体が弱いのは、過去の私のはずだった。発作で倒れて救急車で運ばれたのも、過去の私のはずだった。6年生の私は、ちゃんと手術を終えて、お医者さんにももう大丈夫って太鼓判を押されていたはずだった。それなのに……。
あの頃の気持ちを思い出してしまった私は、ジャージに忍ばせていたハリネズミのストラップをぎゅっと握る。大丈夫、もう大丈夫だ、と頭の中で繰り返しながら。
「あれ? 荘原。まだいた」
ひょいっと、倉庫のドアから顔を出したのは、政本君だった。私は飛び上がるほど驚いて、
「びっくりしたー……」
と言いながら、ストラップをジャージのポケットに戻す。
「悪い悪い、帰ろうとしたらボールが一個転がってたから持ってきただけ」
「あ、ごめん。気付かなかった」
私はボールを受け取り、かごに片付ける。すると、すぐに倉庫から出たと思った政本君が、「あ」と言って、戸当たりからまた顔を出して言った。
「リストバンド、ありがとな」
「ハハ、もう聞いたよ」
「荘原の念が入ってるだろ? 今日いつもより調子よかったから」
嬉しい言葉に、ちょっと顔が熱くなる。倉庫が薄暗くてよかった。
私は、「それはなにより」なんて面白くない返しをして、髪を整えながら笑って見せる。
「じゃーな。おつかれ」
「うん、おつかれさまー」
ここ最近、立て続けに政本君と話している気がする。そのことに浮かれている自分と、根津さんのことを考えて後ろめたい自分とが交互に顔を出す。
好きイコール付き合えるというわけではないのに、ただ好意があるだけで罪を犯しているような気持ちになるのはなんでだろう。本当の気持ちを北見さんにも根津さんにも言えなかったのはなんでだろう。
『だから、堅苦しいんだ』
九条先輩の言葉がまた聞こえて、私はわずかに下唇を噛んだ。
「おつかれー、荘原」
翌日の放課後は、政本君のほうが先だった。私は、部室前に立っていた政本君に
「早いね。火曜と金曜は」
と笑い、鍵を開ける。すると、政本君も、
「ひとり占めできる時間が欲しいからな」
と言って、ちょっと得意げに口角を上げた。
「付き合ってんの? キミら」
すると、後ろのほうから男の人の声が聞こえた。ふたりで振り返ると、ジャージに黒いTシャツ姿の九条先輩が、首を回しながら立っていた。そのまた背後には、藍川先生もいる。
「違いますよ。あえて言うなら、九条先輩に片想い中です」
咄嗟に政本君が冗談を言うと、九条先輩は「げ」と眉を寄せる。
「九条先輩のバスケに、です」
笑いながら言い直す政本君は、着替えるために部室へ入っていった。その横を通り、九条先輩と藍川先生は、体育館へと続く短い階段をのぼる。藍川先生は私よりも小さいから、長身の九条先輩と並ぶと、どちらが先生かわからない。
藍川先生に、
「今日は早いですね」
と言うと、
「あぁ、最終コマ授業が入っていなかったから、仕事が粗方終わってて。そんで敦……九条が見えたから呼び止めて話してたんだ」
と微笑んだ。
先生も政本君と同じで、九条先輩と会えるのが楽しみなのだろうか。それに……もしかして今、“敦也”って呼ぼうとした? 先輩のこと。先輩が高校生のときには気付かなかったけれど、前からこんなに仲が良かったのかな。
「九条、さっきの話の続きだけど、本、貸そうか?」
「あー、いい? ……いいっすか?」
親しげに話しながら体育館に入っていくふたり。なんの話をしているのかはわからないけれど、先生にタメ口をききそうになっている先輩。
私には堅苦しいと言ったけれど、逆に先輩は、ちょっと礼儀やデリカシーに欠けていやしないだろうか。
この前言われたことを思い出して、私だけが口をへの字に曲げて九条先輩の背中を見た。けれど、先輩は気付きもしないし、きっとそんなことすら忘れている。そういう人なんだ。
部活が終わり、バス停に着くと、九条先輩の姿はなかった。先輩のほうが先に出たはずなのにいないってことは、どこかに寄っているのだろうか。
「……よいしょ」
普段は言わないのに、なんとなくそう言ってベンチの端に腰を下ろす。ちょっと拍子抜けだ。堅苦しいと2回も言われたから、今日は挑むような気持ちでここに向かってきたのに。
