【プロローグ】
 3歳のときに両親が離婚したあと、母方の祖母に引き取られて、15歳になるまでいっしょに暮らした。

 私の母は見かけはとても美しいが家事能力はゼロな人間で、結婚しているときもほぼほぼ家事はしていなかったようだった。幼子連れて離婚したところでいきなり自分と娘を養えるような生活力はなかったのだ。

 そして、母は私を預けて少し働いたようだが、すぐに再婚して祖母の家には滅多にたち寄ることもなくなった。

 私も私で、できあいの惣菜かケータリングばかりだった母の食事より、きちんと出汁をとり、下拵えをする祖母の温かな料理が好きだったので、そのまま実の母のことは忘れて、祖母をおばあちゃまと呼んで、母のように慕って育った。

 おばあちゃまの口ぐせは、

「食べものはね、毒にも薬にもなるのよ。毎日三度三度必ず口に入れる物なんだから、疎かにしないで、身体にいい、薬になるようなものを食べなさい」

だった。

 そして、学校から帰るとおばあちゃまの夕餉の支度の手伝いをして毎日を暮らした。

 小学校も、中学校も、そうして毎日祖母と薬になるようなご飯をこしらえて幸せに暮らしていたのに、私が中学3年になった年末のある日、いきなり地獄がやってきた。

「ばばあ、帰ってきてやったぞ」

 おばあちゃまの家は、世田谷の深沢という閑静な住宅街にある、年季の入った平屋の木造で、玄関はドアではなくて引き戸だった。

 引き戸にはガラスがはいっていたので、そのダミ声とともにガシャっと閉められたときには、ガラスが割れるのではないかと思うほど軋んだ。

 靴を脱いですぐに居間までやってきた声の主は、その潰れた声とは裏腹に、不摂生で崩れかかってはいたが、整った顔の中年男性だった。

 仏壇のおじいさまに似ている…

「ばばあ、金貸してくれ」
 
 おばあちゃまの方を振り返ると、怒りとも恐れともとれる、今まで見たことのない表情をしていた。
 そして、ヒュっと息を吸い込むと、

「貸すようなお金がこの家にはもうないことは、お前がよく知っているでしょう」

と静かに返事をした。

「何言ってんだ、ばばあ。こんな妾の孫育てるんなら、血のつながった俺を助けろよ」

最初、何を言われたのかよくわからなかった。普段の生活には出てこない単語だったから。
でも、知らない単語ではなかった。

 めかけ。妾。メカケ?誰のこと?

(ひじり)はあなたの姪でしょう。なんてことを言うの!」

「ばばあこそ、めでてえな。勝手したじじいの尻拭いをいつまでやってるんだよ!そんなことにかける金があるなら俺に貸してくれよ。俺は困ってるんだよ!」

「…今度はいくら必要なの」

「5000万」

 いっしょに暮らすようになってから、穏やかな顔しか見せなかったおばあちゃまのシミひとつない白い細面の顔に、ぱあっと朱色の血がのぼった。

「そんな大金、何につかったの!お父様の遺産だって一生暮らせるくらいの金額だったでしょう!これまでだって、何度も何度も、必要だと言えば用立ててきたけど、もうあなたも自分の責任は自分でとる歳でしょう」

「何言ってんだよ、ばばあ。妾の子供なんか引き取るから、俺の取り分減ったんだろうが!」

また出てきた。メカケ。おじいさまには子供は二人しかいない。ここにいる武光おじさまと、私の母の輝子。
武光おじさまが妾の子供じゃないなら、私のお母さんが妾の子なの?でも、おばあちゃまは、私のおばあちゃまでしょ?どういうことかわからない!

