まさかと思いつつ彼方さんの様子を窺えば、一瞬動きを止めた彼の目が、みるみるうちに見開かれていった。

「もしかして、あなたが日下部先生ですか!?」

「は、はい、日下部聖です」

「ええっ、うそ、本当に……!?」

あからさまに上擦る声に確信する。
やはり彼こそがあのカナタさんで間違いないらしい。
カナタと読んでいた名字は、本当はオチカタと読むのかと、初めてファンレターをいただいてからおよそ10年越しに、私はその真実を知った。
それにしても、偶然あのカナタさんに出会うことができるなんて。
“事実は小説よりも奇なり”とは、まさにこのことだ。

「先日もお手紙をありがとうございました。彼方さんがくださる感想を、いつも執筆の励みにしています」

「こちらこそ、いつも先生の新作を読むのを楽しみにしていて――」

そこまで言うと、彼方さんは顔を右手で隠すようにして押さえた。

「すみません、俺の顔、真っ赤ですよね。驚いたというか、嬉しくって。まさか日下部先生にお会いできる日が来るなんて思わなかったので」

そう言いながら耳まで赤く染めてたじろぐ姿に、なんだかこちらまで照れてしまった。
同年代の男性がこのように素直に感情を表現するのは、いささか新鮮だがかわいらしいものだ。
それにこんな寂れた女に会えただけだというのに、まるで四つ葉のクローバーを探し当てたみたいに喜ばれたら、誰だって嬉しいに決まっている。
想像していた印象とは違えど、やはりカナタさんが素敵な方だということに変わりはなくて、私は少し安心した。

「ええと、先ほどのお詫びと言ってはなんですが、先生の執筆にお役立ていただけるのでしたら、インタビューでもなんでも喜んで答えますので、遠慮なくどうぞ」

「ありがとうございます」

お言葉に甘え、カバンの中からいつもの手帳とボールペンを取り出し、新しいページを開く。
その一番上に彼方千里さんと書いてから、私は改めて彼の方に向き直った。

「ではまず……彼方さんのご職業についてお聞かせ願えますか?」

「はい。普段は液晶配向膜に関わる研究開発を行ってます」

「研究職ということですよね? 液晶配向膜とは?」

「簡単に言うと、テレビやパソコン、スマートフォンの画面に使われる材料のことですね」

液晶配向膜とは、液晶分子を一定方向に並べる、ナノレベルの薄さの膜のことらしい。
液晶ディスプレイを使用する製品には欠かせないもので、またその性能を大きく左右する役割をもつそうだ。
化学の知識などまるでない私にも分かりやすく、彼方さんは懇切丁寧にその研究のことを教えてくれた。

「どうしてこの職業に就こうと?」

「研究職を選んだのは完全に成り行きです。デジタルデバイスは日々の成長が目まぐるしくて、開発結果が世の中に還元されるスピードも早いですから、面白そうだと思って」

たしかにスマートフォンなんかは、素人目で見ても進化が著しいと分かるものだ。
おそらく研究もやりがいがあるのだろう。
彼の関わる理系の世界は、文系の世界で生きてきた私にとって、とてつもなく遠い話のように聞こえたが、思っていた以上に私たちの生活に密接しているようだった。

「学生時代はどう過ごされてましたか?」

「実験と課題に追われていた記憶が強いです。アルバイトの時間を捻出しながら、夢中で研究室に通っていました」