芹那と会うのは週に数回程度だった。毎日仕事に行くわけではないから、すれ違うこともある。仕事に出ても、芹那が来ない日もあった。
そんな時、芹那はメモをユニック車の助手席に隠していた。内容は、単に『馬鹿』とだけ書かれていることが多かった。
最初は戸惑ったが、次第に芹那の薄い尖った文字に笑うようになった。会えばどうでもいい話ばかりだが、それすらなぜか楽しいと感じ始めていた。
霧雨がフロントガラスに張り付くのを見つめながら、惰性でタバコに火をつける。芹那はタバコの煙を嫌がっていたが、今は横目で睨むだけで文句を言うことはなくなった。
「ねえ、秋人はなんで泥棒なんかやってるの?」
ルームミラーで跳ねた髪を撫でながら、相変わらず正体不明の芹那が唐突に尋ねてきた。
「なんでだろうな」
「答えになってないんだけど」
むくれる芹那に笑いながら、窓を少しだけ開けて霧雨に滲む外灯に視線を移す。この建設会社は、山を背にした町外れにある。それでも、道路には僅かな外灯が寝静まった町へと続いていた。
「泥棒でしかいられなくなったからかな」
紫煙を窓の外に吐き、芹那とは目を合わせないように答えた。自分のことを誰かに話すことはほとんどない。同居している加奈子にさえ、泥棒だということ以外は身の上話をしたことはなかった。
いつからかはわからないが、俺は人と話をする時に目を合わせるのが辛くなった。どうでもいい話や嘘をつく時には問題ないが、直接自分に関わることになると、どうしても相手の視線が気になって仕方がなかった。
「なんで? 嫌だったらやめて違う仕事をすればいいじゃん」
「それができれば苦労はしないさ」
刑務所で何度も聞かされた言葉を、まさか芹那から聞かされるとは思わなかった。反射的に苦笑した俺は、吸いかけのタバコを空き缶に捨てた。
「窃盗の再犯率がどのくらいか知っているか?」
俺の問いかけに、芹那は腕を組んで首を傾げた。
「二十五パーセントだ。だが、この数字にはからくりがある。二十五パーセントというと低いように聞こえるが、実際はその先が重要だ。二十五パーセント、つまり、四人に一人が再び窃盗に手を染めることになる。そして、再び手を染めた奴の再犯率は――」
そこで言葉を区切り、今日初めて芹那と目を合わせた。
「九十九パーセントになる。つまり、二度目の逮捕の後に待っているのは、抜け出したくても抜けられない泥棒人生ということだ」
俺の言葉に、芹那が勝ち気な瞳を丸くして押し黙った。かなり誇張はしているが、泥棒の実態としては的外れではないだろう。
窃盗の怖いところは、手の染めやすさと常習性の高さ、何よりも社会復帰の難しさにある。
それは、一般的に薬物常習者と同じで、適切な治療を受けなければ解決することはできない。その上、窃盗に対する社会の目も厳しく、履歴書に不自然な空白があれば雇ってくれる会社はまずありえない。まして、泥棒の前科があるとわかれば追い出されるのが現実だ。
そんな世界で、まともに生きることを望むのは辛いものがある。なんとかしたくても、なんともできないのが泥棒の世界だ。
だから、仕方なく再び窃盗に手を染める。後は捕まるまでの繰り返し。永遠に出口の見えない世界をさ迷うのが、俺の人生ともいえた。
「誰も、こんな人生を望んで生きてるわけじゃない。気がつくと貼られたレッテルを剥がすこともできず、ただ目をそむけることしかできなくなるんだ」
「でも、それって単に逃げてるだけじゃん」
俺の話を聞き終えた芹那は、唇を尖らせて真っ直ぐに睨んできた。
「本当は、変わりたくないんじゃないの?」
芹那の意外な言葉に、二本目のタバコに伸ばした手が止まった。
「泥棒でいることが気楽だから、そのまんまでいるようにしか聞こえないんだけど。本当になんとかしたいと思うなら、足掻いてみるはずよ。でも、そうしないのは、泥棒でいることに満足しているからじゃないの?」
やけに力強い言葉に、返す言葉が出なかった。ガキに何がわかると言ってやりたかったが、急に伏し目がちになった瞳が気になって言葉を飲み込んだ。
「私は、なんとか足掻いているんだよ」
ぽつりと漏れた芹那の言葉。その端から感じたのは、芹那が背負う訳ありの影だった。
「お前は、なぜ深夜徘徊なんかしているんだ? 見たところ未成年にも見えるが、普段は何をしているんだ?」
無視してもよかった。だが、痛い所を突かれたことで動揺したせいか、普段は他人のことなど気にしないことも忘れて、芹那のプライベートな部分に触れてみた。
