夏休み。
 朝霧(あさぎり)(ひかる)にとってそれは一年で一番心踊る特別な時期だ。
 退屈で窮屈な教室の授業や空気から解放され、エアコンでひんやりとした涼しい部屋で好きなゲームで遊び倒したり、アニメや映画を見たり、スマホやタブレットでネットサーフィンしたりして過ごす。
 勿論、部屋に籠ってばかりじゃもったいなさすぎる。照り付ける太陽の下で普段はできないことをしたり、行けない所に行って汗を流すこそ夏休みの醍醐味だ。
 別のクラスにいる友達と三人で熊本(くまもと)市繁華街やお祭りに遊びに行って汗だくになったり、阿蘇の奥地にある父方の実家に行ってスイカやソーメンを食べ、杖立(つえたて)温泉に入って過ごすのも楽しみの一つだ。
 勿論、絶対に忘れてはいけないあることがある。
 小学生の頃、太平洋戦争で帝国海軍の特務士官だった曾祖父のために、昨年一〇四歳で亡くなった曾祖母を連れて家族で熊本県の戦没者追悼式に参列したこともある。
 曾祖母は今では殆どいなくなってしまった戦争体験者で、幼い頃から光や親戚の子達に戦争の話しを聞かせてくれて、夏休みの宿題以上に大事なことだと教えてくれた。あの戦争のことを考えなければいけないという意味でも夏休みは特別な時期だ。
 そして今年――二〇二X年の夏休みは恐らく一生に一度いや、人類の歴史でもう二度とやって来ない特別な夏休みになるだろう。
 細身で一七〇センチの背丈、所々癖のある髪に柔和で大人しそうな印象の美少年――朝霧光は昼休み中、教室の窓の外、六月中旬の梅雨の合間に晴れた青空に思いを馳せながら、スマートフォンに繋いだイヤホンを両耳に挿して動画を見る。

『――再来月の八月三一日の夜、ジェネシス彗星が地球に最接近しますその大きさは恐竜を絶滅させたと言われる隕石とほぼ同じ直径一〇キロで地球に衝突するギリギリの距離を通過します。一時は衝突が心配されて一部でパニックや集団ヒステリーの発生も確認されましたが、専門家によれば最接近は日本時間の八月三一日の午後九時頃だそうです!』

 スマートフォンでニュースサイトを見ると、女子アナウンサーはもうすぐやってくる一大イベントを朗らかに、そして興奮気味に報じている。
 二〇二〇年代に入って数年以上にも及ぶ長い新型コロナウイルス感染症のパンデミックやそれによる恐慌と悪いことが絶えなかったが、このジェネシス彗星の大接近のイベントは別格だった。
 テレビの全国ニュースは勿論、ネットのニュースでも連日報道し、SNSでもジェネシス彗星の話題が絶えず、この状況は夏休みの終わりまで続きそうだった。
 ジェネシス彗星が地球に近づく間も情報は日々更新されるが、それを快く思わない人もいる。
「また見ていたのか朝霧? このリア充専用イベントのニュースを」
 わざわざ二年四組の教室前方の扉近くの席から、光の座る窓側一番後ろの席までやってきたのはクラスメイトの竹岡(たけおか)英二(えいじ)だ。
 肥満体型のおにぎり頭で、一昔前のネット掲示板で生まれたキャラクター「やる夫」という渾名を付けられてる。
 光は無難に言って流す。
「そりゃあ気になるよ、地球に落ちるギリギリの距離を通過するからね」
「いっそのこと、地球に落ちればいいのに……あいつらの頭上にね」
 竹岡は不機嫌そうにクラス内の階級(スクールカースト)で一番上のリア充男子グループに視線をやる。

「なぁ聞いたか? 二組の桜木(さくらぎ)、テニス部辞めたらしいぜ」「聞いた聞いた、もうあのエロい乳揺れが見れねぇな」「むしろチャンスじゃね? 夏休み前にコクって付き合って、遊びに行って、彗星を見て、あわよくばヤれるんじゃね?」「ああ、しかも桜木に触発されて他の部にいる女子も何人か辞めたらしいぜ!」「そりゃいいこと聞いたぜ! そいつら誘おうよ! 可愛い子限定で! そんでどっか遊びに行こう!」

 彼らは最近の話題であるジェネシス彗星のことは勿論、夏休みどこで何して遊びに行こうか? と楽しそうに話してる。
「あいつらは純粋に楽しみにしてるだろ、いつからお前は楽しむことを忘れたんだ?」
 竹岡の中学からの友人である倉田(くらた)信雄(のぶお)が淡々とした口調で言う。
 痩身で一八〇センチ後半はあるのっぽで、素朴で面長だが整った顔立ち、いつも淡々とした口調でその見た目から「やらない夫」と呼ばれてるが、本人は満更でもない様子だ。
「あいつらは女とヤる口実で彗星を見るつもりなんだ、目障りなんだよ……なぁ朝霧、そう思わないか? 彗星の夜は俺たちで仲良く見上げようぜ」
「えっ……結局見るの?」
 なんだかんだ言って彗星を見るのか? 光は口元が引き攣ると竹岡は倉田を裏切り者を見るような眼差しを向ける。
「ああ、倉田は俺たちよりもガキの頃からの友達と見上げるんだってさ!」
「先に誘われたんだ、断る理由もない」
 倉田は尤もらしい理由で言うと、竹岡は呆れたという口調になる。
「これだよ、こんな薄情な奴と一生に一度のイベントを過ごしたら後悔するぜ」
 お前のような卑屈な奴と過ごすよりはいいだろうという言葉を光は口にする直前で止める。
 幸いなのは登下校する時、方向が違うから帰る時は別のクラスにいる友達と鉢合わせになることはない。

 その日の放課後、違うクラスの友達二人は用事があり光は待ってる間に屋上に続く階段に上がる。
 特に理由はないが屋上に上がった時の開放的な雰囲気が好きで、時々なんとなくボーッと空を見上げるのが楽しみの一つだった。
 屋上に通じる扉を開けてくぐると、容赦ない陽射しが眩しくて思わず立ち止まる。
 この一週間、嫌になるほど雨や曇りばかりで晴天は久しぶりだ。だけどまた明日から雨や曇りの日々が続く。
「このまま今年の夏休みも……なんとなく過ぎ去るのかな」
 光はどこか憂鬱な気分で青い空を見上げる、どうか去年のように冷夏で長梅雨になりませんようにと祈って。
「なんだか……思っていた通りにはいかないのはわかってたけど」
 独り言を口にする光。
 高校生になったら友達や可愛い彼女と一緒に放課後、熊本市の繁華街で道草食ったり、休日はみんなでどこかに遊びに行ったり、旅行に行けると思ったけど実際は思うようにはいかない。
 勉強や課題に追われ、クラスの人間関係や立場にも気を遣う、教室の中は狭くてそれでいて息苦しい。
 別のクラスにいる友達の如月(きさらぎ)(のぞむ)その幼馴染みの女の子である雪水(ゆきみず)冬花(とうか)がいるのは非常にありがたいし感謝してる。
 おかげでそれなりに楽しい放課後や休日を過ごせたりできてるけど、やっぱり彼女やその子との一生の思い出が欲しいと思うのは贅沢なのか? 同じクラスの竹岡は卑屈に諦めろと言ってるけど、諦めたくない。
 期待と不安の入学初日に声をかけてくれたのは感謝してるけど、おかげでスクールカースト下位グループ入りになってしまった……やめよう、こんなことを考えるのは!
 光は頭を左右に振って考えてることを全部振り落とす。だけどこびりついた染みのように離れない、いっそのこと大声で叫んでしまおうか?
 ここなら溜め込んでいたものが吐き出せる気がして一歩前に、塔屋を出た瞬間。