それにしても……やっぱりすごいな、先輩は。
今日も、男女問わず部員ひとりひとりの痛いところを的確に突いてアドバイスしていた。私がずっと気になっていたことを短時間で見抜いて注意して、そして見本となるプレーを見せる。それも、怪我をしていることを気取らせない鮮やかさで。
あぁいうのを見せられると、こちらもウズウズしてくる。私もバスケをしたい、とさえ思わせられる。
「……ずるいなぁ」
ふてぶてしくても、光るセンスをひとつ持っているだけで、それがチャラになるような感じ。私には、なにもないから……。
ネガティブに飲みこまれそうになり、私はパッと顔を上げる。すると、薄暗さの中、信号で停まっている軽乗用車が見えた。見覚えのあるその車は、たしか藍川先生の車だ。
私は目の前を通り過ぎるときに目が合ったら会釈をしようと、信号が青に変わって発進したその車を目で追う。けれど、近くまできてやはり藍川先生が運転していると気付いたはいいものの、その助手席の人影に目を疑った。
九条先輩だったからだ。
「あれ? 藍川先生、男と帰ってる」
「え? うわ、マジじゃん! ていうか、あの人、うちらが1年のときに3年だった先輩じゃない?」
同時に近付いてきたのは、歩道をこちらの方へ歩いてくる女子生徒ふたりの声。
「あ、ホントだ。見覚えある気がする。なんか、仲良く笑い合ってて恋人同士みたいじゃなかった?」
「元教え子と? うわー、やるね、藍川先生」
「写真撮ればよかったー。みんなに共有したいわー、この情報」
ふたりは私と同じ車を見ていたらしく、そんな話に花を咲かせながら目の前を通り過ぎていく。
「…………」
“違います、彼は今OBとしてバスケ部に指導に来てくれていて、先生とは顧問とコーチの間柄なんです”
私は、友達でもなんでもないその同学年の生徒たちに、心の中で説明した。けれど、私自身彼女たちと同じような印象を持ってしまったことも事実だった。
だって、見間違いじゃなければ、信号待ちのときに、九条先輩が藍川先生の頭をポンポンと撫でていたからだ。
「……えー……」
彼女たちの声が聞こえなくなってから、私は思いきり狼狽えた声を出した。
信じられない。……けど、なんか頷けてしまう。
そう思ってしまった私は、眉間をぎゅっとつまんでうつむいたのだった。
3日後の金曜日、私は部活中の九条先輩を目で追って観察していた。指導の合間に藍川先生と話をしている様子をじっと見ては、九条先輩と目が合いそうになってパッと逸らす。
それが2、3回続いたからだろう、部活が終わってバス停に着くと、今日はベンチの定位置に座っていた九条先輩が、
「マネージャー、俺のこと好きなの?」
と聞いてきた。
「いえ、違います。全然」
「あそ。全然、ね」
私も定位置の端っこに座る。そして、部活中の藍川先生と九条先輩の様子を思い出し、考察してみた。
藍川先生は男勝りでサバサバしているから、男子生徒にも友達みたいに接する。その延長で、OBである九条先輩へも冗談を言ったり小突いたりするのは頷ける。
けれど、九条先輩は、私の記憶が正しければ女の人に気軽に触れるようなタイプじゃない。どちらかというと、女子を寄せ付けないようなオーラがあり、そういうノリを邪魔くさく思っているような印象がある。
それなのに、小突かれて小突き返したり、小さいながらもスキンシップが多かったりと、他の人よりも藍川先生との距離が近かったような気がした。それに、ふとしたときに藍川先生へ送る視線が、優しく感じられたんだ。
先輩が高3のときに藍川先生にどう接していたのかは覚えていないけれど、もしかしたら先輩は……いや、先生と先輩は、やっぱり……。
あくびをしている九条先輩へ疑いの視線を送りつつ、私はおそるおそる口を開く。
「先輩……彼女いますか?」
その質問に怪訝そうな顔で沈黙した先輩に気付き、
「あ! 違います。先輩のこと、本当に好きではないので」
と説明する。それを聞いて、もっと眉間にシワを寄せる先輩。
「それはわかったけど……でも、何? 何か言いたいことあるの? あんた、今日様子がおかしい気がする」
「いえ……べつに」
「じゃあ、なんで俺に彼女いるかどうか気になるの?」
