6
男たちはめいめいナイフや金属バットなどを持っていた。全員で五人。どの男も格好はチンピラ風だ。「モモセの兄貴の仇!」とか何かを喚きながら神須屋に殴りかかり、神須屋はそれを軽い身のこなしでかわしてカウンターに拳を叩き込む。
花彌子は床を這って乱闘から離れ、厨房の奥に逃げ込んだ。そこではウエイトレスが、店内の騒ぎを気にも留めずに雑誌を読んでいた。
「すみません、お会計を」
「伝票は?」
「ここに。あ、会計別で。ココアだけ精算お願いします」
ウエイトレスが伝票を受け取り、手を突き出す。そこにココア代だけを乗せた。
「あの、表の喧嘩なんですけど」
「良いのよ。ここで店を開く以上、よくあることだから」
「よ、よくある……?」
「アンタ、イロになるのは初めて? 見ときなさいよ。面白いから。ウフフ、男たちの殴り合い、飛び散る血、呻き声って最高よね」
「いや、私は……」
ウエイトレスに背中を押され、物陰から顔を出す。怒号、悲鳴、骨の折れる音。それらが最悪のハーモニーを奏でている。その中心にいる神須屋は、本当に楽しそうに笑っていた。返り血を浴びて、相手の顔面を殴りながら、三白眼を見開いて大口を開けて笑っている。床は死屍累々といった有様で、血みどろになった男たちが倒れ伏していた。どれも彼にやられたものだろう。五対一でよくやるものだ。花彌子の背中に冷たい汗が流れた。
やがて店内は静まり返り、立っているのは神須屋だけになった。彼はゆっくりと振り返ると、花彌子に向かって手を上げる。
「……会計済ませたか?」
「私の分は」
「出世できねえぞ。おらよ」
神須屋がしわくちゃになった一万円札を放り投げる。花彌子は慌ててそれを受け取り、ウエイトレスに渡した。
「釣りはいらねえ、暴れて悪かったな」
「良いものを見物できましたから。またのお越しをお待ちしております」
ウエイトレスはもはや恍惚とした表情で万札を握りしめている。それに目もくれず入り口へ向かう神須屋の背を、花彌子は慌てて追った。
「神須屋さん、さっきの人たちはなんですか? モモセの兄貴が何とかと言ってましたが」
「百瀬龍生っていうチンケな金貸しの子分だよ。女を寝盗ったとか何とかで百瀬が俺に絡んできやがったんで、こないだ始末したからそのせいだろ」
「始末……」
花彌子の脳裏に、昨夜のビルの光景が蘇る。コンクリートの上に転がった、歯。背筋に震えが走るのを、二の腕をさすることで誤魔化した。
「さっさと行くぞ」
先を歩く神須屋が振り返る。花彌子は小走りにその後を追った。
7
「神須屋、マジでこういうのはヤバいんだからな」
「感謝してますよぉ、お巡りさん?」
「何だこの空間……」
生徒会室。つい昨日までは窓辺に唯人の死体がぶら下がっていたが、既に運び出されて今は何もない。窓からはグラウンドがよく見える。どこかのクラスがマラソンをやっていた。
生徒会室の入口を塞ぐように、神須屋とスーツ姿の若い男が立っている。スーツの男は森本という名で、花彌子が死体を発見した際にメモを取っていた刑事だった。二人とも詳しく語らないが、森本は神須屋に逆らえないらしい。
窓を観察していた花彌子は、森本の方に体を向けた。
「森本さん、新情報はないんですか?」
「ええっと、玖条さんだっけ。そういうのは民間人には……」
「さっさと話せ」
神須屋に凄まれて、森本は肩をすぼめる。手帳を取り出してパラパラとめくった。
「……実は、自殺ではないんじゃないかって話が出てる」
花彌子と神須屋が身を乗り出す。二人の注目を受けて、森本は手帳に視線を落とした。
「索条痕が二重にあって……簡単に言うと、一度首を絞めた後に、縄に吊るしたようにも見えるという報告があがったんだ」
「決まりだな。唯人は殺されたんだ」
深く頷く神須屋を森本が制する。
「待ってくれ。これも百パーセントそうとは言えないんだ。それに遺書があるだろ? だから自殺だって言う説も根強い」
「その遺書を見せてもらえますか?」
花彌子の言葉に、森本が内ポケットに手を入れた。ビニール袋に包まれた紙片が手渡される。
何度読んでも内容は変わらない。文字は唯人のもので間違いない。破り取られた便箋に書かれたたった三行の言葉だ。便箋はどこにでも売っているような、白い紙面に薄い灰色の罫線が引いてあるものだ。
「ついでに、外場唯人くんの荷物がこれだよ。机の上に、遺書と並んで置かれていたんだ」
今度はリュックが手渡される。唯人がそれを背負っているのを、花彌子もクラスでよく見かけた。森本から渡された手袋をつけ、中身を確認する。教科書、ノート、ペンケース、文庫本、ポータブルプレイヤー、定期入れ、ティッシュが入っていた。