「もう吹奏楽部なんかに戻りたくなぁあああい!! 夏なんて、夏休みなんて、大っ嫌ぁぁああああい!!」

 気持ちの全てを声に出し、空どころか宇宙の彼方にいる彗星まで届きそうな女の子の叫び声。
 光は振り向いて見上げる、声の主は給水タンクのある塔屋の上に立っていた。
 爽やかな夏の風を一身に受け止めてふわりとなびく長く艶やかな黒髪、柔和だけど意志の強さを秘めた瞳に、一目惚れするほど清楚で可愛らしくも綺麗な顔立ちの大人しそうな女の子。
 背丈は高くもなく低くもないが、胸は意外とふっくらして大きく、白い両足も健康的でしなやかだった。
 光はその女の子と目が合うと、女の子も気付いて表情には出さなかったが驚きの眼差しで見つめ、徐々に頬を赤らめていく。
「……ご、ごめん! 悪気はなかったんだ!」
 光は偶然にも見てはいけないものを見てしまった気がして思わず謝り、逃げるように来た道を戻って階段を駆け降りる。
 一瞬の出来事だったが女の子の姿が目に焼き付いて離れない。
 あんなに可愛い女の子とお近づきになって夏休みを過ごし彗星を見上げることができたら、それはきっとなによりも素晴らしい青春の奇跡だろう。
 第一章:彗星の夏休み

 梅雨明けが近づいた七月のある日、いよいよ彗星接近が二ヶ月を切った熊本市内の私立細川(ほそかわ)学院高校――通称:細高(ほそこう)二年四組の教室では夏休みの計画や、彗星接近の夜は誰とどう過ごすかで話題になっていた。

「夏休みさ、どこかみんなで遊びに行こうよ!」「いいね海? 山? どっちにする?」「そりゃ両方に決まってるじゃねぇか! 海は天草、山は阿蘇で!」「ええどうせなら海は沖縄か湘南で、山は箱根か軽井沢だろ!」「ちょっ……そんな金ねぇよ」「彗星が接近する八月三一日は学校を開放するらしいぜ! 既に実行委員会が活動開始してるって噂だぞ!」

 休み時間や昼休みのたびにクラス上位のリア充グループが話してるのを、竹岡は嫉妬に満ちた眼差しで相変わらず妬み、嫉み、恨み、辛み、嫌味を言ってる。
「けっ、学生の本文は勉強だろ……あいつら期末テストの時に陰キャの俺に頼りまくって、終わったらそれっきりでよ、なぁ朝霧」
「う、うん……そういえば倉田君は?」
「やらない夫なら中庭辺りでスマホで別の学校にいる奴と話してるんじゃね?」
 どうやら竹岡は倉田にも見捨てられたようだ。まぁ僕も裏切ることになるが、こんな卑屈に構えてる奴と絶対に彗星の夜は過ごしたくない。しかも上位グループの一人に誘われると態度が一変する。
「なぁやる夫! 放課後暇ならさ、一緒にカラオケ行こうぜ!」
「うん! もちろん行く行く!」
 このように卑屈に構えてた表情が一変、媚びへつらうような口調になって手のひら返し! あまりにもの荒唐無稽ぶりに朝霧光は表情に出さず、内心呆れるしかなかった。

 放課後の帰り道、光は今日のことを如月望と雪水冬花に話す。
「へぇ……やっぱり面白い人だねやる夫君」
 雪水冬花は小柄でスレンダーなシルエット、紺色の癖っ毛ショートヘアにチワワを思わせるような愛らしい顔立ち、とにかく表情と感情が豊かで笑う時はよく笑い、泣く時はよく泣く、天真爛漫な女の子だ。
「それってキョロ充じゃない? でも自分で自分のことを陰キャって言うのは捻くれてるし、そりゃあ光も疲れるよ」
 如月望は男子にしては小柄で華奢なことと引き換えに、中性的な童顔で髪も冬花より少し長く特に長い睫毛が目を引き、美少女と見紛うほどの容姿と顔立ちから所謂(おとこ)()こと言われる美少年だ。
 冬花とは幼馴染みだという。光は溜め息吐いて頷く。
「うん、正直言って疲れる……竹岡君には悪いけど、彗星の夜はちょっと……」
「じゃあさ光、俺と冬花の三人で見上げようよ!」
 望は無邪気に言うと冬花は「うん、そうしよう!」と快く頷くが、光はいいのだろうかと心に引っ掛かる。
「えっ? いいの雪水さん?」
「勿論だよ光君、あたしと望君と三人で彗星見よう!」
 冬花は何も考えてないのか快く頷く。
 冬花は光のことを名前で呼んでるが、光は気を遣って雪水さんと呼んでいる。付き合ってるわけでもないのに名前で呼ぶのはどこか面映ゆい。
 この二人とは中学の頃は顔見知りで望の方は中一の時に同じクラスだった。高校入学の時にたまたま帰る方向が一緒だったから、こうして毎日一緒に帰ってるのだが、望と冬花の関係は謎だ。
 付き合ってるようにも見えるし、だからと言ってそうとは言えない。二人曰く「似た者同士の幼馴染み」だという、おかげでそれなりに楽しい日々を過ごせてるから感謝してる。
 光が二人を見つめて考えてるのをよそに、望は提案する。
「ねぇねぇ、去年は冷夏(れいか)長梅雨(ながつゆ)だったからやりたいこと殆どできなかったじゃん! 今年は思いっきり夏休みをちゃんと夏休みしよう!」
「おおっ! 彗星観測の他に火の国まつりに花火、海かプール! あと湘南旅行もいいじゃない!」
 冬花は瞳を輝かせて提案に乗る。
 犬だったら間違いなく嬉しそうに尻尾を振ってるに違いない。因みに望の一族は金持ちで、湘南に江ノ島が一望できるホテルのオーナーをしてる親戚がいるらしい。
「賛成だけど望、夏休みをちゃんと夏休みするって?」
 光は思ったことをそのまま口にする。夏休みをちゃんと夏休みするという意味がわからず冬花が答える。
「そのままの意味だよ。中三の頃を思い出してみて……受験勉強ばっかりで夏休みが夏休みじゃなかったよね?」
「まぁ確かに……夏休みの宿題に加えて夏期講習とか、受験合宿とか、親が勝手に申し込んで……嫌な思い出しかないな」
 光は中三の頃の苦い思い出が甦ってくる。阿蘇山近くの保養施設で自然を満喫することも許されず、エアコンの利いた快適な牢獄で勉強漬けの日々で――思い出すのはやめよう。
「だからさ! 今年の夏休みは一度っきりだから、楽しいことで埋め尽くそう! せっかくの夏休みなのに先生や親が勝手に『やるべきこと』とか言って宿題や課題を押しつけられて夏休みなのに、夏休みじゃない何かにされるのって嫌じゃない?」
 望の言葉はどこまでも純粋で真っ直ぐだ。
 少なくとも光には正論に聞こえる、親や先生たちが聞いたら顔を真っ赤にして怒鳴り、頭っから否定して反論も一切聞かないだろう。
 ふと光は六月の晴れの日、屋上の塔屋で叫んだ女の子の言葉を思い出して口にする。
「でも……もしさ、夏休みが嫌いな人がいるとしたら、どう思う?」
 光は二人に疑問を投げかけると最初に望が首を傾げながら答える。
「夏休みが嫌いな人、俺にはちょっとわからないな……楽しいことが沢山あるのに、もったいないと思うよ。夏休みの楽しみ方を知らないんじゃない?」
 楽しみ方を知らない。それは自分達が思ってる以上に悲しく不幸なことかもしれない、冬花も口元をへの字にして言う。
「う~ん、その人はきっと夏休みが好きだったけど何かのきっかけで嫌いになったとか? 夏休みに忘れたい嫌なことがあって、それで嫌いになっちゃったかも!」
 好きだったことが嫌いになる。もし自分がそうなるとしたら、多分とても悲しい出来事なんだろう。あの女の子は今日も、屋上で何かを叫んでるのだろうか? 光は明日確かめてるみることにした。