私は口を真一文字にしたまま止まってしまった。もう、ここは正直に聞いてみたほうがいいのかもしれない。
「……えー……と、昨日、藍川先生と車で一緒に帰るのを見まして」
ちらりと窺うように先輩を見ると、彼はさほど動じてはいない様子だ。先輩は、そんな読めない表情のままで口を開く。
「送ってくれるって言うから甘えただけだけど。べつにもう生徒じゃないわけだし」
「はい、それはわかっているんですけど、なんかそれを見た女子生徒が“あのふたり付き合ってるんじゃない?”みたいな話をして盛り上がってて」
「…………」
「その子たち、けっこうスピーカー女子だし、みんなに広めたい的なことを言ってたから、ほっといたら噂が広まりそうだな、と思って……」
再度九条先輩を見ると、腕組みをしてベンチに背を預けながら、ちょっと気難しい表情になっていた。もしかしたら図星で、機嫌を損ねてしまったのかもしれない。
「あ! でも、女子高生の噂なんてパッと出てパッと収まると思うし、大丈夫だと思います。もし、本当だったとしても、先輩はもう卒業生なんだし問題な――」
「全然大丈夫じゃないし、問題大有りだろ」
私の声を断つように、九条先輩は語気を強めた。ビクッとしてしまった私は、膝の上のバッグの持ち手をぎゅっと握る。
「だって、俺はまだ19で未成年だし、そうでなくても、そんな噂が職員内でも広がって、先生が卒業生に手を出したなんて言われ方したら、千早(ちはや)の印象が悪くなる」
「ち……はや?」
たしか、先生の名前は……藍川千早だった。下の名前を呼び捨てということは、やっぱり……。
「先輩、やっぱり藍川先生と付き合ってるんですか?」
「いや、ただ昔からの知り合いってだけ」
「え?」
「この前言った、俺にバスケを教えた、5歳上の近所のねーちゃん」
「ええっ! そうなんですかっ?」
驚いた私は、思いのほか大きな声を出してしまって慌てて口を押さえる。
「……しまったな。昨日は千早が残業もなくて、スポーツ医学の本を貸すから乗っていけって言って……お互い何も考えず……」
ぶつぶつ言っている先輩を見て、なるほどと納得する。距離が近かったのもそのせいだったのか。こんなに先生のことを心配しているなんて、本当に特別な間柄なのだろう。
「あの、私、その子たちに誤解だって説明しましょうか?」
「わざわざ“違う”って言いに行くのは、逆に不自然な気がする」
「……まぁ、たしかに」
「それに、もう噂が広まっていてもおかしくないし」
「……うーん……」
正直言ってそこまで深刻になるほどのことかな、と思っていたけれど、先輩の真剣な顔を見ていると、こちらにも心配が伝染してくる。やはりあのとき、現場にいた私があの子たちにちゃんと説明すべきだったと責任を感じてしまうほどだ。
「あ」
反省していると、九条先輩が私を見て声を出した。じっと見つめられたまま数秒経ち、私は、
「……なんですか?」
と尋ねる。
「噂には噂で対抗するのが一番かと思うんだけど」
「……はい?」
つまり、どういうことですか? そう聞くよりも早く、九条先輩が言った。
「俺の彼女になってくれる?」
翌日の土曜日、家のソファーに沈みこむように座りながら、私は天井を見ていた。
“彼女”……。
昨日先輩に言われた言葉を頭の中で繰り返しては、「うーん……」と唸る。私と付き合っているという噂が広まれば、藍川先生との噂が薄れて、いずれ消滅するだろうという算段らしい。
そもそも藍川先生との噂が広まっているのかどうかさえ確かじゃないけれど、自分が先輩にそう発言したのが引き金だから始末が悪い。先輩は藍川先生を守るために、すでに臨戦態勢だ。
『ただの疑似交際だし、そんなに構えなくていいから』
先輩はそう言った。けれど、私がなかなか首を縦に振らないままバスが来てしまって、
『とりあえず、来週火曜日までに覚悟を決めておいて』
と、引き受けること前提で言い渡されている。
「疑似交際って……」
実際、どういうことをすればいいのだろうか。そもそも交際経験のない私には、未知の世界だ。面倒なことになったなと、ため息がもれる。
「ただいまー」