花彌子の手が止まる。
「どうかしたか?」
一緒にリュックを覗き込んでいた神須屋が、怪訝そうに彼女を見つめる。花彌子はハッと我に返った。
「ああいや……便箋がないと思って」
「便箋?」
神須屋が首を傾げる。花彌子は遺書を指差した。
「この遺書を書いた便箋です。破り取った残りがあっても良いじゃないですか」
「捨てたんじゃないか?」
「その可能性はありますが……」
考え込む花彌子の背に森本から声がかけられた。
「すまないけど、そろそろ時間だ」
「最後に一つだけ」
リュックの中身を眺めながら、花彌子は言った。
「スマホはどこにあるんですか?」
ああ、と森本はバツが悪そうに頭をかいた。
「実はご家族のもとに返しちゃったんだよ。思い出が詰まってるものだからって。一応こっちでも調べたけど、確かに玖条さんにメールを送っているのが確認できたから」
花彌子は神須屋を見上げる。神須屋は突然本棚に興味が湧いたように目をそらした。
8
「神須屋さん」
「ぜってえ嫌だ」
「まだ何も言ってないじゃないですか」
「予測できる。スマホが見たいとか言うんだろ」
「その通り。出世できる男は格が違いますね」
「ぶん殴るぞ」
神須屋が拳を固めたので花彌子は肩をすくめた。殴っても花彌子の意志は変わらない。神須屋に唯人の家族と連絡を取って、何とかスマホを見られるようにしてもらいたい。
夜。酔っ払いと客引きがひしめく繁華街を歩きながら、花彌子は神須屋の腕を引っ張っていた。
「私は仲が良かったただのクラスメイトなんですよ。スマホを見せてもらう資格がないんです」
「だからっていきなり俺が連絡するのも不自然だろ。家族ってトコにどんな幻想を見ているか知らねえが、もう二十年以上会ってねえんだぞ」
「そこを何とか」
「ならねえ」
返事はにべもない。神須屋は彼女の腕を振り払い、大股で歩き始めた。
「チッ、待ってくださいよ」
「今舌打ちしたか?」
「投げキッスの間違いじゃないですか?」
「それはそれでキメェわ……」
ゾッとしたように身を引く神須屋に、花彌子は人差し指を立てた。
「じゃあ、できることから潰していきましょう。黒川に話を聞くんです」
「ああ、それはそうだな」
神須屋が首を振る。花彌子はスマホを取り出し、画面を神須屋に見せた。そこには友人から送られてきた黒川の写真が映っている。サッカー部のエースというだけあって、短髪の爽やかなスポーツマン風の男だった。
「実はですね、昼間のうちに友達に聞いたんですけど、最近の黒川は荒れていて、放課後に酒を飲んでは憂さ晴らししているんですって」
「へえ」
「黒川が言っていた街をぶらついていたっていうのも、たぶん半分は本当じゃないかと思います。でも行った店なんかを詳しく言わないのは、恐らく、言えないからじゃないかと」
「なるほど。どこかで酒を飲んでいたと」
「ええ。神須屋さんなら詳しいでしょう。未成年にも酒を提供してくれる店」
神須屋の視線が中空を向く。やがて一つ頷くと、花彌子の手を掴んだ。
「二、三軒、思い当たる店がある。行くぞ」
9
二軒目でヒットした。
神須屋に連れられて訪れたビルの地下にあるバーだった。照明は絞られており、落ち着いた雰囲気だ。バーテンダーが酒を作るカウンターの奥にはいくつもの琥珀色の酒瓶が行儀よく並んでいる。
神須屋が一歩足を踏み入れた瞬間、バーテンダーと客たちの視線が一斉に集まった。その中で、唯一壁に向かって酒を飲み続けていたのが黒川だった。
「おい、てめえ黒川鷹臣だな」
神須屋は視線をものともせず、奥の席でグラスを傾ける黒川の肩を掴んだ。黒川は鬱陶しげに神須屋を睨みあげた。
「……んだよ、オッサン」
「てめえに話がある。外場唯人のことでな」
黒川の顔色が変わった。席を立とうとするのを神須屋が押し留める。肩を押さえる手の関節が白く浮いていた。
不自然なほど愛想のいい笑顔を作って、神須屋は黒川の目を覗きこんだ。
「オッサンに教えてくれるか? お前がどんなふうに唯人を殺したのか」
「ち、違う!」
黒川が慌てふためいて両手を振る。そこで花彌子が神須屋の後ろから顔を出した。
「別に私たちも、黒川先輩が犯人だと決めつけているわけではありません。何かご存知のことがあれば教えてほしいだけです」
黒川が少し生気を取り戻して、馬鹿にしたような目で花彌子を見る。
「お前は誰だよ?」
「二年三組の玖条花彌子です。先輩の飲酒現場を見てしまって、どうしたらいいのか考えている可愛い後輩ですよ」
「は!? なんなんだよ!?」