 翌日の放課後、望と冬花には先に帰るように言って屋上に上がる。
 人気の少ない放課後の校舎の廊下、グラウンドにはサッカー部や野球部の掛け声が響き、時折練習してる吹奏楽部の心地よいメロディが響く。
 何となく今年の吹奏楽部は去年に比べて音色が伸びやかで柔らかく、とても優しくなったように感じながら歩くと、屋上に続く階段の踊り場に背の高い女子生徒が立ち塞がるかのようにスマホを弄っていた。
「ん? 君、屋上に何か用?」
 光より少し高い一七三センチはある女子生徒――少し前にテニス部を突然退部して話題になった桜木春菜(さくらぎはるな)だ。
 外はねのショートヘアーに望とは逆の意味で中性的だ。女の子にしてはかっこよくてボーイッシュな顔立ち、制服からでも分かるほどの豊満な乳房の持ち主で、それでいてテニス部で鍛えた長い四肢は敏捷性と脚力が自慢の中型肉食動物のように引き締まっている。
 光は春菜に真っ直ぐな瞳で見つめられて顔を近づけられる。ドキドキするのは次の瞬間には喉笛を噛みつかれ、一瞬で殺されるかもしれないという恐怖で、眼差しだけでも心臓を貫かれそうだった。
 光はぎこちない口調で表情を引き攣らせて言う。
「ああ……えっと、ちょっと屋上の空気でも吸いに行こうかな? っと思って」
「ふぅ~ん少なくとも嘘は言ってないようね、悪いけど少し待ってくれない?」
 春菜は更に顔を近づける。表面上は微笑んでるが、目は笑っておらず有無を言わさない威圧感が滲み出てる。
 ヤバイヤバイヤバイ! 今にも噛み殺されそうだと全身から脂汗が滲み出る。
「ごめん春菜ちゃん、お待たせ!」
 すると六月に見たあの女の子が屋上へと続く階段を降りてきた。
 あの子だ! 光は思わず高揚する、上品に一歩一歩階段をゆっくり降りる姿がスローモーションで再生され、上履きの足音さえエコーがかかってるように聞こえる。
 長い黒髪の女の子は一瞬だけ光に視線を向けると、春菜に訊いた。
「春菜ちゃん……その人は?」
「ああ、屋上が空くの待ってただけ。ごめんね君、行こう!」
 春菜は女の子を待ってたようで光に一言謝って下の階へと降りて行った。
 光はホッと全身の力が抜けてその場で崩れてしまいそうだった。
 名前も知らないけどあの女の子に間違いない、光は一息置いて屋上に続く階段に上がる。
 扉を開けると塔屋の裏に回り、給水タンクのある屋根に続く梯子を上った。
 見晴らしが良く、ほんの少しだけ太陽に近づいたせいか汗ばむほど暑い、光はもうすぐやってくる一年で一番特別な時期に未知の期待に胸を膨らませるが、同時にそうなるわけないとネガティブに考える自分と板挟みになる。
 熊本市内の真ん中にある細高の周りには校舎と同じかそれより少し高いビルが立ち並び、下を見下ろすとグラウンドを走り回るサッカー部や野球部が小さく見えた。
「あの子……こんな景色を見ていたのか」
 ここでいったい何を叫んでいたんだろう?
 吹き付ける爽やかな夏の風、それがとても気持ちよくて自分の声を世界の果てまで届けてくれそうだ。光は思いっきり息を吸い込んで胸を膨らませ、今の思いを大声で叫んだ。

「今年の夏休みを大切な思い出にしたぁぁぁぁぁあい!! 恋をしたり、泣いたり、笑ったり、かけがえのない宝物にしたぁあああい!!」

 光の思いが詰まった声は空の彼方に消えていく、誰かに聞かれてないだろうか? だけど、あの子も叫びたくなるわけだ、光は思わず微笑んで空を見上げる。
 八月三一日の夜空、晴れてよく見えるといいな。
 光は踵を返して梯子を降りると、塔屋の影に何かが落ちていた。なんだ? 降りてしゃがむと、可愛らしい水色を基調として熊本のゆるキャラ「くまモン」のシールが貼られた日記帳だった。
「えっ!?」
 光は思わず手を伸ばして名前が書いてないか確かめる。まさかさっきの女の子の!? 名前は……書いてない! これって中身を見たら駄目なやつじゃないか!? 光は明日すぐ冬花に相談しようと鞄に入れた。
 翌日の昼休み、竹岡の愚痴を聞きながら急いで弁当を食べてすぐに望と冬花の所へ急ぐ。
 光は昨日、日記帳を拾ったことを話してポケットから水色の日記帳を見せた瞬間、案の定冬花は驚愕の表情に豹変して盛大に叫んだ。
「えええええぇぇぇー日記ぃいいいいいい!?」
 周りの生徒たちの注目が一瞬だけ集まるが、冬花の驚きぶりから気にしてる場合じゃない。
「そ、それ大変なことだよ光……早く届けてあげないと!」
 望も珍しく青褪めることから、かなり深刻な事態だということは間違いない。
 そして冬花は興奮して吠えるチワワのように捲し立てる。
「光君見てないよね!? 絶対見てないよね!? 本当に見てないよね!? 日記は女の子にとって大切なもので、中身を見られることは裸どころか心の奥の奥の奥の底まで覗かれるのと同じよ!! もし見てたりなんかしたらあたし光君と絶交するうえにSNSやLINEで拡散するから!!」
 雪水さんって結構怖いことを言うんだね、光は表情を引き攣らせながら否定する。
「だ、大丈夫だよ雪水さん! 中身を見る度胸はないから!」
「嘘だったら絶っっっ対許さないからね!」
 冬花の目は本気だ。そしてどんな些細な嘘も見抜きそうで見ないでよかった。もし一ページでも見てたらと思うと背筋が凍るような気分だが、望は素朴な疑問を口にする。
「でもどうしてデジタル全盛の現代にアナログな日記帳なんだろう? スマホの日記アプリにすればいいのに」
 冬花も首を傾げながら言う。
「う~ん誰かに見られたくないとか? スマホとかほら、SNSや日記アプリとか鍵をかけてもなにかの拍子で解錠されたり、データが消失したりとか……日記帳なら燃やされたりしない限りいつまでも残るし」
 確かにデジタル全盛の現代だが、アナログの方が勝る部分もある。その子は何かの理由でアナログを選んだのだろう。
 だが問題はそこではない、早く見つけて返却しないといけない。
 光は日記帳を見つめながら二人に言う。
「それは本人に聞けばいいと思うよ、探すの手伝ってくれる?」
「うん、それでどんな子だった?」
 望が訊くと光は昨日のことを思い出す。
「確か……二組の桜木さん知ってるかな?」
「うん知ってる! 元テニス部で男子より強くて背が高くて綺麗でスタイルもいい! だけど超ピュアな乙女なの! もしかしてその人?」
 冬花は憧れの眼差しで瞳を輝かせる、残念ながらその人ではない。
「屋上に上がる前にすれ違って桜木さんと一緒に帰った子なんだ」
「一緒に帰ったなら同じクラスかな? すぐ見に行こう」
 望の言う通り昼休みの時間もあまりない、すぐに三人で二年二組の教室に向かった。
 だが簡単に見つかれば苦労しないし、顔は覚えてるが名前がわからない。扉から教室を見渡すが桜木春菜とあの女の子は見当たらない、今頃きっとどこかで不安な気持ちで昼休みを過ごしてるのだろう。
 冬花はがっかりした表情で見回す。
「見当たらないね、桜木さんとその女の子も」
「うん、もう昼休み終わっちゃうし……放課後桜木さんに頼んで渡そうか」
 望の言う通りだけど、光にはそれじゃいけないような気がしていた。
 だけどその女の子はどこに? 昼休みの終わりを告げる予鈴のチャイムが鳴る。
 光が二年四組の教室に戻ろうと、振り向いた時だった。
 目の前の艶やかなで長い黒髪からいい匂いがした、健康的で白い柔らかそうな頬に形のいい唇、憂いの眼差しと表情に、光は一瞬で間違いないと確信した。
 彼女の姿が一組の教室に入ると望は気付いてなかったのか、光を急かす。
「どうしたの光、授業に遅れるよ」
「ああ、うん……わかってる」
 光はすぐに四組の教室へと急ぐ。冬花の横を通る間際、彼女を見ると視線は一組――もしかすると気付いてたのかもしれない。
 やることは決めた。あの子に声をかけよう! そのことを冬花と望にLINEで送りそのまま授業に入った。五時間目の休み時間にスマホをチェックすると二人とも了解の返事が来た。