 混乱して泣き出した私を見て、おばあちゃまはハッとした顔になり、声を震わせながら

「用件はわかったわ。ただしそんな大金、すぐには用意できないわ。あなたにもそれくらいわかるでしょう。一週間待ってちょうだい。重光おじさまにご相談してみるわ」

 チッ、と舌打ちをして、かつては美しかっただろう荒んだ顔をしかめ、

「じゃあ大晦日にまたきてやるから、用意しとけよ」

と吐き捨てるように言うと、ダンダン、と威嚇するように板張りの廊下を踏み鳴らして武光おじは帰っていった。

 あまりにも色々なことがショックで、私はそのまま熱を出してしまった。今思えば、熱を出して寝込みたかったのはおばあちゃまだったろう。あの頃の私は、まだまだ甘ちゃんのお子様だったのだ。

 3日寝込んで起き上がれるようになったら、楽しみにしていたクリスマスは終わってしまっていた。

 いつもの年は、おばあちゃまと丸鷄をオーブンで焼き、ご馳走を作って、近所の美味しいケーキ屋さんのケーキを食べて普段の何倍も楽しく過ごしていたのに。あの、黒い空気を纏った武光おじが来るまでは、今年もどんなご馳走を作るかおばあちゃまと相談する予定だったのに。

 パジャマにカーディガンを羽織って台所に行くと、おばあちゃまが何か思い詰めたような顔をして、一心不乱に柳刃包丁を研いでいた。

「おばあちゃま」

 声をかけると、おばあちゃまは手を止めて包丁と砥石に蛇口から水をかけて脇に置いた。

「聖、もう大丈夫なの?」

「多分。もう頭も痛くない」

「そう…良かったわ。心配したの。あのあと、何度もうわ言を言って…」

「心配かけてごめんね」

「今日は、まだ寝てなさい。後でベッドにお粥持っていくわ」

「ありがとう。ねえ、おばあちゃま。私聞きたいことがあるの」

「わかったわ。おばあちゃまもね、聖に話したいことがあるの。でも長い話になるから、本調子になってからにしましょう。今日は、栄養つけて、もう少し休みなさい」

 確かに年の瀬のボロ屋敷の台所は頭がキーンとなるほど寒かったので、お茶を淹れてもらって茶碗で手を温めながら部屋に戻った。

 そのあと、おばあちゃまが持ってきてくれた小鍋のお粥をお腹いっぱい食べて、横になると、熱は下がっていたけどまた泥のようにぐっすり寝てしまった。

 私が前後なく寝て暮らしていたその年末の数日、おばあちゃまは何を思っていたのだろう。

 いや、おばあちゃまではなかったのだ。私の本当の祖母は、おばあちゃまを苦しめた、祖父の愛人だった。



御試食(おしつけ)

 次の日、熱も下がり普通の食事ができるようになり、お風呂に入ってさっぱりしてから、祖母の部屋に行った。

 おばあちゃまも、部屋着ではなくよそいきの着物を着て待っていた。

「おかけなさい」

「失礼します」

 おばあちゃまと私は、進路を相談したり、悩みを打ち明けたり、といった普段とは違う話をするときは、祖母の部屋でかしこまってすることになっていた。

 つい先日も、高校進学について同じような席を設けてもらって話をしたばかりだった。

 ティーテーブルの上には、先程まで台所で煎じていた漢方薬の匂いのするお茶が置かれていた。

 おばあちゃまがお茶をひと啜りしたので、その手元をじっと見つめた。

「聖の話を先に聞きましょう」

 頭に血がカッとのぼり、顔が赤らんでくるのが自覚できた。なるべく涙声にならないよう、ゆっくり息をしながら声を出す。

「私は、おばあちゃまの孫ではないのですか」

 おばあちゃまは、ふう、と一つ息を吐いてから、

「輝子が私が生んだ子どもで聖が私の血を引いているかどうか、という話であれば」

「聖と私には血の繋がりはないわ…」

 ゆっくりゆっくり、小さな子供に言い聞かせるように言った。

 と、覚悟していたのに涙が目から溢れてしまう。喉に苦い液があふれてくる。ティッシュを目に押し当てて深呼吸すると、もう一度質問する。

「では私の母は誰の子なんですか」

「聖がもっと大人になってから話すつもりでしたが…」

「輝子は、おじいさまとおじいさまが私と結婚する前にお付き合いしていた方の子供よ。だから、聖は私の血は継いでいないけど、おじいさまの孫に変わりはないわ」

「その女性は…」

「もう、だいぶ前に亡くなっているわ。それに、聖、あなたは私の本当の孫だと思って育ててきたわ。この桐谷(きりや)のうちの跡取りとも思っているし、書類も整えてあるの」