「騒がないでください。質問に答えてくれればそれでいいんですから。十七日の夜はどこで何をしていましたか?」
黒川は助けを求めるように辺りを見回した。しかし、神須屋が壁になるように視線を遮り、客たちはこちらの様子には気づかない。
花彌子と神須屋は無言で彼を見つめ続けた。やがて彼の肩ががくりと落ち、ボソボソと言葉を紡ぎ始めた。
「……十七日は、授業が終わってすぐ、ここに来た。酒を飲んでたんだよ。で、店が閉まるまでここにいた。たぶん、二時くらいまで」
「いつもそんなことを?」
「さすがにここまでじゃない。ただ、あの日は外場と派手にやり合って……」
花彌子は眉を上げた。確か目撃情報では、一月十日に揉めていたのが直近だったはずだ。
「どういう理由で?」
「決まってんだろ。俺の推薦取り消しのことだよ。あいつが教師にチクらなきゃ、俺は今頃……それで、まあ、あいつの持ち物をちょっと盗んでやろうとして……それが見つかって揉めたんだ」
神須屋の拳が握り締められる。それを押さえながら、花彌子は続きを促した。
黒川の話によるとこうだ。十七日の放課後、黒川が図書室へ行くと唯人の荷物が机の上に置いてあった。辺りにひと気はなく、唯人に嫌がらせをする絶好のチャンスだった。そこで黒川が荷物を漁っているところに唯人が来て争いになった……ということらしい。
「結局、黒川先輩は荷物を盗んだんですか?」
「いや、外場に見つかったからな。何も出来ずじまいだ」
「そういうことはこれまでにも何度か?」
花彌子の問いに、黒川は気まずそうに視線をそらした。
「答えてください」
「まあ……何度か。それに、部の仲間が因縁つけてたっていう話も聞いてる」
「最低。ゴミカス。人間のクズですね」
「るっせえな! てめえに何が分かるんだよ!!」
黒川が椅子を蹴立てて立ち上がり、花彌子の胸ぐらを掴もうとした。しかし、横合いから伸ばされた神須屋の腕に阻まれ椅子に戻される。
黒川は息を荒げ花彌子を睨みつける。好青年なスポーツマンの面影はどこにもなく、獣じみた形相で歯を剥き出しにしていた。
「確かに俺は酒を飲んだよ! だがサッカー部として実績も残した! 死ぬほど努力したんだよ! それが実って推薦も決まった。こっちは人生がかかってんだよ! それをあいつは……俺はあいつに頼んだんだ。何でもするから黙っていてくれって。それなのに、あいつはこっちの話を聞きもしないで、『許されないことをしたのだから、然るべき裁きを受けなければならない』なんて優等生面で……」
そこで黒川は花彌子と神須屋に視線を巡らせ、唇の片側を吊り上げてみせた。
「俺の人生をめちゃくちゃにしたんだ。死ぬのはふさわしい裁きだろ」
それは一瞬のことだった。凄まじい速さで神須屋の拳が黒川の顔面めがけて振り下ろされた。
だから、どうして花彌子がそれを止められたのか分からない。彼女は思考を振り捨てて必死に神須屋にしがみつき、もろとも床に倒れ込んだ。黒川はか細い悲鳴のような声をあげて椅子の上に丸まった。
「やめてください神須屋さん。一般人を殴るのは悪手ですって!」
「離せ! 俺はこいつを許せねえ。バラバラにして山に埋めてやる!」
「死ぬより生きる方がよっぽど苦しいですから! ゴミクズに相応しい人生をプレゼントした方がいいですって!」
花彌子は意図せず床に神須屋を押し倒したような形になっていた。すぐ真下に神須屋の血走った目や怒りに燃える体がある。たぶん、彼が本気を出せば花彌子は吹き飛ばされるだろう。そうしていないのは、まだ彼に理性があるからだ……と思いたい。
花彌子は言い含めるように諭した。
「私たちにとって大切なのは、唯人くんの死の真相を明らかにすること。それをこんな人間の最底辺のカスを殴ってスッキリしている場合ですか? もっと他にやるべきことがあるんじゃないですか?」
「……どけ」
唸るように言って、神須屋が身を起こす。馬乗りになっていた花彌子も立ち上がって、スカートの裾を手で払った。
「そういえば黒川先輩」
「ヒィッ、何だよ」
怯える黒川に、花彌子は笑いかけた。
「何で飲酒がバレたんですか? 店に出入りしているところを見つかりでもしました?」
「いや、部室でOBと飲んでて……」
「うわ、超馬鹿。救いようがないですね」
黒川は返事をしない。花彌子はもう一つ問いを投げた。
「唯人くんの荷物を漁ったと言っていましたが、その中に便箋はありました?」
「はあ? 便箋?」
黒川は眉を寄せ、腕を組んだ。
「ああ……あったような気がするが」
10
次の日。花彌子と神須屋は閑静な住宅街の中にある、一軒家の前に立っていた。クリーム色の壁に焦げ茶色の屋根の、よく見かける建売住宅だ。今日は土曜日なので、花彌子は学校をサボらずに済んでいた。