「それじゃ今日はここまで、また明日な!」
 幸い担任でテニス部顧問兼体育の大神(おおがみ)義人(よしひと)先生はホームルームを早々と終わらせてくれた。
 五〇歳を超えてるが厳つい筋肉質でノリもいい体育の先生に感謝しながら光はすぐに教室を飛び出して一組の教室に急ぐ、途中で望と冬花のいる三組の教室を横目で見るとまだ少しかかりそうだった。
 いいさ、一人でやるつもりだ。
 一組の方も少し前に終わったらしくぞろぞろと生徒が出てくる。あの子は……見つけた! 幸い一人で出てきた。声をかけるまたとないチャンス! だがそう簡単にはいけば苦労しない。
 名前も知らない女の子に声をかけようと、踏み出す足が徐々に重くなってやがて立ち止まってしまう。
 物怖じするな! 望や雪水さんなら自然に声をかける。光は静かに大きく息を吸ってゆっくり吐き、落ち着かせて歩み寄って声をかけた。
「あ、あの! 君、ちょっと……いい?」
 光は女の子に声をかけると彼女は振り向く、花弁のような唇が僅かに開き心が吸い込まれそうな瞳が少し驚いてる。
「えっ? えっと確か昨日の……」
「僕は四組の朝霧光。屋上行った時に見つけたんだけど……これ、君の?」
 光は自己紹介しながら昨日見つけた日記をそっと見せると、表情が固まって恥ずかしそうに耳まで顔を赤くし、泣きそうな顔になる。
「も、もしかして……中身見ちゃった?」
「だ、大丈夫! 見られたくないこと書かれてあるかもしれないと思ったから」
「よかった……ありがとう」
 彼女はホッと胸を撫で下ろすがまだ警戒してる様子だ、光は日記を返して屋上でのことを訊こうとした時だった。
「ちょっとあんた! 夏海(なつみ)に何か用?」
 強めの口調で待ったをかけられて振り向くと、声をかけたのはショートカットで生真面目で堅そうな印象で、性格もキツそうな少々近寄りがたい感じの女子生徒だった。
「あんた……その子と一夏(ひとなつ)の経験とやらでもするつもり?」
 もう一人はつり目にセミロングの尖ったルックスで、こちらも別の意味でキツそうな近寄りがたい雰囲気だ。視線は光よりも夏海という女の子の方に向けてるように見える。
「いや……落とし物を――」
「二人ともごめん! 私ちょっと朝霧君に頼んでいたことがあったの! 行こう朝霧君!」
「あっ、うん!」
 名字なんだっけ? 下手に名前で呼ぶわけにもいかず、ただ頷いて二人から逃げるように速歩きで向かう。大人しそうな見た目に反してかなり大胆だと光は胸をドキドキさせる。
「どこに行く? 中庭はどう?」
 光の提案で夏海はコクリと少し不安そうに頷くと、後ろから悲痛な声が響いた。
「夏海! あたし夏海が戻ってくるの待ってるから! あたしもみんなも、また夏海のフルートを吹く姿が見たいから!」
 振り向くとショートカットの女子生徒の方だった。フルート? そうかあの時――後で詳しく聞けばいい!


 ホールルームが終わり雪水冬花はポケットからスマホを取り出すと、光からいくつかのLINEメッセージが来ていてどうやら見つけて声をかけ、後で話すそうだが成り行きで一緒に中庭へ行くという。
 冬花は望と目を会わせて微笑みを交わして頷き合う。
 やっぱりあたしと望君は考えることが一緒、以心伝心だね。望と合流するなり、彼は嬉しそうに言う。
「もう見つけて声かけるなんて、流石だよね光は!」
「うん、早く中庭に行こう」
 三組の教室を出た時だった。丁度よく二年二組のホームルームも終わったらしく、乱暴に扉が開いて一人の女子生徒が悪態吐きながら弾丸のごとく飛び出してきた。
「ったく! 誰だよデマ流した奴は!」
 桜木春菜だ! 廊下に出て急ぐかと思ったら中庭を見下ろせる窓を開ける。すると身を乗り出し、冬花がまさかと思うと同時に躊躇いなく飛び降りて廊下が悲鳴で溢れる!
 冬花も声にならない悲鳴を上げた。
 運良くて骨折、最悪死ぬが次の瞬間には悲鳴が歓声に変わった。

「すげぇよ桜木! あいつピンピンしてるぞ!」「さすが桜木さん! かっこいい!」「あんな真似できる男子いないよね!」「っていうかそれ以前に真似しちゃ駄目だよ!」

 冬花は恐る恐る飛び降りた窓の外を見下ろすと、あろうことか光に詰め寄っていた。
「望君! あたしたちも急ごう!」
「ああ、ヤバイ予感がする!」
 望も頷いて中庭に続く安全かつ最短ルートで階段を駆け下りる。
 ふと冬花はどうして桜木さんは迷わず中庭に飛び降りたんだろう? という疑問が頭に浮かんだ。
 その数十秒前、朝霧光は周囲を見回してようやく夏海に日記帳を返却することができた。
「あ、ありがとう……どこで拾ったの?」
「屋上の塔屋にある梯子の下さ、えっと……」
 夏海の名前を呼ぶわけにはいかず、口ごもってると夏海は察したのか自己紹介する。
「あっ私、風間(かざま)夏海(なつみ)
「よろしく風間さん……あの、昨日も屋上に上がって叫んだりしてた?」
 光は六月のあの日のことを思い出しながら訊くと、夏海は口を開けたまま固まり徐々に健康的な白い柔肌が、触れたら大火傷(おおやけど)しそうなほど赤熱して裏返った声になる。
「ど……どうして知ってるの? も、もしかして聞いてた?」
「ああ大丈夫大丈夫! 誰にも言ってないし、見たの一度だけだから!」
「だ……誰にも言わないよね?」
 夏海はまた泣きそうな眼差しで見つめながら言うと光は二度首を大きく縦に振る。どうすれば信用してくれるか? 答えはシンプルだった。
「い、言わないさ、僕だって叫んだよ……今年の夏休みを大切な宝物にしたいって、泣いたり笑ったり……恋をしたい……ってね」
 光は頬を赤くして恥ずかしい黒歴史を教える。これでおあいこだと思った次の瞬間、校舎の方からいくつもの悲鳴が聞こえた。
 なんだろう? 光は校舎の方に顔を向けると、二階の窓から女子生徒が躊躇うことなく飛び降り、光は幻を見てるかのように見つめ、夏海は目を見開いて両手で口元を覆った。
 だが着地の瞬間、華麗に前転! 受け身を取って立ち上がると悲鳴が歓声に変わった。
 桜木春菜だ! 立ち上がる勢いを利用してそのままダッシュ! 獲物に襲いかかるチーターのように詰め寄られた。
「おやおやおやぁ~? 誰かさんと思えば昨日の屋上の君じゃないか? 夏海に何の用だい?」
「お、お、お、落とし物だよ! 昨日屋上に上がったら風間さんの日記が落ちてたから」
 ヤバイ! 今度こそ喉笛を食い千切られる。全身から脂汗が噴き出し、命の危険を感じてると夏海が間に割って入る。
「待って待って春菜ちゃん! 朝霧君は落とし物を届けてくれたし、中身も見てないって!」
「どうかな? おとなしそうな見た目に反して、実はゲスかったりムッツリスケベだったりするんじゃない?」
 疑いの眼差しを向ける春菜、竹岡みたいにゲスいのはともかくスケベなのは否定できない。夏海もどうしていいかわからず、おろおろしている。
「待ってくれ桜木さん! 光は悪い奴じゃないよ!」
 そこへ望が駆け寄り、冬花も息を切らしながら追ってくる。
「はぁ……はぁ……二組の桜木さんに……一組の風間さん……だよね?」
 ありがたい! 二人が来てくれたからどうにかなるだろう。光は安堵すると、春菜は溜め息吐いて二人に訊いた。
「そうだよ、まさか……あなたたちじゃないよね? 二組の誰かが、校内で喫煙してたって噂流したの――おかげでホームルームが長引いたわ」
「ええっ酷い! なんで!?」
 冬花は驚いて信じられないという反応を見せる。桜木さんのいる二組に恨みでもあるのか? 望は首を横に振りながら否定する。
「少なくとも俺たちじゃないよ桜木さん、風間さん……場所を変えて話そう」
 周囲を見回すと、校舎の窓から生徒たちが注目していて騒ぎを聞き付けたのか反対側の校舎からも上級生、同級生、下級生問わず光たちに興味を視線を注いでいた。
 この分だと先生が来てもおかしくないと、そそくさとその場を後にした。