「跡取り?」

こんな平屋のボロ屋敷に跡取りとかあるんだろうか、と私は自分の生まれよりそちらに気を取られた。

「それも、あなたが大人になったら言おうと思っていたのだけど、桐谷の家は、昔から、ある藩のお殿様の御典医を勤めていてね。御典医というのはお医者様だけど、合わせて、御試食(おしつけ)、というお毒見を務めてきたの。それはそれは長い間。だから、桐谷の跡取りには、お毒見の知恵を繋いでいくお役目があるの」

「御試食のお役目はね、一朝一夕にはできないわ。人の口に入れることのできる毒だけではなくて、身につけるもの、手に触れるもの…全てを知っていなくてはならないし、万が一お殿様に毒が使われてしまったら解毒するのは御試食のお役目よ。もう今はお殿様にお仕えはしていないけれど、桐谷の継いできた知恵は今でも家を継いだ者一子相伝で伝えているの。次のお役目は、聖、あなたなの」

 ナニヲイッテイルノカワカリマセン

 私の頭は途中からフリーズしてしまった。百歩譲って、今は落ちぶれているが昔はかなり高位の役職のお家柄だった。だから跡取りとか、時代錯誤な話も出てくるのだろう。だけど、お毒見?毒の話?だからおばあちゃまはいつもお食事の度に薬と毒の話をするの?

「話の流れが見えない、というお顔ね」

おばあちゃまが苦笑した。

「今はここまでにしましょう。お夕飯のお支度もしないといけないし。だけど、もう時間がないから、明日、少し時間を頂戴。おばあちゃまの話はそのときにするわ」

 二人分の茶托と茶碗をお盆に載せ、おばあちゃまはぼうっとしている私を置いて部屋を出ていったので、私も頭をぐるぐる回してシャキッとさせると、慌てて後を追って台所に向かった。


【毒を使う】

 次の日。おばあちゃまはもっと詳しい話を丁寧にしてくれた。

「昨日、桐谷の家の話を少ししたわね。聖は行ったことはないけど、桐谷の本家は、麹町にあるの。今もまだ屋敷はあるわ。誰も住んではいないけど。もっと遡ると、群馬に元々の本家があって、その屋敷は分家の重光おじさまが守ってくださっているわ。江戸時代に遡る、割と古い家柄でね。もともとはお医者様の家系だから、私の父までは、跡継ぎは皆お医者様だったわ。でも、私の代の男兄弟は皆戦争で亡くなってしまって…だから、女学校しか出ていない私がお医者様をお婿さんにもらって、跡目を継いだの。そのお婿さんが、おじいさまね。おじいさまは桐谷の遠縁で、お医者様だったから、親族は皆良縁だと思ったんでしょうね…でも、おじいさまにはお好きな方がいらしたの。結婚まで、そのことは知らなかったわ。仏壇のお写真でわかると思うけど、おじいさま、とてもお顔が整ってらして…私は一目惚れだったの。武光が生まれてから、おじいさまの恋人のことを聞いた時は、とても苦しかったわ…昔は、結婚なんてみなお見合いで、結婚してからお互いのことを知っていくのだけど、武光が生まれても、おじいさまは桐谷のうちに馴染めないご様子でね…あるとき、違うお家におじいさまの恋人と、生まれた赤ちゃんがいることを、教えてくれた人がいて…見にいったのよ。一人で」