むっつりと押し黙る神須屋を見上げる。今日の彼も全身黒のファッションで、耳には派手なピアスが複数光っていた。
「よし、インターホンを押しますよ」
「さっさとやれ」
朝からずっとこうだ。花彌子は内心ため息をつく。それも仕方ない。
──ここは、外場唯人の生まれ育った家なのだから。
黒川と揉めてバーを叩き出されたあと、神須屋はスマホでどこかに電話をかけていた。その会話を横で聞いていた花彌子には、相手が唯人の──神須屋の父親であることが分かった。
インターホンを押してしばらく、ゆっくりと玄関の扉が開いた。そこに立っていたのは、ポロシャツにスラックス姿の、髪を綺麗に撫でつけた中年男性だった。年齢の割に身綺麗にしており、少しだけ唯人の面影がある。そして何より、意志の強そうな眉の下に光る瞳は、晴れ渡った青空の色だった。
「……綾人。久しぶりだな」
「よぉ、クソジジイ」
神須屋がポケットに手を突っ込んだまま傲慢に顎を上げる。花彌子はその隣で頭を下げた。
「初めまして。唯人くんのクラスメイトの玖条花彌子と申します。本日は無理を聞き届けてくださりありがとうございます」
「そう畏まらなくてもいい。妻は実家で休養しているから、私しかお相手できないが……」
「いえ、充分です。ありがとうございます」
父親に招かれて、花彌子は玄関に足を踏み入れる。彼女の後ろからついてきた神須屋は、父親と目を見交わすと無言で靴を脱いだ。
「唯人の部屋は二階です。階段をのぼって左の突き当たりに。あの子のスマホもそこに置いておきました。私は……まだ見るのが辛いので、どうかお二人で」
「はい……」
父親は苦しげに目を伏せ、最後に神須屋に何かを囁いて居間の方へ去っていった。
神須屋はその背をじっと見送る。人を殴るときとは異なる、凪いだ顔つきだった。
「……神須屋さん?」
花彌子がそっと声をかける。彼は静かな面持ちのまま、短く呟いた。
「すまなかった、だとよ。──こんなもんなんだな。二十四年ぶりの再会だってのに、あいつにとって、俺たちはとっくに過去のことになってやがる」
彼は無言で首を振り、花彌子の背を押した。
「おら、さっさと行くぞ」
彼女は何も言えないまま、階段をのぼった。
──好きな人の部屋に入るのは、初めての経験だった。
唯人の部屋はシックな色合いで統一されていた。勉強机の上は整理されており、本棚には整然と参考書や書籍が並べられている。折目正しい性格が伺える部屋だった。
けれど、何よりも花彌子の目を引いたのは、勉強机の上に置かれた写真立てだった。ゆっくりと近寄って、手に取る。それに納められていたのは、どこかの遊園地を背景にした、唯人と、見知らぬ少女の写真だった。
花彌子の顔から血の気が引いていく。写真立てを持った指先が震えた。
「……これ」
写真の中で、唯人と少女は寄り添って笑っている。睦まじさを感じさせる距離で、表情で。
神須屋が痛ましいものを見る目を花彌子に向ける。彼女は無表情のまま、机に置かれたスマホを手に取った。
ホームボタンを押すと、すぐに待ち受け画面が表示される。既定の画像だ。すいすいと指を動かして、通話アプリを開いた。連絡先一覧をスクロールし、すぐに見つける。
「村井、ひまりというのね」
アイコンが唯人とのツーショットだったからすぐに分かった。愛らしい顔立ちの、セミロングの少女だ。うっすらと化粧をして、大きな瞳が潤んでいる。
花彌子は迷わなかった。トーク画面に遷移し、たぷたぷと文字を打つ。
『外場くんのクラスメイトです。彼のことでお話があります。ご都合の良いときにお話しできませんか?』
11
喫茶店に現れた村井ひまりは、花彌子の姿を見るなり泣き崩れた。
「ゆ、唯人が……死んだって、ほんと?」
花彌子が送ったメッセージには、すぐに返信が来た。外場家を辞したその足で、花彌子と神須屋はひまりと会うために駅前の喫茶店を訪れたのだ。なお、神須屋は見た目が怖すぎるため離れた席で二人の様子を窺っている。
ひまりを落ち着かせ、花彌子は切り出した。
「不躾だけれど……村井さんは、外場くんの彼女さん?」
ひまりの頬がかっと赤くなる。小さな手をもじもじと組み合わせ、かすかに頷く。
「う、うん……。付き合いだしたのは二年くらい前かな。塾で会ったの。勉強とか教えてもらううちに、何となくそんな感じに……」
「そう……」
花彌子は塾に通ったことがない。授業を一度聞けば充分なタイプだった。
「一緒に映画を見に行ったり、遊園地に行ったり、本当に楽しかった……大好きだったの。唯人が自殺なんてするはずない!」