 細高を出ると熊本市内を走る路面電車(※通称:熊本市電或いは単に市電と通じる)の交通局前電停で乗り、通町筋電停で降りると熊本市繁華街――通称:下通(しもとおり)アーケードの夕方は仕事帰りの人や学校帰りの学生で溢れ、賑わっている。
 光達は下通にあるファーストフード店にあるマクミラン・バーガーに入り、それぞれ飲み物を注文し、エアコンが利いてひんやりとした店内に座ると、早速冬花が夏海に優しく話しかける。
「風間夏海さんだよね……前は吹奏楽部でフルートしていた」
「うん……去年の……夏までね」
 夏海は躊躇いがちに頷いた、もしかすると光は確信して訊いた。
「もしかしてさっきの人たち吹奏楽部? 戻ってきて欲しいって言ってたけど」
「戻るか戻らないか……決めるのは夏海よ。あたしはどっちも尊重するわ……まっ、あたしだったら戻らず、自由と青春を謳歌するけどね。辞めた者同士だから、気楽に寄り添い合ってるのよ」
 春菜は横目で夏海を見つめると、冬花は頷いてニッコリと言い放つ。
「うん知ってる! だってテニス部の練習中に突然ラケットを落としたかと思ったらコートのど真ん中で大泣きしたもんね!」
「えっ? 冬花、もしかしてその現場を見たの?」
 望が訊くと冬花は「うん!」と自信満々に頷き、黒歴史を暴露された春菜は恥ずかしそうに顔を真っ赤にし、破局噴火寸前の火山のように水蒸気を噴き出しながら早口で言い訳する。
「だだだだだだだだって、あんな暑苦しい二〇世紀に絶滅したはずの昭和のスポ根脳筋顧問の大神だから、毎日毎日毎日毎日来る日も来る日も来る日も来る日もテニスの練習ばっかりで休みもない、暇があったら練習練習練習の三拍子で気がついたらテニス部以外の思い出が全くなくて――」
「あ、あの……このこと触れないであげて……凄く気にしてるみたいだから」
「気にしてないよ夏海……本当のことだから」
 夏海が一生懸命フォローするが、春菜にとっては事実である以上受け入れるしかない。
 光は疑問に思ってることを口にした。
「去年の夏に辞めたって……どうして今になってを復帰を求められてるの?」
「吹部の空気が変わって、夏海が必要になったんだって」
 春菜が代わりに言うが、どういうことなのかはわからず光は勿論、冬花や望も首を傾げる。簡潔すぎて見かねたのか、夏海が説明する。
「前に吹部の顧問をしてた笹野(ささの)先生がお母さんの介護で辞めて、代わりに今年入ってきた柴谷(しばたに)先生が顧問になって吹部の改革を推し進めたの」
 吹部前顧問の笹野先生は恰幅のいい四〇代後半の音楽担当の男性教師だ。確か独身で母親とアパートで二人暮らししてたらしいが、去年の夏にその母親が階段から転げ落ち、足を骨折したため介護が必要になったと言ってた。
 後任の柴谷先生は今年やってきた新任の先生だ。
 フルネームは柴谷(しばたに)太一(たいち)。細高OBでウィーンの国立音楽大学を出ている。
 背はそれほどでもないが少し垂れ目の柔和で爽やかな落ち着いたイケメン俳優みたいな甘いマスク、浮き世離れしてることもあって女子生徒の間では大人気の先生だ。
 夏海は説明を続ける。
「それで……吹部の雰囲気がいい方向に変わったみたいで、さっき待ってるって言ってた守屋(もりや)恵美(めぐみ)ちゃんと一緒にいた駒崎(こまさき)八千代(やちよ)ちゃんに復帰して欲しいって言われてるの」
 ショートカットの子が守屋恵美でセミロングの子が駒崎八千代かと光は二人の顔を頭に思い浮かべながら訊く。
「風間さんは吹部に復帰しないの? しないならしないって言えばいいような気がするけど……何かあるの?」
「簡単に決断できれば苦労しないよ、部活を途中で辞めるのってさ……凄く勇気がいるんだ、ましてや一度捨てた部に復帰するなんて……相当な覚悟がいる」
 望の後半の口調は重く、春菜と夏海も同感だと言わんばかりに頷いた。望ももしかしたらきっと重い決断に悩んだことがあったのかもしれない。
 だけどあの時夏海は叫んでいた、もう吹部に戻りたくないと。
「そういうこと、今は鳴りを潜めてるけど……あたしも夏海も辞めた直後は陰で裏切り者呼ばわりされたり、根も葉もない悪い噂を流す奴らもいたんだ」
 春菜の瞳は忌々しいことを思い出してるようで、冬花は理不尽だと感じたのか首を横に振る。
「酷い! どうして? 途中で辞めたからって、そんなのおかしいじゃない!」
「……冬花、もし仮に冬花がどこの部でもいい。毎日の放課後は勿論、休みの日や夏休みも辛くて苦しい練習ばかりの日々を送っていて、一緒にいた人がある日突然辞めたとしたらどう思う?」
 こういう時、望は冷静で的確な質問を投げ掛けてくる。光だったら練習に嫌気が刺して辞めたんだろう? 人によっては楽な方に――そうか、そう考えるよな。
「えーと……なんで辞めて……あっ! そうか、自分だけ逃げたから!?」
 少し考えると冬花は頭にパッと花を咲かせ、思いついたかのように答える。
「ご明察! 部活を辞めると……それまで仲良くしていた奴らが手の平返して、陰であいつは逃げたとか裏切り者とか、自分だけ楽の方に逃げやがってとかで……酷い時は顧問が率先して辞めた奴の陰口を言ったり、いじめるように煽るんだ……理不尽な部活の練習の憂さ晴らしにするサンドバッグにしてね、そろそろ帰るわ」
 春菜はコーラを飲み干すと席を立ち上がり、夏海もそれに続くかのように鞄を持って席を立った。スマホの時計を見るとさすがにもう帰る時間だった。
 帰り際、誰かの視線を感じたが気のせいかもしれない。

