彼女が働く生花店はレストランから少し離れた住宅街にあり、古めかしいその店は彼女の生家でもあった。
店先から彼女が見え、いつものように私は声をかける。
「美散ちゃん」
レストランへ行くよりも花屋へ行くことが多くなった私の家には、常に新鮮な花が飾られていた。
萎れる前に花を買っては彼女と短い会話を交わす。
日ならずして私は花の名と彼女の名を知った。
亡父が付けたというその名を彼女はとても気に入っているようだった。
彼女と過ごす束の間の時間は、いつも幸せに満たされていた。
けれど同時に、幼い頃から閉じ込めていた羨望の矢が私の心を突き刺した。
誰が付けたのかもわからない自分の名前を私は好きではなかったし、親の愛情も家と思える場所も私には無かった。
同じ屋根の下で暮らしていても私のような子は皆無に等しく、孤独を感じずにはいられなかった。
自分の身の上を包み隠さず彼女に話した日、彼女は急に歩みを止めて道端に咲く紫陽花の前にしゃがみ込んだ。
「秋に咲く紫陽花をなんて呼ぶか知っていますか? 」
「いいえ」
「秋色紫陽花です。でも、私は勝手に秋紫って呼んでいるんです」
「あきむらさき……」
無意識に小さな言葉が口からこぼれた。
小気味良い響きにもう一度だけ唇を動かすと彼女は私を振り仰ぎ、「好きな花はありますか」と私に訊ねた。
答えられずにいると彼女は一瞬だけ伏せた目を紫陽花に戻し、軽く指で萼に触れた。
「私は紫陽花が一番好きです。季節と共に色が変わってゆく姿は見ていて面白いんですよ」
そう言いながら立ち上がった彼女は再び私の隣を歩きはじめ、朗らかに話を続けた。
「それから、「彩り」って言葉が私は好きです。紫陽花に相応しいと思うんです。だから、彩って素敵な名前だと思いますよ」
流れるように紡がれた自分の名前が、そのとき初めて色づくのがわかった。
色のない名前で色のない世界を生きてきた私に彼女は次々と色を与えてくれる。
それも幸せな色ばかりを────。
「彩さん、ほらあそこです」
彼女が指差す先に夕空の下で輝く見慣れたレストランの明かりが見えた。
「私の店から行くときは、この道を通る方が近いんですよ。紫陽花が綺麗なのでおすすめです」
向けられた笑顔に私の胸は小さく痛んだ。
彼女を認めた日から不思議と目に映るもの全てが美しく思えた。
幸せなのにため息がこぼれる。
冬になれば白いため息さえも色づくような気がした。
花桶を腕に抱えたまま私の声に彼女が振り向く。
花が咲いたような彼女の笑顔は、その日も私の胸に小さな痛みを与えた。