「おじいさまのお勤めしている病院の近くにお家があって…赤ちゃんとお母さんと、おじいさまが、楽しそうに笑ってらしたわ。悲しくて悔しくて…」

「どうやって帰ってきたか覚えてないけど、おじいさまのお気持ちが私にないことはわかったの」

「私もまだ若くて…武光に優しく出来なくて…武光は本当にお顔がおじいさまにそっくりだったから」

「だから、武光が捻くれて育ってしまったのは、私のせいね。後悔してもしきれないわ」

「そのあと…輝子ちゃんのお母様、聖、あなたの本当のおばあちゃまが、結核にかかったの」

「もう、本当にダメらしい、というときに、おじいさまに頭を下げて頼まれたの」

「輝子ちゃんを引き取って、この家の子として育ててほしいって」

 おばあちゃまは、私の目をじっと見つめて、苦しそうに笑った。

「ダメな私は、まだそのときも、おじいさまを許せなくて」

「輝子ちゃんは、愛されて育ってとても可愛らしかったのに、どうしても優しくできなかったわ」

「その頃は、駒沢のオリンピック公園の近くの洋館に4人で住んでいたけど、それこそ、すきま風が吹くような、寒々しい生活だったわ。だから、武光が家を飛び出して、輝子ちゃんが短大を出てすぐに結婚して、おじいさまが病気になられてあっという間にお亡くなりになって…今になって思うと、当たり前だったと思うわ」

おばあちゃまは寂しげに笑ったけど、目には涙が浮かんでいた。

「それから、洋館を引き払って、この家に越してきて、自分を見つめ直していたときに、聖、あなたがこの家にきてくれたの」

「やり直したいと、願ったの。私がしてきた過ちを。もう、おばあちゃま、こんな歳でしょ、最後のチャンスだと思って」

「だから、あなたは、私の本当の孫だと思って育ててきたわ」

「武光は、そんなことを知っているから、まだまだお金を引き出せると思っているのね。今までも、私のしたことの罪滅ぼしにと、かなり渡してきたわ。だけど、これからもそんなことを続けたら、聖の人生が滅茶苦茶になってしまうわ」

そうだったのか。腑に落ちた。だから、武光おじさまが「妾の孫」と言っていても、何故か間違っているのはおじさまのような気がしたのだ。私は、おばあちゃまから愛情しかもらった記憶がない。

でも、次におばあちゃまの口から出てきた言葉に私は凍りついた。

「だから、聖、あなたを守るためなら、毒を使うわ」

 そして、それは実行されたのだ。武光おじさままた来ると予告していた大晦日に。

 大晦日には、おばあちゃまは腕によりをかけてフレンチのコース料理を作った。武光おじさまが来ると、

「武光、あなたお酒の飲み過ぎで身体を壊してるように見えるわ。薬になるような料理を作ったから、食べていけば?」

 と声をかけた。武光おじさまは、強請にきたのに優しい言葉をかけてもらって、嬉しそうに見えた。

 そして、おばあちゃまが作ったご馳走を、目の前で平げ、食後のコーヒーを飲み終わる頃、武光おじさまは苦しみ出した。

  そして白目を剥いて昏倒した。救急車で病院に運ばれ、そのまま意識を取り戻すことなく、一週間後に亡くなった。


 診断は、アルコール性の劇症肝炎からくる多臓器不全、とのことだった。確かに、クリスマス前にガタガタと床を踏み鳴らしてお金をゆすりにきたときは、美しかっただろう顔貌は、酒焼けのせいかたるんですこしドス黒く、白眼も黄みがかってはいたけれど、まだあんなに元気そうだった壮年の男性が、昏倒してそのまま亡くなるだろうか。


 そう、おばあちゃまは誰にもわからないように毒を使ったのだ。



【アフラトキシン】
 おばあちゃまは、和食も洋食もお上手だった。和食は鰹節を削るところからだったし、洋食はブイヨンから手間をかけて作った。

 おばあちゃまと長い長い話をした日から、大晦日まで、群馬の重光おじさまから宅配便で、卵や、くるみや、小麦粉や牛乳やバターなど、ご馳走を作る材料らしきものが次々と届いた。それは、時々おばあちゃまと私の二人の食卓で、張り切ってご馳走を作る時でも送ってもらっているような材料だったので、果たしておばあちゃまの言う毒、とはどんなものなのだろう、と訝しく思っていた。

 もしかして、ただの言葉の綾で、懲らしめる、くらいの意味だったのだろうか、とも思っていた。

 その日の献立は

・オードブル/鷄レバーのテリーヌ
・スープ/きのこのポタージュ
・アントレ/鴨胸肉のロティ
・デセール/ピスタチオのソルベ
・カフェ・プティフール/焼き菓子とコーヒー(ハーブティー)