 家に帰ると、訊きたいことが後から浮かび上がってきて、もっと訊いておけばよかったと光は後悔する。
 どうして吹奏楽部を辞めたんだろう? どうして戻るべきかどうか悩んでるのだろう? 何よりあの六月の晴れた日に、どうして夏休みなんて大嫌いだと叫んだのだろう?
 そう考えて一晩過ごし、翌朝登校すると一番絡まれたくない奴に絡まれた。
「おはよう朝霧、昨日はさぞ楽しかったんじゃないか?」
 竹岡が嫌味と嫉妬でいっぱいな口調と歪んだ表情で挨拶してくる。
 こいつ面倒臭っ! 一緒に登校してきた倉田がフォローしてくれる。
「朝っぱらから悪いな朝霧、こいつは嫉妬深いんだ……大変だったんじゃないか?」
「うん大丈夫……ありがとう」
 擁護してくれる倉田君に感謝するとチャイムが鳴る。いつもギリギリで来てよかったと思ってると、大神先生が着席を促しながら教室に入ってきた。
 昼休みになると、望からメッセージが来て食べ終わるなり冬花がどこかに行ってしまったらしい。
 こっちに来てないか? という内容だが、こっちには来てないと返信する。
「おい朝霧、まさか元吹部の風間さんとLINEか? やめとけ、あいつは確かに可愛いけど吹部辞めて以来とか色んな男をとっかえひっかえしてヤりまくってる清楚系ビ――」
 倉田は竹岡の顔面に目にも止まらぬ速さでキレのいい裏拳をかました。
「下品なことを口にするな食事中だ」
 竹岡が変なことしゃべると、倉田は時々こうして警告なしで実力行使に出るのだ。とはいえ夏海の悪い噂を誰かが流してるのは本当だとわかった。
「全くあんなのは根も葉もない噂だ。こっちなんか風間と桜木は実は女同士で付き合ってるとか、風間が笹野先生を介護で辞めさせるために母親を階段から突き落としたって聞いたぜ」
「マジ……それなら」
「今度は首筋を(ねじ)って全身麻痺にしてこれからの人生死ぬまでベッドの上にするぞ」
 倉田は言わせないと威圧感満載の口調と殺気に満ちた眼光で睨み付けると、顔面の凹んだ竹岡は観念したのか無言で頷いた。
 やはり変な噂を流されてるというのは本当だ。
 だとしたら春菜が部活辞めるまでの間、ずっと一人で心ない噂や誹謗中傷に耐え忍んでいたのか?
 雪水冬花は昼休み、五時間目の授業の準備してくるという名目で一足早く音楽室に入ると中には誰もおらず、後ろの壁にはベートーベンやバッハ、ショパン等の有名な音楽の偉人の肖像画が飾られ、黒板の前にはグランドピアノが置かれていた。
「あの……こんにちは!」
 扉を閉めると音楽室は閉ざされた世界となる。
 外の校庭で遊んでる生徒たちの声がまるで遠い別世界のように聞こえ、一歩ずつ踏み締める冬花の足音が静かに響くと、隣の音楽準備室に通じるドアから一人の先生がゆっくりと柔和な笑顔で姿を見せた。
「はいこんにちは……えっとどちら様かな?」
「あっ、五時間目に授業を受ける二年三組の雪水冬花です。今日はちょっと柴谷先生にお訊きしたいことがあって早めに来ちゃいました!」
 吹部でもない生徒の訪問に柴谷先生は少し首を傾げてる様子だ。柴谷先生は背は低いけどイケメンで変わり者の先生で、音楽準備室を私物化してる噂だ。
「丁度お茶を淹れたところなんだ、飲みながらゆっくり話そう」
「あ、はい……お邪魔します」
 柴谷先生に招かれて準備室に入ると、楽しそうに談笑してる女子生徒が三人いた。
 制服のリボンを見ると一年生の紺色、二年生の赤色、三年生の青色と一学年に一人ずついて冬花と同じ二年生の子は確か一組の駒崎八千代さんだ。
「あれ? あなた確か……三組の雪水さん? 今日は如月君と一緒じゃないの?」
「あらあら可愛いお客さんが来ましたよ、先生ハーレムですね」
 背の高い抜群のスタイルで黒髪ショートにそばかす顔の知性的で大人っぽい風貌の三年生が「ニヒヒ」と茶化すと、柴谷先生も微笑みながら冗談に乗る。
「それは困った話しだね、家内に見られたら大変だ」
 一年生の子はおとなしそうな感じで、三つ編みお下げに黒縁眼鏡子をかけていて緊張した面持ちで「こんにちは」と挨拶した。
「えっと、皆さんはもしかして吹奏楽部?」
「そうよ、こちらは三年生でフルートの小坂(おさか)朱美(あけみ)先輩。そちらが一年生でトロンボーンの栢原(かやはら)美織(みおり)ちゃん、そしてあたしはオーボエの駒崎八千代よ!」
 駒崎さんは二人の先輩後輩を紹介して自己紹介する。
 その間、柴谷先生はガラスのティーポットから五人分のカップに注ぐ、それはとても優雅で思わず見惚れながら駒崎さんが用意してくれた椅子に座る。
「柴谷先生の淹れる紅茶……とても美味しいんですよ」
 栢原さんは視線を柴谷先生に向けて仄かに艶やかな笑みを浮かべる。
 この表情、淡い恋心を抱いてるかも? 冬花はなんとなく察する。
 周りには紅茶を淹れるためのカセットコンロにやかん、ガラスのティーポットや茶菓子、あと柴谷先生の愛読書なのかジョージ・オーウェルの小説「一九八四年」や「動物農場」が置いてあって、どう見ても音楽準備室に置くような代物じゃない。
「あっ……美味しい」
 柴谷先生が淹れた紅茶を飲むと栢原さんの言う通りとても美味しい、音楽準備室を私物化してるのは本当のようだ。
 小坂先輩はうっとりした表情で言う。
「でしょう? 先生の紅茶を飲めば午後の授業は睡魔に悩まされずに済むわ!」
「朱美先輩、受験生ですよね?」
 駒崎さんに鋭く指摘されると、小坂先輩は「グハッ!!」と刃物で胸をぶっ刺されて吐血するようなリアクションを取り、両目を不等号にして嘆く。
「言わないでぇ~駒崎ちゃん! 高校最後の夏休み、いっそ八月三一日の夜に彗星が地球に衝突してくれたらと何度願ったことか!」
 それだとコンクールはどうするんだろう? こんなに楽しいと風間さんも――あっ! 吹奏楽部の人たちとティータイムを楽しんで目的を忘れたことに気付く。
「そうだ! 柴谷先生、風間さんのことなんですけど」
「!? 雪水さん、夏海のことどうして?」
 駒崎さんは戦慄した表情を見せて訊くと冬花は「昨日一緒に帰ったの」とだけ答える。柴谷先生はにこやかな笑みは鳴りを潜め、少し厳しい表情になる。
「駒崎さんや小坂さんから聞いたよ。僕の答えは……決めるのは風間さんだ。彼女の演奏を以前動画で見せてもらったけど、とても素晴らしいものだった。だけど、それとこれとはまた別問題だ」
「先生の言う通りよ……残念だけどフルート奏者の風間は……もういないわ、まあ戻ってくるなら歓迎するけどね」
 小坂先輩の表情は悲しさと寂しさが入り混じり、栢原さんは恐る恐る訊いた。
「あの……柴谷先生や私たちが来る前、吹部に何があったんですか?」
 小坂先輩は悲しげに唇を噛み締め、駒崎さんは徐々に顔を顰めてカップを持つ手を握り締め、怒気を放ち、血が出るんじゃないかと思うくらいギリギリと歯を噛み締めて忌々しげに憎悪に満ちた口調で言う。
「あの巨匠気取りの笹野……思い出すだけで虫酸が走るわ。高校生活を吹部だけにして結果を出しても褒めない、認めない、怒鳴る、頭っから否定する……何より才能溢れる夏海を……潰したのよ!」
 駒崎さんの瞳には全てを焼き滅ぼすような憤怒と憎悪の炎が宿り、栢原さんが「ひっ!」と怯えると隣に座っていた小坂先輩が優しい母親のように抱き締める。
「大丈夫よミオちゃん、怖くないわ。駒崎、気持ちはわかるけど落ち着きなさい……ミオちゃん怖がってるでしょ」
 小坂先輩は毅然と口調でした諭すと、駒崎さんはカップの紅茶をゆっくり飲んで落ち着かせると大きく息を吐く。
「すみません。でも、どうしても許せないんです……あたしたちの一年間、そして先輩の二年間をふいにしたあの顧問のことが……」
「駒崎さん、やっぱり……何かあったんだね」
 冬花は確信して言うと、小坂先輩が代わりに話し始めた。