ひまりはキッと眦を決して言い募った。花彌子も首を縦に振る。
「私もそう思う。だから調べているの」
「どうして……唯人は誰かに恨まれるような人じゃないのに……」
またひまりの瞳が潤みはじめる。彼女の瞼は腫れ上がり、こすった目元は真っ赤になっていた。
「村井さんと外場くんの間にトラブルはなかった?」
「あるわけない!」
ひまりは真っ直ぐに花彌子の瞳を見つめた。唇をムッと尖らせ、胸元で手を握りしめる。
「この間のクリスマスも、イルミネーションを見てキスしたの! 喧嘩だってしたことがない! ずっと上手くいってたの!」
「そ、そう」
花彌子は視線をさまよわせ、少し離れた席でコーヒーを飲んでいる神須屋に目を留めた。彼は肩をすくめ、話を続けろというようにひまりを顎で指した。
「……それじゃあ、他に外場くんが殺されるような心当たりはない?」
「ないに決まってる! 誰かと揉めていたって話も聞かないし、唯人は成績も良いから悩みもなかったと思うし……」
彼女たちのテーブルに、頼んだ飲み物が運ばれてくる。ひまりの前にはカフェオレ、花彌子の前には紅茶が置かれた。
花彌子はカップを人差し指で撫でる。じんわりした熱さが指先に伝わってきた。
「黒川鷹臣って名前聞いたことある? うちの学校では外場くんと揉めていたみたいなんだけど」
「誰それ? 知らない」
カフェオレを両手で持ったひまりがこてんと首を傾ける。一口飲んで、「あ」と声をあげた。
「もしかしてサッカー部の人? 飲酒で停学になったっていう」
「それ」
「ちょっと話してたかも。部室でお酒飲んでたところを唯人が見つけたんでしょ。でも、唯人にとってはそんなに大ごとじゃなかったと思うなあ。ちょっかい出されてるとは聞いたけど、唯人的には正しいことをしたから気にしてなかったみたい。そういうところあるでしょ」
花彌子は微笑んで頷いた。ひまりは勢いづいて、彼女の方へ顔を近づける。
「やっぱりそっちでもそんな感じなんだ? 私は、そういうところが好きで告白したの……」
悲しげに目を伏せる。目尻から涙が一筋落ちて、照明の光を受けてきらめいた。
その様子を見て、花彌子はためらいながら口を開いた。
「村井さんは、一月十七日の放課後、何してた?」
「十七日……?」
ひまりはぼんやりと上を見上げ、脇に置いたバッグから薄いスケジュール帳を取り出した。それをめくり、
「ああ、その日は塾に行ってた。十八時半から二十二時まで……英語と生物の講座を受けてたの」
「外場くんは同じ講座を受けていないの?」
「うん。私と唯人は古文と数学だけ被ってたの」
そういうものか、と花彌子はひとりごちた。
「十七日に、外場くんと連絡は取り合った?」
「朝、おはようの連絡をして……昼にも少しメッセ送ったかな。見る?」
今度はスマホを取り出し、画面を花彌子に向ける。そこには、朝の挨拶と昼休みに昼食の写真を送り合うメッセージが、絵文字に彩られて浮かんでいた。
この日、彼とは何を話したっけ、と花彌子は思いをめぐらせる。確か授業の合間に、たわいもないことを話したはずだ。次の授業のこととか、宿題のこととか。
ひまりはスマホの画面を暗くする。待ち受け画面が一瞬だけ目に入った。イルミネーションをバックに自撮りする二人の写真だった。
花彌子は深く息を吸い、ひまりに向き直った。小刻みに震える指先をテーブルの下で握り込む。
「あの、外場くんって、クラスメイトの話をすることあった?」
「え?」
ひまりが目を丸くした。それからほんの刹那、憐れむような光が瞳の奥底によぎった。
「えっと……あんまり、話さなかったかな。玖条さんのことも、私は初めて知ったし」
「そっか。そうだよね」
花彌子はできる限り綺麗に笑って、紅茶を口元に運んだ。
ひまりが少し俯いて、密やかにささめく。
「お願い、唯人を殺した犯人を探し出して……」
花彌子は真面目な顔を作って、頷くことしかできなかった。
12
「よう花彌子。いつお前があのガキを刺すかヒヤヒヤしたぜ」
さめざめと涙を流すひまりと喫茶店の前で別れ、呆然と道路で立ち尽くしていた花彌子の後ろから、神須屋がニヤニヤ笑いながら現れた。
「唯人にあんな可愛い彼女がいたとはなあ? 知らなかったのかよ?」
満面の笑みで花彌子を小突く。傍目にはヤクザに絡まれる女子高生の図であるため、通り過ぎる通行人が距離を取っていた。
何とか言えよ、と彼女の脇腹をドスドスつつき回す。花彌子の両手がゆっくりと持ち上がり、頬を押さえた。
「……すっごく、お似合いでしたよね?」
「あん?」