だった。武光おじさまは、一人でブランデーも煽っていたけど、多分量はそれほどじゃなかった。

 前菜から、スープ、肉料理も、デザートも、武光おじさまとまったく同じ物をわたしもおばあちゃまも食べた。

 私とおばあちゃまは、夜にコーヒーを飲むと寝られなくなってしまうから、コーヒーではなくてハーブティーにしたけれど。

 だから、その中に毒が仕込まれていたとは思えなかった。

 救急車がきたときに、食べかけのテーブルも見せたけど、一緒に食べてた私とおばあちゃまがピンピンしてたから、食中毒ではないかな、と隊員さんが呟いていた。


 私は、料理作りも手伝っていたけど、よくある青酸カリ、や、砒素、なんかの毒物を入れるのかも、なんてドキドキしていたから、なんで武光おじさまがあんなことになったのかは、そのときにはわかっていなかった。


 ただただ、おばあちゃまが何かをしたのなら、私はその秘密を守らなくちゃ、と唇を噛み締めていた。


【エピローグ】

 そして、今私は群馬の前橋の、重光おじのところに来ている。

 重光おじ、は、おばあちゃまのお父様の弟だから、私から見ると曽祖叔夫《そうそしゅくふ》ってお立場だけど、まあ旧家によくある、こちらも本妻のお血筋ではなく、重光おじのお父様の最晩年の落とし胤ということで、おばあちゃまよりだいぶお若く、頭脳明晰な方だった。

 なぜ桐谷の分家に来ているかというと、前橋に桐谷家の菩提寺があるからであり、それは私の大事なおばあちゃまが、私の高校入学を待たずして天に召されたからである。

 おじいさまと、私の本当の祖母は、東京にある霊園におばあちゃまがお墓を建てていたので、そこに眠って頂いている。それは、おばあちゃまの情けかもしれないし、懺悔かもしれないし、その深い想いはまだ恋も知らない私には窺い知ることもできない。

 武光おじさまのお葬式はおばあちゃまが取り仕切ったので、納骨はその霊園にしていた。顔も知らない親族が眠る前橋より、せめて父親が眠る墓所がよいと、母親なりの気遣いだったのだろうか…

 一月は、武光おじさまのお葬式関連で忙殺され、二月は私の都立高校の受験と発表とで慌ただしく過ぎていき、三月、私の卒業式、という段になって、おばあちゃまの体調が著しく悪化した。

 母の輝子に連絡をとろうとしたけれど、再婚相手の海外赴任で、私を深沢に置き去りにしたあと、ほとんど日本にいないようだった。無理して連絡する必要もないかと思い、重光おじさまに連絡したところ、それから一切の面倒ごとは重光おじさまが取り仕切ってくださった。

 重光おじさまが細々な手配の際に教えてくれたが、私は深沢に来てから、おばあちゃまと養子縁組の法律的な手続き済みで、戸籍上はおばあちゃまの娘になっていた。さまざまな事情は既におばあちゃまから相談してあったようで、半人前の私より全て把握していらした。

 おばあちゃまは、ずいぶん前から病を患っていた。というか、いたようだ。全く気がつかなかった私は、やはり未熟者だったのだろう。思い起こすたびにかきむしられるような後悔に苛まれる。残された時間が少ないことがわかっていたとしても、私ができることには限りがあったと思うけどけれど。


 自分の余命が残り少ないことを感じて、私のこれからを守るために、武光おじさまを道連れにしてくださったのだろう。最後に、おばあちゃまは心を鬼にしたんだ。

「聖」

 おばあちゃまの納骨が終わり、東京に戻る段になって、重光おじが私の目を見て声をかけてきた。それまでは、人の采配をしている姿を遠くから見かけることはあっても、直接話をする機会はなかった。分家とはいえ、前橋の桐谷家はかなりの規模の家で、会社もいくつか経営しているらしく、本家の跡継ぎであるおばあちゃまのお葬式ということで、かなりの人数の人が立ち働いており、重光おじさまは未成年で何もできない喪主の私に代わって全てを取り仕切ってくださったのだ。

