芹那から連絡があったのは、最後に会ってから一週間後のことだった。ふらりと立ち寄ったユニック車に、どうしても会いたいというメモが残されていた。

 指定された時間は、きっかり午前三時だった。翌日、なぜか浮き足立っている自分に戸惑いつつユニック車へ向かった。久しぶりに見る芹那の姿に頬が緩むのを感じながら運転席のドアを開ける。芹那は黒いリュックを胸に抱いて座席に深く座っていた。


「秋人、久しぶり」


 俺が車に乗ると、芹那は力のない笑みを向けてきた。疲れきった表情は、コンテストをやりきったようにも見えたが、どこか悲壮感が滲んでいるようにも見えた。


「ねえ、ちょっと散歩しない?」


 久しぶりの再会に調子が戻らない俺をよそに、芹那は勝手に車から降りると、裏手にある山を目指して歩き出した。

 そんな芹那にかける言葉も見つからないまま、俺は黙って芹那の後ろを歩いた。作品の出来はどうだったか、手応えはあったのかなど、聞きたいことは山ほどあった。だが、芹那の有無を言わせないようなオーラを背中から感じ、結局何も話すことなく山のふもとへたどり着いた。


「ねえ、秋人」


 山へと入る小道の前で立ち止まった芹那が、はっきりと泣いているとわかるほどの震えた声を漏らした。


「私、何か悪いことした?」


 振り返った芹那は、予想通りに涙を浮かべていた。だが、その涙の量は予想外だった。苦悶に満ちた表情で赤く腫らした瞳からは、何度拭っても尽きないほどの涙が溢れていた。


「どうしたんだ?」


 何があったのか見当もつかなかったが、芹那が無言でリュックから取り出した物を地面に投げつけたのを見て、俺は全てを理解した。

 地面に転がっているのは、数本の折れた絵筆と引き裂かれた絵だった。ぼんやりと照らす月明かりの下でも、その絵が芹那のコンクールに出す為に懸命に取り組んでいたものだとすぐにわかった。

 芹那に嫌がらせをしていた連中の悪意に満ちた卑しい笑みが脳裏に浮かび、俺は言い様のない苛立ちに全身が包まれていった。


「秋人、私、もう駄目かも」


 崩れるようにしゃがんだ芹那が、悲痛な声を漏らした。


「駄目って、どういう意味だ?」

「私、今までずっと我慢して生きてきたけど、これはあんまりだよ」


 顔を両手でふさぎ、崩れるように顔を伏せた芹那が、初めて弱気と取れるかすれた声を上げた。もちろん、俺は事情を知らないことになっているから、深くは追及することができなかった。


「私、このコンクールに全てをかけてたんだよ。なのに、なのに――」


 芹那の悲鳴は、やがて嗚咽に変わって俺の胸に突き刺さってきた。隣で何度も絵に対する情熱を語る芹那を見てきただけに、この仕打ちに芹那がひどく傷ついているのは痛いほどわかった。


「秋人、私もう駄目かも」

「何がだ?」

「絵の世界で頑張ろうって思ったけど、もう無理かも」

「無理かもって、そんな簡単に諦めるのか? 大学受験はまだ可能性があるだろ?」

「何よ、秋人だって諦めてるくせに!」


 慰めに入ろうとした俺を、芹那の鋭い瞳が睨んできた。


「秋人だって、泥棒をやめるのを諦めてるくせに、勝手なことを言わないでよ!」


 両膝の中に顔を埋めた芹那が発した言葉に、俺は両手を握りしめて耐えるしかなかった。


「何とかなるさ。人生はそういうもんだ」


 そう口にするだけで精一杯だった。脳裏に、人生はミステリーだという言葉が不意にわいてきた。

 確かにその通りだった。人生は謎に満ちて、不可解なことばかりが起きてしまう。しかも、どういうわけか芹那のような弱い立場の人間にばかり不幸が起きるのだから、人生がミステリーだとしたら、その問いに対する答えはクソだとしか言えなかった。

 結局、慰めの言葉をかけることもできず、たた黙って芹那の肩をさすり続けることしかできなかった。

 芹那に何もしてやれない自分の弱さと情けなさに、俺は自分が打ちのめされていることをはっきりと感じていた。


 ○ ○ ○


 芹那と別れた後、俺は町に出て裏の情報屋のもとを訪れた。芹那から教えてもらった情報をもとに、嫌がらせをする連中のリーダーの家を割り出した。

 リーダーの家の下見を終えてマンションに戻り、畑山に誘いを受けると返答した後は、ひたすら部屋にとじ込もって夜が来るのを待った。

 いつものように加奈子の介抱を終え、ベランダに出て雨雲が広がる夜空を見上げると、沸き上がる怒りを抑えるように煙草に火をつけた。

 水曜日の夜。天気は雨。泥棒日和だ。水曜日はなぜか泥棒が多い。雨となると、泥棒の音を雨音が消してくれることもあって急増する。

 目だし帽と折り畳みナイフをポケットにねじ込み、苛立ちを吐き捨てるように紫煙を長く吐き出しながら腕時計に目を落とした。

 時計が午前二時を示していた。

 泥棒の怖さを、教えてやる時間だった。