 私が話すわ。いずれミオちゃんや柴谷先生にも話しておかないといけないことだったからね。
 柴谷先生が来る前、笹野が吹部の顧問をしていた頃は所謂ブラック部活だったのよ、聞いたことあるよね? ブラック企業とかブラックバイトとか、あれの部活バージョンよ。
 毎日始業前の朝練や遅くまでの練習、そのうえ土日祝日は自主練の強制参加。
 練習も笹野の罵声や怒号、理不尽な指導で何人も泣かされたわ……おまけに部活に支障が出るって、男女交際とかも色々禁止って入った後で知らされたわ。
 私もね、実は好きな人がいたの……中学の頃からのね。実を言うとその人と一緒になりたくてこの学校に入って、いい所まで行ったんだけど……話す機会もなくなって、その人も彼女作っちゃって失恋。
 そういう意味では私も笹野が憎いわ……今は二年の彼氏がいるけどね。
 ああそうだ、脱線したわ。雪水さんだったね? 風間のこと知りたいって?
 フルートの演奏……本当に素晴らしかったわ。
 才能溢れる天才と言っていいほどよ、あの子がうちの吹部に来た時はそりゃもう歓迎したわよ。一年のホープだったわ……今思えば入部を止めるべきだったわ、全力で……あの時の私たちは笹野のパワハラで洗脳され切ってた――いいえ、そうでないとやってけなかった。
 卒業した先輩たちの中には風間のことを快く思わない人もいたし、妬んで手段を問わず平気で嫌がらせや、憂さ晴らしにいじめて精神的にサンドバッグにする人もいた。
 笹野も笹野で風間に歪み切った形で期待して特に厳しくしていた……いいえ、厳しいなんてものじゃない、あんなの指導という名の悪質なパワハラ――いいえ最早虐待よ。
 笹野と先輩たちに板挟みにされたあの子は去年の七月、その日は台風が通り過ぎた暑い日だった。
 あの子は突然音を立てて壊れたわ。
 大会も近づいて笹野はいつも以上に罵声や暴言、指揮棒を飛ばして、私も怒鳴られたわ……午前中の練習が終わった時よ。
 あの子が突然吐いて倒れて保健室に運ばれたわ……熱中症だったと思う、幸い意識はあったけど笹野は気遣うどころか、練習が滞ったから滅茶苦茶に怒鳴ってお前には失望したとか今まで何やってたんだとか、そりゃもう人格否定のお手本と言えるほど酷かったわ。
 そして大会の前日の朝、あの子は音楽室に退部届けを置いて来なくなったわ……今にして思えば最初で最後の反抗だったと思うの、大会の結果も散々だったから。

「酷い話だな……そんなの顧問失格以前の問題だ……私が顧問になって最初にみんなの演奏を聞いた時、悪くはなかったけど……一番大切なことを忘れて、酷く怯え切っていて萎縮していた」
 小坂先輩の話しを聞いた柴谷先生の表情は険しかった。冬花はやっぱり部活入らなくてよかったかもと安堵してしまう自分が嫌いになりそうだった。
 すると、重苦しい空気を振り払うように駒崎さんは明るい笑顔で柴谷先生を見つめる。
「でも、あたしは柴谷先生が来てくれて本当によかった。練習は厳しいけど……決して怒鳴らず否定せず……音楽の楽しさを教え直してくれたから」
「私もよ! もうコンクールなんて行けなくていいから卒業までに吹奏楽を通じて音楽の楽しさを教え直して欲しいなってね!」
 小坂先輩は能天気に言うがまさか、小坂先輩も? 彼氏いるのに? その証拠に栢原さんはジッと絶対に負けないと、意志の強そうな眼差しで見つめてる。
 柴谷先生は知ってか知らずか爽やかな笑みで紅茶を口に運んでいた。
 二人とも左手の薬指に指輪が光ってるの忘れてない?
 放課後になり、朝霧光はいつものように席を立つと廊下に出て、望や冬花と合流する。
「冬花、昼休みはどこに行ってたの?」
「音楽準備室で柴谷先生や吹奏楽部の人達と紅茶を飲んでたの」
 冬花の笑みは曇りがちだ、何があったんだろう? 何か思い詰めてる表情で冬花は提案する。
「ねぇ、せっかくだからさ……風間さんと桜木さんも誘おう」
「そうだね、俺もそう思ってた」
 望が提案に乗るとなんとなく光は感じていた。冬花も風間さんのことを気にかけているんだと、それは光も同じだった。
「それなら行こうか」
 みんなで一緒に帰る。ありふれたものだが青春モノみたいだ。
 光はなにか引っ掛かるような気持ちで二組の教室に差し掛かると、二組のホームルームも終わったところで、春菜はクシャクシャと頭を掻きながら出てきて、冬花は声をかけた。
「桜木さんどうしたの? 一緒に帰ろう!」
「あっ、うん……昨日SNSで二組の誰かが煙草を吸ったってデマ情報が流れたんだけど、玲子(れいこ)先生が調べたら証拠写真の煙草の吸い殻は曰く、一部の専門店でないと買えないイギリスのヴィクトリー・シガレットっていう銘柄だったそうよ……誰かが玲子先生の吸い殻を拾ってそれで拡散させたみたい……最近誰かがうちのクラスを貶めようとしてるの」
 二組の担任――綾瀬(あやせ)玲子(れいこ)先生は柴谷先生と同い年の美人の先生で、みんなは玲子先生と呼んでいる喫煙者だ。
 世間の禁煙ムードもどこ吹く風と言わんばかりに、時々敷地の外や学校の野良喫煙所で恐ろしくキツい匂いの煙草を吸ってる。
「ええっ!? 酷いじゃない!」
 感受性豊かな冬花は当然の反応を示すと望は訊いた。
「ねぇ桜木さん、それ……いつ頃から?」
「確か部活辞めた後だから六月頃かな?」
 春菜は思い出しながら言う、それでハッとして確信した表情が徐々に怒りを露にするが、一組の教室から夏海が出てくるとブルブルと首を左右に振ってクールダウンさせて歩み寄る。
「夏海、今日もみんなで帰ろう」
「あっ、うんまた昨日みたいに街に――」
 夏海が安堵の表情を見せたかと思った瞬間、何の前触れもなく冬花は人目を憚らず夏海に抱きついた。
「雪水さん……どうしたの?」
 困惑する夏海に冬花の瞳から大粒の涙が溢れ出し、嗚咽を漏らす。
「うっ……辛かったんだよね夏海ちゃん……毎日辛くて苦しい日々を送って……吹奏楽部辞めた後も一人で心細くて耐えていたんだよね? 今日聞いたの、吹奏楽部の先輩や駒崎さんから……夏海ちゃんがフルート頑張ってたけど……壊れちゃったって」
 夏海はなんとも言えない曇った表情になる。光は周囲の生徒達の視線が集中してることに気付いて春菜と目が合うと、彼女は無言で頷いて望は優しく冬花と夏海を諭す。
「冬花……ちょっと場所を変えよう。風間さん、僕たちにも話しを聞かせてくれるかな?」
「うん、じゃあ屋上に」
 夏海は重く頷いた。みんなで屋上に上がって塔屋を出ると、厚い雲がかかってるとはいえ陽射しに加熱されたアスファルトの熱が、上履きを履いてもはっきり伝わる。
 真夏の湿った心地よい風が吹く中、夏海は静かに話し始めた。

