたような人でした」
「ああ、つまりは嫉妬ですか」
「自分の複雑な感情をたった二文字に要約されると、なんだか無性にムカつきますね」
腹立たしさから下品に音を立ててフロートを吸い込むと、東雲さんが愉快そうに笑い声を上げた。
「でしたら今の気持ちをそのまま新作として書き起こしてみたらいかがですか?」
「今の気持ち?」
「ええ。恋愛小説だからと言って、美しく書こうとなんかしなくていいんです。今の感情をありのままに綴るんですよ」
どうやら東雲さんが謎の活気に満ちているのは、現状を打開する糸口を見つけたからだったようだ。
しかし執筆する側である私にはピンと来ず、訝しく彼を見上げる。
その視線を受け止めると、いつものシニカルさを潜めた東雲さんは、怖ろしいほど柔らかく微笑んだ。
「日下部先生が思うほど、その感情は罪深いものではありません。むしろ誰しもが普遍的に懐くような感情です」
「でも、そんなことをしたら目も当てられないくらいどす黒いものを生み出しそうなんですが」
「それもまた一興でしょう。Is love a tender thing? It is too rough, too rude, too boisterous, and it pricks like thorn.」
「tender thing……ええと、愛は柔らかいものか?」
「『ロミオとジュリエット』の一節です。恋が優しいものだと? 恋とは荒々しく乱暴で、茨のように人を刺すのだ、といったニュアンスですかね」
引用先が『ロミオとジュリエット』だなんて、やはりこの人はどこかロマンチストの気がある。
それはさておき、恋は茨のようだとはまさにいい例えだ。
私も千里くんに恋をしてから、楽しいと思うことよりも苦しいと思うことの方が増えた。
あたたかく純粋で崇高なものだと想像していた恋という感情に、そんな側面があっただなんて知らなかったのだ。
けれど、だからと言って千里くんへのこの想いを取り除いてほしいだなんて思わない。
心を突き刺すような痛みも彼を想う証ならば、もはやそれすら愛おしいのだから。
「一度筆を取ってみてください。きっといいものが書けると思いますよ」
確信めいたように言われ、完全に納得することはできなかったものの、私は素直に頷いた。
ほかの連載についての話し合いも終え、東雲さんと別れてからもどこかへ立ち寄る気力はなく、ファミレスから真っ直ぐにマンションへと帰る。
電気の消えた室内は、当たり前だけれど薄暗い。
玄関を抜けてリビングに入り、しんと静まり返った空間に耳を澄ます。
しかしどれだけ五感を研ぎ澄ましても、千里くんの気配を感じられるわけなどなかった。そんな部屋の中で「一人だ」と呟いた声も、誰にも届かずに消えていく。
一人は嫌いではなかったはずだ。
物語を紡いでいられればそれで満足だったし、誰かといると劣等感を抱いてしまう。
だから私はずっと一人だった。
それなのに。
ひっそりとした部屋で立ち尽くす私に襲いかかってきたのは、明らかに寂しいという感情だった。
これはなんてやっかいな感情なのだろう。
千里くんに恋をしなければ、こんな心細くて惨めな気持ちなど知らずにいられたのに。