そのとき、お母さんが買い物から帰ってきた。すると、ラグの上で寝ていた小型犬のモコがしっぽを振りながら出迎えに行く。
「おかえり」
「あら? 澪佳、モコの散歩に行くって言ってなかった?」
ダイニングテーブルにエコバッグを広げたお母さんが聞いてきた。土日の予定のない日は、私がモコの散歩を担当している。
「うん。今から行くよ」
立ち上がって伸びをした私に、
「最近、散歩中にモコがなぜか走りたがるのよね」
と、冷蔵庫に食材を入れながら言うお母さん。
「……へぇ、そうなんだ」
「澪佳、無理はしなくていいからね」
「わかってるよ」
互いに横顔同士で話し、私はモコの散歩の準備に取りかかった。
こういう会話をするときに、ふたりともなんとなくよそよそしいのには理由がある。過去……私が手術後に起こした、いくつかの発作のせいだ。
「じゃあ、行ってくる」
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
リードを握りながら外へ出た私は、さっきとはまた違うため息をついたのだった。
「ねぇ、荘原マネ、知ってる? 九条先輩と藍川先生の噂」
部活の休憩中、絆創膏を取りに来た北見さんに耳打ちされ、私は絶句する。今日は月曜日で部活に九条先輩は来ていないけれど、無意識に先輩の姿が近くにないか確認するほど動揺してしまった。
「な、なに……? どういう噂?」
「なんかね、ふたり、付き合ってるらしいよ。九条先輩が高2のときに藍川先生から手を出して、大人の関係が始まったんだって。本当かな?」
北見さんは、わざとらしく藍川先生へちらりと視線をやった。リングの下にいる先生は、男バスの数人と話をしている。その無邪気で楽しそうな様子からは、“手を出す”だの“大人の関係”だの、まったく似つかわしくない。
私は尾ひれの付きまくっているその噂に、額を押さえてうなだれるほかなかった。今、北見さんにだけ“それは違う”と説明することにどれだけの意味があるのだろう。というか、私が説明する信憑性自体も薄い気がする。
と、そのとき。
「荘原、はい!」
反対方向から、なにか冷たいものを頬に押し当てられる。見ると、政本君がレモンティーの缶ジュースを持っていた。
「リストバンドのお礼」
そう言って私に手渡した彼は、爽やかに去っていく。
「…………」
一瞬、ポーッとして彼の後ろ姿を見つめてしまっていた。だって、本当に嬉しかったからだ。
「なんか、青春て感じ……」
けれど、すぐ横でそう呟いた北見さんの言葉にハッと我に返った。べつに非難されたわけじゃないのに、責められたような気持ちになる。そして、ちらりと根津さんを確認し、こちらを見られていなかったことに安堵した。
だから、なんで私がこんな申し訳ない気持ちにならなきゃいけないんだ。
「なんていうか、政本って罪作りなヤツだよね。真梨香もああいう優しいところにコロッていったみたいだし」
「え? あ、あぁ……ハハ」
「荘原マネもあんなことされたら、好きになっちゃうじゃんね?」
……なんだろう。もしかして北見さんも政本君のことが好きなんじゃないかと疑ってしまいそうな牽制だ。悪気はないのだろうけど、好きになるなと言われているみたいで動悸が激しくなる。
「な、ならないよ。なるわけない。ほら、私、他に好きな人がいるし」
「そっか、そうだったよね」
「そうだよ、ハハ」
私は、ここ最近で一番の作り笑顔をしていた。頬が引きつって、痛い。
「ていうか、いい加減誰なのか聞きたいなー。荘原マネって、秘密主義なの?」
「そういうわけじゃないけど……」
政本君だから、言えないというだけで。
「怪しいなぁ。言えない人ってことは……あ! もしかして、九条先輩と藍川先生みたいに、先生とできてたり……」
「北見さん」
押しの強い北見さんに、私は思わず口を開いて制止した。そして、自分でも驚くほど流暢に嘘をつく。
「実は、私の好きな人、九条先輩なの」
「……えっ?」
北見さんは、ぎょっとした。口走ってしまった私は、すでに乗りかかった舟だと、生唾を飲んで覚悟を決める。
「ていうか、九条先輩と付き合ってるのって、私なんだよね」
「展開、早……」