訝しげな神須屋を、花彌子はがばりと振り仰いだ。
「唯人くんと村井さん、びっくりするくらい『正しい』組み合わせじゃなかったですか?」
「……頭狂ったか?」
神須屋が人差し指で自分の頭を指差す。それに構わず、彼女は話し続けた。
「平凡で善良な唯人くんと、凡庸で善良な村井さん。誰からも祝福される、文句のつけようのないカレカノじゃないですか。どこにでもいる、ありふれた、可愛らしい高校生カップル。ドラマティックな筋書きとは無縁の、まさに日常系。平穏で平和で相思相愛の恋人同士」
花彌子の両手がだらりと垂れ下がった。
「──私には眩しすぎる」
彼女は目をすがめて、ひまりが去った方を見つめていた。冷たい風が吹いて、三つ編みを揺らしていく。
「……マジで大丈夫か」
神須屋が、彼にしては慎重な手つきで、花彌子の肩を抱こうとした。と、彼女が雲の上を歩くような足取りで道の端に歩を進める。ふらふらとガードレールに軽く腰掛け、空を仰いだ。丸眼鏡のせいで表情はよく分からない。
「だから……私の失恋も、ありふれた、夢見がちな女が思い上がっただけのお話なんです」
彼女は笑っていた。晴れやかに、とびきり爽快に。
神須屋はその顔を覗き込んで、眼鏡を外してやる。あらわになった瞳は真っ赤に充血していた。
「……泣けよ」
「嫌ですよ。これは笑い話なんですから」
「……今なら胸を貸してやる」
「絶対に嫌ですね!!」
「っとに可愛くねえなあ!」
ほとんど掴み合いになりながら騒ぐ二人を、ほとんどの通行人は遠巻きにしている。一部、これは通報した方が良いものかと悩むものもいる。
その中から、一人の男がつかつかと歩み寄った。花彌子の肩を掴む神須屋の腕をぐいと引っ張る。
「失礼。うちの生徒に何か?」
「……アァ?」
神須屋の凄みに、その男は生唾を飲み込む。だが、強張った顔つきのまま繰り返した。
「彼女はうちの生徒だ。何か問題を起こしたなら、私が話を請け負うが」
「須川先生!」
花彌子はガードレールから弾みをつけて降りる。慌てて神須屋と須川の間に割って入った。
「すみません先生。大丈夫です。この人は知り合いなので」
「玖条とこの男が……?」
明らかに怪しむ目つきで須川は二人を見比べる。花彌子は神須屋の手から眼鏡を引っ掴み、かけ直した。完璧な優等生の顔で須川を見上げる。
須川はしばらく迷っていたようだが、やがてため息をつくと花彌子に紙片を渡した。それは名刺で、須川の電話番号が記載されている。
「……困ったらいつでも電話してきなさい。あんなことがあったあとだが、来れるようになったらまた学校にも来いよ」
「はい。ありがとうございます」
正確無比な笑顔で礼を言う。須川は何度も振り返りながらその場をあとにした。
花彌子は手元の名刺に目を落とす。大して会話したことのなかった担任教師の意外な一面を見た気持ちだった。
「神須屋さん、今のは私と唯人くんの担任で……」
説明しようとして口を閉ざす。彼は凍りついた表情で須川の後ろ姿を凝視していた。
「……どうしました?」
「……あいつ、百瀬に金を借りていた男だ」
「は?」
神須屋の漏らした呻きに、すっと目を細める。喫茶店での乱闘を思い出す。確かあのとき彼は。
「ああ、そういうことですか」
花彌子は一つ頷き、薄い笑みを口元に浮かべた。精一杯背伸びをして、硬直した神須屋の耳元にあることを囁く。
二人の視線が交わった。
すぐに神須屋が早足でその場を去る。花彌子も踵を返し、大きく伸びをした。
「まったく、恋は盲目とはよく言ったもの」
13
深夜、繁華街の隅に立つビルの空き室に男が一人。夜空には月もなく、砂粒のような星だけが微かに瞬いていた。
男はソワソワと部屋の中を歩き回る。何度も腕時計を確認し、舌打ちする。
──ドアが音もなく開いた。
男がハッと面を上げる。そこに現れた人影を見て顔色を変えた。
「玖条。……それに、昼の」
「こんばんは、先生。良い夜ですね」
姿を表したのは花彌子と神須屋だった。花彌子はセーラー服を身にまとい、いつもの三つ編みに丸眼鏡。神須屋と合わせ、夜闇に溶け込む黒ずくめの格好だ。その中で、彼の瞳だけがやけに鮮やかだった。
男は──須川は、もつれた足で一歩下がる。
「ど、どうしたんだ、玖条。やはりその男に脅されているのか? 困っているなら先生に話せ」
「……困っている?」
花彌子が口元を指で押さえてくすりと笑う。その笑みの妖艶さに、須川の背筋に震えが走った。目の前にいる少女は誰だ。教室の隅で静かに本を読んでいるおとなしい女子生徒。素行に問題のない成績優秀な優等生。それが玖条花彌子に抱いている印象だった。今やどうだ。彼女は自分よりも体格のいい男を背後に従え、いっそ傲慢とも呼べる笑いを唇に乗せて彼を見据えている。彼女を構成する見た目は教室で見るものと変わらないにもかかわらず、明らかに何かが異なっていた。