「今更だが、前橋に来ないか」

「東京の家に一人で暮らして学校に行くのは大変だろう」

「今までほとんど付き合いがなかったこの家に来るのは嫌かもしれないが、私としても年端も行かない本家の跡取りに危なっかしい一人暮らしをさせることは、とても心配だ」

「それに…」

と、最後の言葉を口に出す前に、重光おじさまは一度目を落として言おうかどうか、逡巡したように見えた。

「御試食の知恵をお前に、と櫻子さんから頼まれていた」

 櫻子、というのはおばあちゃまの名前だ。あれ、でも前におばあちゃまから聞いたときには一子相伝て言ってなかったっけ?一子相伝て、一人だけに、っていう意味だよね?何故重光おじさまが知っているの?

「何故分家筋の私が御試食の事を知っているかというと」

 私の疑問は顔に出てしまっていたらしく、その疑問に答えるかたちで重光おじさまの話は続いた。

「本家筋の男子が幼いうちに亡くなることが続いたことがあって、まあ多分遺伝的な何かが桐谷の家にはあるんだと思うが、その時代の当主が、前橋の分家にも御試食が勤まるよう、やはり長子にのみ伝えていくよう手配していた。これは本家の跡取りだけが知っているが他言無用。聖ももう跡取りだから伝えるが、他には漏らさないように」

 「前橋の桐谷は、聞いているだろうが私の代の男兄弟は跡を継ぐ前に皆死んでしまって、傍系の私が継ぐことになったし、櫻子さんも男子のご兄弟が皆さん戦死されて急遽跡取りになったりで、家の葬祭事なんかでよく話をするうちに、境遇が似ていたんでお互いの御試食の知恵のすり合わせをすようになったんだよ」

「私は大学では薬学を学んだのだが、櫻子さんは女学校で栄養学など料理に関して学ばれていて、独学で漢方にも精通していらした」

「男子であれば医学を学びたかったと仰るようにとても賢い方だった。時代がもう少し後であれば、櫻子さんの望み通り医学を学ばれたのだと思う。前橋と東京で離れてはいたが、櫻子さんと御試食の知恵について話すのは私にとっても喜びだった」

「そして、聖、君にもその櫻子さんの素質が受け継がれていると聞いているよ。今回、葬式の手配のなかで君の振る舞いを見ていたが、確かに櫻子さんを受け継いでいると思った。試すような形になってしまって申し訳ないが、このまま東京に帰るより、私の元で御試食の知恵を継いで欲しい。私の子供は、田舎の跡取りになることを嫌って、御試食の話をする前にアメリカの大学に行って、アメリカで医者になって帰ってこなくてね。私としても、旧来の跡取りや知恵の継承は、もうそろそろおしまいでもよいかと思い始めたところだったんだが」

「君を見つけてしまった。櫻子さんの無念もわかる」

「一度考えてみてくれないか。櫻子さんの希望でもあるしね」

 おばあちゃまの希望、というところで私の心臓がピクっと反応した。おばあちゃまが病院に運ばれた後。すぐに気管切開されて、声が出せなくなってしまっていた。毎日お見舞いに行ったけど、おばあちゃまとはとうとう最後まで会話をすることが出来なかった。何かを私に伝えたがっていたのは、私を見る瞳の色でわかったけど、応えることができなかった。

 一緒に暮らす私が、もっと早く、おばあちゃまの病気に気がついていれば。武光おじさまが来た後、寝込んだりしていなければ。もっと、もっと…

 おばあちゃまのことを思い出すと、目の端に涙が盛り上がってくる。泣いていると思われないように下を向いて、重光おじさまの言葉をなぞる。

「おばあちゃまの希望」

「うん、年末に料理の材料の電話を受けたときに、そう頼まれたんだよ。もし、自分が間に合わなかったら、跡取りとしての教育を頼みたい、と。その時には、櫻子さんが病気とは知らなくてね…」

「わかりました。おばあちゃまの希望なら、是非お願いします。おばあちゃまから跡取りの話は聞いてました。私がぼやぼやしてたから、おばあちゃまの時間がなくなってしまって…後悔してるんです。至りませんが、宜しくお願いします」

 こうして、私は御試食の修行を始めることになったのだった。