次の日、火曜日のバスの待ち時間。バス停に着いていつもどおりベンチの端っこに座った途端、先に座っていた九条先輩がぼそりと呟いた。組んだ足で頬杖をつきながらこちらを見ている先輩に、私は「ハハ……」と力なく笑う。
今日の帰り際、女バスの数人が九条先輩に何やら尋ねに行っているのが見えた。先輩のこのご様子を見るに、きっと、私と付き合っているのは本当なんですか、とかなんとか聞かれたのだろう。
「これは……“すみません”て言うところでしょうか?」
「……いや、ドウモアリガトウ」
めちゃくちゃ棒読みで不本意そうだ。そうだろう、もともと九条先輩は女子たちのそういうノリが嫌いっぽいからだ。でも、藍川先生のために疑似交際を始めたら、遅かれ早かれこうなっていた。だから、必死で女子高生のひやかしにも耐えたのだろう。
私だって、言ってしまった後で自分で自分に驚いた。でも、咄嗟に一石二鳥だって気付いてしまったんだ。これで、私は政本君のことは何とも思っていないと、北見さんにも根津さんにも証明できたはずだからだ。
目の前を、いつものように他の部活帰りの生徒たちが通り過ぎていく。それをぼんやり見送った先輩は、ちょっと考えるような仕草をして、
「こっち来れば?」
と言った。
「え? なんでですか?」
「付き合ってるなら、こんなに離れてるのおかしいから」
たしかに、人ふたり分離れているこの距離は、恋人同士としてはおかしい。でも、なぜ私が寄らなければいけないのだろうか。先輩が立ってこっちにくればいいのに。
「……はい」
でも、そんなことは言えない。いまだに先輩に対して恐れ多いという気持ちが抜けないからだ。
先輩の隣に座りなおした私は、もっとそれを意識することになった。背が高いということはもちろん、九条先輩独特のオーラというか圧を間近に感じるからだ。肩が触れそうな距離感に、怖さと恥ずかしさ二種類の緊張がないまぜになる。
「すぐに噂が広がってくれるとは思うけど、しばらくは交際しているていでいたほうがいいだろうし」
「……はい……いっ?」
ふいに手を握られて、私は背筋を伸ばした。私より少し体温の低いその大きな手は、私の手を覆うように包んでいる。突然のことに、そして初めてのことに、心臓が縮み上がった。
「ご協力ありがとう」
「……いえ」
こちらにも利があるんです。というのは、内緒にしておく。
「しばらくのお付き合い、よろしく」
「……はい。よろしくお願いします」
この密着度とは反比例する他人行儀。私は無意識に生唾を飲みこみ、やはり判断を早まったかもしれないと少し後悔した。
「おつかれ」
「おつかれさまです」
「はい、手」
「……はい」
火曜日と金曜日、バス停での会話の始まりはほぼこれになった。九条先輩の真横に座って、手をつないで話す15分間。
最初は挙動不審だったし、手汗やら肩が触れることやら気にしていたけれど、徐々に慣れはじめてきた。緊張は完全には解けないものの、会話も普通に続くようになったし、先輩の口数も増えてきたように思える。ほぼ、バスケ部の話なのだけれど。
ある日は……。
「女子バスケ部、人数やばくない?」
「去年は多かったんですけどね、ひとつ上の先輩たちが引退してからぎりぎりです。それに、この春、3年がひとり抜けちゃって」
「あとひとり欠けたら、試合出れないでしょ」
「はい。1、2年生を勧誘中です」
また、ある日は……。
「なんか、みんな同じリストバンドしはじめたけど、あれ部費で買ったの?」
「そうです」
「へー、俺にはないの?」
「いいですよ。500円くだされば」
「金取るんだ」
またまた、ある日は……。
「強化メニューを加えようと思うんだけど、見てくれる?」
「はい。うん……すごくいいと思います。テクニック磨きに偏ってる人が多いので、これでスタミナがつくはずです」
「あと、1年のゴール下の動きがまだ……」
「わかります! とくにこの場合の……」
部員ではなく、第3者目線であるコーチとマネージャーだからだろうか、私と九条先輩のバスケ話は、とりわけどうしたらチームがよりよくなるかという話題で盛り上がった。
「それでですね、今度の練習試合の日には……」