「何をしているかは内緒だね。夜をさ迷ってるのは、朝が来るのが怖いからかな」
寂しさを滲ませた笑顔で、芹那が弱く呟いた。とはいえ、その理由は口にすることはなかった。僅かに窓の外に向けた芹那の横顔に、触れて欲しくない陰が見えた。
「眠っていても、夜中に突然目が覚めてしまうの。また朝がきて一日が始まるんだって思ったら怖くなって、夜の町をさ迷ってみたの。そしたらね、誰もいない世界はとても新鮮だった。まるで、私一人が世界を独り占めしたみたいな気分になって、嫌なことから逃げることができたの」
芹那は力なく笑っていた。その顔に、何故か呼吸が苦しくなった。
「辛いのか?」
「別に。私ね、小さい頃から勉強もスポーツも駄目だったけど、絵だけはずっと褒められているんだ。だから、今は絵の世界で勝負する為に頑張ってるの。そして、いつか必ず成功させて、私を馬鹿にした奴らを見返してやるんだから」
さっきは怖いと言ってたくせに、芹那は急に目を輝かせて力説した。ただ、それは芹那の精一杯の強がりだとわかったから、俺は何も言わずに頷いてやった。
「だから、秋人も泥棒なんかやめてちゃんとした人生を送ったらいいじゃん」
生意気そうに再び話題をほじくり返してきた芹那に、俺は苦笑しながらわかったとだけ伝えた。
「でもさ、秋人って変だよね?」
「何が?」
「手を出してこないから変だなと思って。夜中にこんなかわいい子と二人でいるんだよ? 手を出すのが普通じゃない?」
まさかの角度からの攻撃に、驚いて煙草を落としそうになった。意味を確認しようとして芹那の顔を見て、なぜか息が止まってしまった。
あどけなさの残る顔。だが、月光に照らされた瞳には、抗えないような魅力を感じた。
「真夜中に女の子といるんだよ。大人の考えることは同じでしょ?」
「全ての大人がそうだと限らない」
不自然なほど高鳴っていく鼓動に戸惑いながら、俺は必死で平静さを装った。
「秋人、変わってるね」
「お前もな」
気のきいた返事もできなかった。心音が無音の闇に響き続ける中、甘い香りを漂わせた芹那が俺の肩にのってきた。
「秋人なら、泥棒をやめられるよ」
芹那の言動に抗うこともできず、霧に滲む外灯を眺めながら震える手で煙草に火をつける。
人を温かいと感じたのは、久しぶりのことだった。
そんな時、芹那はメモをユニック車の助手席に隠していた。内容は、単に『馬鹿』とだけ書かれていることが多かった。
最初は戸惑ったが、次第に芹那の薄い尖った文字に笑うようになった。会えばどうでもいい話ばかりだが、それすらなぜか楽しいと感じ始めていた。
霧雨がフロントガラスに張り付くのを見つめながら、惰性でタバコに火をつける。芹那はタバコの煙を嫌がっていたが、今は横目で睨むだけで文句を言うことはなくなった。
「ねえ、秋人はなんで泥棒なんかやってるの?」
ルームミラーで跳ねた髪を撫でながら、相変わらず正体不明の芹那が唐突に尋ねてきた。
「なんでだろうな」
「答えになってないんだけど」
むくれる芹那に笑いながら、窓を少しだけ開けて霧雨に滲む外灯に視線を移す。この建設会社は、山を背にした町外れにある。それでも、道路には僅かな外灯が寝静まった町へと続いていた。
「泥棒でしかいられなくなったからかな」
紫煙を窓の外に吐き、芹那とは目を合わせないように答えた。自分のことを誰かに話すことはほとんどない。同居している加奈子にさえ、泥棒だということ以外は身の上話をしたことはなかった。
いつからかはわからないが、俺は人と話をする時に目を合わせるのが辛くなった。どうでもいい話や嘘をつく時には問題ないが、直接自分に関わることになると、どうしても相手の視線が気になって仕方がなかった。
「なんで? 嫌だったらやめて違う仕事をすればいいじゃん」
「それができれば苦労はしないさ」
刑務所で何度も聞かされた言葉を、まさか芹那から聞かされるとは思わなかった。反射的に苦笑した俺は、吸いかけのタバコを空き缶に捨てた。
「窃盗の再犯率がどのくらいか知っているか?」
俺の問いかけに、芹那は腕を組んで首を傾げた。
「二十五パーセントだ。だが、この数字にはからくりがある。二十五パーセントというと低いように聞こえるが、実際はその先が重要だ。二十五パーセント、つまり、四人に一人が再び窃盗に手を染めることになる。そして、再び手を染めた奴の再犯率は――」
そこで言葉を区切り、今日初めて芹那と目を合わせた。