彼女の艶やかな唇が開いた。
「おかしなことを言いますね。お困りなのはあなたの方では? ──外場唯人を殺害した犯人さん?」
須川の喉が鳴る。その目が見開かれ、ガクガクと足を震わせた。神須屋が一歩踏み出し、須川の胸を押して部屋に一つだけ置かれた椅子に座らせた。
「何を言っているんだ? 玖条、やっぱりおかしいぞ。誰かに唆されているんだろう? 今すぐこんな馬鹿なことはやめろ」
「唆されたのはあなたの方でしょう。ヤクザから金を借りるなんて、愚かなことをしましたね」
須川の顔面から血の気が引く。花彌子は胸ポケットから須川の名刺を取り出した。須川の目の前に、指先で掲げてみせる。
「これ、ありがとうございました。わざわざ電話番号まで教えてくださって。調べたら面白いことが分かりましたよ」
神須屋がスマホを手にする。それは血で汚れており、画面にはヒビが入っていた。
神須屋が低く話し始める。
「これは百瀬龍生のスマホだ。発信履歴と着信履歴、両方ともにお前の電話番号がある。最後の履歴は……一月十七日の午後七時二分だな。お前から百瀬にかけてる。百瀬が出なくて焦っただろ?」
「そんなことは……」
神須屋が指でスマホを操作した。すると、須川の尻ポケットから呼び出し音が鳴る。その音と振動に、須川の体が大きく跳ねた。
「な?」
ニヤッと笑って神須屋が花彌子を見やる。彼女は軽く息を吐いた。
「認めますよね、須川先生?」
「分かった! 認める! 確かに俺は百瀬から金を借りていた。電話もした! だが、外場を殺してはいない。だいたい何で俺がそんなことをするんだ! 動機がない!」
「外場唯人を殺したら、借金を帳消しにしてやるとでも言われました?」
須川がびくりと肩を震わせる。花彌子は俯く彼の顔を覗き込んだ。親指で神須屋を指し示し、
「彼の紹介がまだでしたね。名前は神須屋綾人さん。二歳までは外場綾人さんだったそうです。お分かりでしょう? 唯人くんの腹違いのお兄さんなんですよ。そして須川先生が金を借りていた百瀬龍生は、神須屋さんにしつこく絡んでいたんですって。──何だかとっても、因縁めいたものがあると思いません?」
「デタラメだ! 証拠がない! 妄想に過ぎない。そんなに言うなら、百瀬を連れて来い!」
口から泡を飛ばして須川が叫ぶ。花彌子は神須屋と顔を見合わせた。
「あー、本当はそれができれば良かったんですが。残念ながら、百瀬さんは話せる状態ではないんですよね。永遠に」
神須屋がつまらなそうにそっぽを向く。花彌子はやれやれと両手を上げた。
須川が椅子の上で勢い付いて前のめりになる。
「そうだろ? 玖条、お前が言っていることは全部想像だ。そもそも、外場は自殺したんだ。遺書だってある。それにどちらにせよ玖条にメールを送ってる。二十時十五分までは生きていたんだ。玖条が外場に告白したことなんて、他の誰も知りようがない。あれは外場本人が送ったものだよ。なあ? そして俺は、二十時以降は友人の家にいたんだ。みんな証言してくれるさ」
「そうでしょうね。でもそれって、大した問題ではないんですよ」
「……は?」
花彌子は恐ろしく冷めた瞳で須川を見下ろした。彼の目の前で、ポケットから取り出したハンカチの包みを開いてみせる。
白いハンカチにくるまれていたのは、くしゃくしゃになった紙切れ。それは唯人が遺した遺書と同じ便箋。
須川の額から脂汗が流れ落ちる。花彌子は容赦なく言葉を継いだ。
「これが何か、お分かりでしょう」
「なんのことだか」
「説明して差し上げますね。これは、唯人くんが私に宛てた告白の返事。その書き損じですよ」
花彌子は便箋に直接手が触れないように気をつけながら、文章を読み上げた。
「『玖条花彌子様へ
僕に告白なんてしてくれてありがとう。驚いて返事もできなくてごめん。でも本当に嬉しかったです。月並みな言葉になってしまうけれど、僕も君のことは大切に思っています。
けれど、その気持ちには応えられません。僕には彼女がいます。遠くに住んでいる別の学校の女の子です。僕は彼女のことが好きなので、それを裏切るような真似はしません。
君の望む形になれなくて申し訳ないけど、これが僕の本音です。それでも、花彌子さんのことを友人として大切に思っているのは本当です。君は頭が良くて、頼りがいのある、自慢の友人だと思っています。
だから、これからも良い友人でいてくれませんか?