 私が吹部でフルートを始めたのが中学の頃、入学式の日に仲良くなった八千代ちゃんに誘われて一緒に入ったの、八千代ちゃんはオーボエだったけどみんな仲良くしていたわ。
 コンクールとは無縁の弱小だったけど顧問の先生も先輩もみんな優しくて純粋に楽しくて……文化祭や体育祭、定期演奏会の時の方が晴れ舞台だったわ。
 細高は滑り止めで受けたんだけど、それでも八千代ちゃんと一緒だったのが嬉しかったし、同じクラスになった恵美ちゃんとも仲良くなって吹部に入った。
 けど、細高の吹部は中学の時とは悪い意味で正反対だった。
 顧問の言うことは絶対だったし、パートや楽器で派閥を作っていてピリピリしていて休みなんてなかった。
 休んだら次の日はみんなの前で頭下げないといけないって、最初の頃は練習中それこそ怒鳴られて何回も泣かされて……それでも、私と八千代ちゃんや恵美ちゃんとなんとか励まし合いながら頑張ってきた。
 でも……私には無理だった!
 コンクールが近づいた七月の凄く暑い日にね、暑くて気持ち悪くなって椅子から立ち上がった瞬間に吐いて倒れちゃったの……ボーッと気が遠くなる間……聞こえちゃったの。
 楽器は大丈夫? 壊れてない? って、保健室のベッドで休んで楽になったけど、顧問が来て……お前は今日まで何してたんだ、大事なフルートを壊して失望した、時間を無駄にしたって……幸い保健室の先生が止めに入ってくれたけど、あんなに自分自身を否定されたことはなかった。
 その時、私より楽器の方が大事ならもういいや……フルートなんてもうやりたくない……吹部はもう私の居場所じゃない……辞めた後はしばらくは陰口や噂を流されたけど、顧問に怒鳴られたり人格否定されるよりはよかった。
 六月に春菜ちゃんが声をかけてくれたのは本当に嬉しかった。

 夏海は悲しげな眼差しで春菜を見つめると、春菜も沈んだ表情になる。
「そんなに嬉しかったんならさ、もっと嬉しいって顔して笑えよ……もうすぐ夏休みなんだぜ、それも彗星の夏休みだ! いっぱいさ……青春しようよ!」
「うん、わかってる……私……夏は好きだったけど、今はもう嫌いなの……暑い日になるとあの日のことを思い出して頭から離れないの」
 だから夏海はあの時、夏なんて大嫌いだと叫んでいたのか。光は六月の晴れた日のことを思い出すと、望は言い当てるように訊く。
「だからもう……吹奏楽部には戻りたくない?」
「……恵美ちゃんや先輩たちが戻ってきて欲しいって言ってるのわかってるけど……私のことを快く思わない人たちも沢山いるの……せっかく柴谷先生が纏めてくれたのに、また私のことで争ってしまうかもしれないから……吹部はもう私の居場所じゃないと思うの」
 夏海やこの前春菜が言った通り一度裏切った部活にまた戻る。学校と言うのは恐ろしく狭くて息苦しい檻だ。それをみんな知識ではなく心で熟知してる、春菜は夏海の心を刺すように言った。
「部活どころか教室――学校そのものじゃない?」
「……うん、前はみんなで楽しくやってたんだけど……今は休み時間とか昼休み……特定の人以外、私に声をかけちゃ駄目って空気なの」
 夏海は重い口調で言う、特定の人とは恐らく吹部のクラスメイトだろう、周到な手だ。
 恐らくはスクールカースト上位グループに口添えでもしたに違いないと、光は眉を顰める。
 冬花は首を横に振り、嘆きながら憤る。
「酷いよ! これじゃ部活辞めてもどこにも居場所がないじゃない!」
「だからこうして桜木さんが風間さんに寄り添ってる?」
 望が言うと春菜は「大当たり」と頷いた。
「辞めた者同士でさ、気楽にやっていこうって……勿論、辞めて逃げた弱い者同士で傷の舐め合いをしてるって陰口言う奴もいるけどさ……あたしも居場所無くしちゃったからね」
 春菜の微笑みは寂しげで夏海は悲しげな眼差しで見つめる。
「ごめんなさい春菜ちゃん、私のせいで……一緒に辞めた友達も離れて――」
「気にするなよ! あいつらはあいつらで楽しくやってるさ! 距離を置くように言ったのあたしの方からなの……羨ましいと思うこともあるけどさ、それで……いいんじゃない?」
 後半の春菜の台詞は弱気に聞こえ、夏海は今にも涙が浮かび上がってきそうな表情で唇を噛んだ。
「でも……私のせいで居場所を無くしてしまって……」
「夏海ちゃん……春菜ちゃん……」
 冬花もどうしていいかわからないのか、ただ二人を見つめて呟く。
 望も歯痒そうな表情でジッと二人を見つめてる。
 光にとっての居場所とは? 少なくとも狭い教室でも、この屋上でもない。望と冬花と三人で放課後は気ままに街をブラブラしている。
 強いて言うなら望と冬花の二人と、どこにでも行ければそこが居場所だ。
 それならこの二人に自分ができることは? いや、自分一人ではできることは僅かだけど……光は自問自答し、ゆっくり呼吸を整えて腹を括り、突き抜けるような声を強く響かせた。

「じゃあ……みんなで作ろう!」

 みんな「えっ?」という顔で光に眼差しを向けると、夏の爽やかな風が吹きつけ、雲の隙間から陽光が射す。
「僕も自分のクラスが狭くて息苦しいから、望や雪水さんといる……でも、それは悪いことじゃないし弱さじゃないと思う。だから風間さん、もう一度夏休みを――夏を好きになろう!」
 光の言葉が、心が、果たして夏海に届いたのだろうか? 夏海は闇の中、微かな希望の光を目にしたような表情だ。夏海の唇が微かに動いた瞬間、春菜は瞳を輝かせて嬉しそうに飛び上がるような高い声を上げた。
「いいじゃない! 青春じゃない! 夏海、あたしは乗るわ!」
「それなら、俺たち今年の夏休み湘南に遊びに行く計画立ててるんだ。一緒に行こう!」
「えっ? 如月君いいの!? 本当にいいの!?」
 春菜は裏返った声で尋ねると、望は躊躇う様子もなく頷いた。
「うん、俺の親戚にホテルのオーナーをしてる人がいるから頼んでおくよ!」
「いやったぁぁぁあああっ! 湘南江ノ島! しらす丼! そうだ! まだ紹介してないけどもう一人の子も誘いたいの!」
「うん! 楽しみが増える!」
 望と春菜は元々明るい性格だからか意気投合し、光は思わず微笑む。
 冬花は夏海の目の前まで歩みより、両手をゆっくりと優しく握る。
「夏海ちゃん……光君の言う通り、居場所がないなら一緒に作ろう。怖いかもしれない、不安かもしれない、だけど大丈夫……一人じゃないよ、あたしたちがいるから」
「雪水さん……」
「冬花でいいよ」
 冬花は無邪気な笑顔で言うと夏海は声を震えさせた。
「うん……ありがとう……と……冬花ちゃ――ふっ……ふぇええええん!」
 夏海は抑えていたものが決壊し、両目から大粒の涙を溢れさせて小さな子供のように大声で泣きじゃくり、冬花は困惑しながらハンカチを取り出す。
「あわわわっ夏海ちゃん! 大丈夫?」
「大丈夫よ、嬉しくて泣いてるんだよね? 夏海」
 春菜は大粒の涙を拭う夏海の背中を優しく擦る。
 この子がもし満面の笑みを見せてくれたら、それはきっと真夏の太陽のように眩しく、素晴らしいものなんだろうと夏の空を仰ぐと気付いた。

 蝉が鳴いてる。

 僕たちの、夏の物語の始まりを告げるかのように。そういえば今朝のニュースで気象庁が梅雨明けを宣言したと報じたことを思い出した。