「九十九パーセントになる。つまり、二度目の逮捕の後に待っているのは、抜け出したくても抜けられない泥棒人生ということだ」
俺の言葉に、芹那が勝ち気な瞳を丸くして押し黙った。かなり誇張はしているが、泥棒の実態としては的外れではないだろう。
窃盗の怖いところは、手の染めやすさと常習性の高さ、何よりも社会復帰の難しさにある。
それは、一般的に薬物常習者と同じで、適切な治療を受けなければ解決することはできない。その上、窃盗に対する社会の目も厳しく、履歴書に不自然な空白があれば雇ってくれる会社はまずありえない。まして、泥棒の前科があるとわかれば追い出されるのが現実だ。
そんな世界で、まともに生きることを望むのは辛いものがある。なんとかしたくても、なんともできないのが泥棒の世界だ。
だから、仕方なく再び窃盗に手を染める。後は捕まるまでの繰り返し。永遠に出口の見えない世界をさ迷うのが、俺の人生ともいえた。
「誰も、こんな人生を望んで生きてるわけじゃない。気がつくと貼られたレッテルを剥がすこともできず、ただ目をそむけることしかできなくなるんだ」
「でも、それって単に逃げてるだけじゃん」
俺の話を聞き終えた芹那は、唇を尖らせて真っ直ぐに睨んできた。
「本当は、変わりたくないんじゃないの?」
芹那の意外な言葉に、二本目のタバコに伸ばした手が止まった。
「泥棒でいることが気楽だから、そのまんまでいるようにしか聞こえないんだけど。本当になんとかしたいと思うなら、足掻いてみるはずよ。でも、そうしないのは、泥棒でいることに満足しているからじゃないの?」
やけに力強い言葉に、返す言葉が出なかった。ガキに何がわかると言ってやりたかったが、急に伏し目がちになった瞳が気になって言葉を飲み込んだ。
「私は、なんとか足掻いているんだよ」
ぽつりと漏れた芹那の言葉。その端から感じたのは、芹那が背負う訳ありの影だった。
「お前は、なぜ深夜徘徊なんかしているんだ? 見たところ未成年にも見えるが、普段は何をしているんだ?」
無視してもよかった。だが、痛い所を突かれたことで動揺したせいか、普段は他人のことなど気にしないことも忘れて、芹那のプライベートな部分に触れてみた。
「何をしているかは内緒だね。夜をさ迷ってるのは、朝が来るのが怖いからかな」
寂しさを滲ませた笑顔で、芹那が弱く呟いた。とはいえ、その理由は口にすることはなかった。僅かに窓の外に向けた芹那の横顔に、触れて欲しくない陰が見えた。
「眠っていても、夜中に突然目が覚めてしまうの。また朝がきて一日が始まるんだって思ったら怖くなって、夜の町をさ迷ってみたの。そしたらね、誰もいない世界はとても新鮮だった。まるで、私一人が世界を独り占めしたみたいな気分になって、嫌なことから逃げることができたの」
芹那は力なく笑っていた。その顔に、何故か呼吸が苦しくなった。
「辛いのか?」
「別に。私ね、小さい頃から勉強もスポーツも駄目だったけど、絵だけはずっと褒められているんだ。だから、今は絵の世界で勝負する為に頑張ってるの。そして、いつか必ず成功させて、私を馬鹿にした奴らを見返してやるんだから」
さっきは怖いと言ってたくせに、芹那は急に目を輝かせて力説した。ただ、それは芹那の精一杯の強がりだとわかったから、俺は何も言わずに頷いてやった。
「だから、秋人も泥棒なんかやめてちゃんとした人生を送ったらいいじゃん」
生意気そうに再び話題をほじくり返してきた芹那に、俺は苦笑しながらわかったとだけ伝えた。
「でもさ、秋人って変だよね?」
「何が?」
「手を出してこないから変だなと思って。夜中にこんなかわいい子と二人でいるんだよ? 手を出すのが普通じゃない?」
まさかの角度からの攻撃に、驚いて煙草を落としそうになった。意味を確認しようとして芹那の顔を見て、なぜか息が止まってしまった。
あどけなさの残る顔。だが、月光に照らされた瞳には、抗えないような魅力を感じた。
「真夜中に女の子といるんだよ。大人の考えることは同じでしょ?」
「全ての大人がそうだと限らない」
不自然なほど高鳴っていく鼓動に戸惑いながら、俺は必死で平静さを装った。
「秋人、変わってるね」
「お前もな」
気のきいた返事もできなかった。心音が無音の闇に響き続ける中、甘い香りを漂わせた芹那が俺の肩にのってきた。
「秋人なら、泥棒をやめられるよ」
芹那の言動に抗うこともできず、霧に滲む外灯を眺めながら震える手で煙草に火をつける。
人を温かいと感じたのは、久しぶりのことだった。