勝手な僕を許してください。
今までありがとう。
外場唯人』」
辺りに沈黙が落ちた。須川の荒い呼吸の音だけが夜の底に響いている。
花彌子は眉尻を下げて、優しい手つきで便箋を撫でるそぶりをする。
「……とまあ、私は見事に振られてしまったわけです。彼女がいることにすら気づかなかったわけですね。まさに恋は盲目というやつです。唯人くんも困ったでしょうね。このほかにも四枚ほど書き損じが出てきましたよ。どれも文面は似たようなものでした」
彼女は微笑む。須川はもう顔も上げられず、床に自分の汗が滴り落ちるさまを見つめている。
「学校のゴミ捨て場を探して、焼却される寸前のものを救出してきたんです。亡くなったときの唯人くんの荷物に、便箋はありませんでした。でも黒川先輩が、図書館で彼の荷物を漁ったときに便箋があったことを教えてくれたので、きっと図書館で手紙を書いて余った便箋は捨てたんだろうと思いました。それが当たりでしたね。意外とすぐに見つかりましたよ」
花彌子の指先が須川の顎をとらえる。軽く力を入れるだけで、彼の顔は簡単に上がった。見開かれた彼の瞳の奥底を覗き、
「……この文章、どこかで見覚えがあると思いません? 特に最後の三行。よく見てくださいよ」
「お、俺は」
「え? なんですか? よく聞こえません」
「俺じゃ……」
須川はか細い声で喉を震わせたのち、呆然とした面持ちで脱力した。花彌子は顎から手を外し、踊るような足取りで彼の背後に回る。
「須川先生はあの日、百瀬龍生から依頼されて唯人くんを生徒会室で絞殺した。もしかすると、死体の処理は百瀬が請け負うことになっていたんじゃないですか? 百瀬の目的は憎き神須屋さんにダメージを与えることですから、きっと異母弟のバラバラ死体なんかを神須屋さんの郵便受けに突っ込んだりしたかったんだと思います。けれど、約束の時間になっても百瀬は現れなかった。当然ですよね。その前日に、もう神須屋さんが百瀬を××していたんですから」
人差し指でバツ印を作り、花彌子はたおやかに笑う。すっと無表情に戻り、
「午後七時二分。百瀬に電話をかけても繋がらない。このままでは須川先生が殺害したとバレてしまう。あなたは状況を打開しようと唯人くんの荷物を探り──私宛の手紙を見つけた。そこで思いついた。唯人くんは自殺したことにしようと。手紙の下三行を破りとり、恋の告白の返事を遺書に見せかける。ダメ押しに、私に宛ててメールを送る。彼のスマホにはロックがかかっていなかったし、メールなら自動送信ができますから。本人性を証明する文面も、手紙を読んだならばどのようにも書くことができますし」
須川が縋るように辺りを見渡し、恐ろしく表情の欠落した神須屋と目が合って急いで下を向いた。
「そして唯人くんの死体を窓に吊り下げて、友人の家へ転がり込んだ。──違いますか?」
彼女は須川の後ろから、彼の耳元に唇を寄せてふっと息を吹き込む。須川の肩が痙攣し、椅子から転がり落ちた。
四つん這いになり、わめきながらドアの方へ向かおうとする。その手の甲を神須屋が踏み砕いた。苦悶の声をあげて須川が虫のように床に丸まる。
「違う違う違う! 俺はただ頼まれただけだ! 俺にとっても外場は可愛い生徒だった! 殺したくなんかなかった! でも、あいつが……百瀬が借金を盾にして脅してきたんだ。外場の兄に一泡吹かせてやりたいからって。そいつは百瀬のメンツを潰したんだって。そんな裏社会のことで俺たちを巻き込むなよ! お前が百瀬と上手くやってりゃ、外場は死ぬことなんかなかったんだ!」
神須屋の顔色が変わる。いっそ青ざめて見えるほど血の気が引き、鋭い蹴りを須川の腹にめり込ませる。げえげえとえづきながら、須川は泣き叫んだ。
「お前が外場を殺したも同然だ! 百瀬がどうして外場とお前の繋がりを知ったと思う? 弟想いのお兄ちゃんは、外場の家を時々見に行ってたんだってな!? それでバレたんだよ。百瀬は大喜びだった。神須屋の弱みを握ったってさあ!」
「てめえ……」
神須屋が須川の鼻を殴りつける。骨が折れる鈍い音が響き、鼻血が床を汚した。それでも、須川は狂ったように笑い続けた。
「可哀想な外場。あいつは最期まで『なんで?』って言ってたよ。そりゃそうだ。何にも悪くないんだから。何にも知らないのに殺されて……苦しかっただろうなあ」
笑うのをやめ、さめざめと涙をこぼす。その様は悲劇に見舞われた一般人そのものだった。
けれど、と花彌子は口を開いた。
「須川先生が殺さなければ、唯人くんは今も生きていましたよね?」
頭を抱えていた須川が彼女を見上げる。花彌子は淡々と言葉を紡いだ。
「だって、百瀬は一月十六日にはもう死んでいたんですから。須川先生が可愛い生徒の首を絞める前に思いとどまっていれば、百瀬への借金はチャラ、殺人に手を汚すこともなく、あなたの日常は守られていたんじゃないですか?」
「は……」
「あなたは自分が世の理不尽に負けた被害者かのように振る舞っていますが、唯人くんを殺したのは紛れもないあなた自身です。人を殺さないという正しさを、勇気を、善良さを貫けば、あなたの手は生徒の死体を吊り下げることはなく、当たり前の生活を掴めたのに」
「あ、ああ……」
どこからかサイレンの音が細く聞こえる。花彌子は須川から目を逸らさない。須川は両手で頬に爪を立て、肉に食い込ませ、そして。
「うわあああああ!!」
弾かれたように立ち上がると、床を蹴り、窓に向かって突進した。止める間もなかった。彼は窓を開け、乗り越え、一瞬だけ和らいだ顔をして。
どさ、と、水の詰まった袋が潰れるような音が響いた。
花彌子はその場から動かなかった。神須屋は足早に窓辺に近寄り、下を覗いて「あーあ」と呟いた。
「あれはダメだな。処理はこっちでやっとくから、花彌子はもう帰れ」
「……」
「花彌子?」
神須屋が眉をひそめて彼女を振り返る。暗がりで彼女の表情は分からない。ただ立ち尽くしているシルエットだけが浮かび上がっている。
「どうかしたか?」
背中を柔らかく撫でるような、彼にとっては最上級に優しい口調。それを、花彌子が振り払った。
「私は誰を憎めばいいんです」
眼鏡の奥で、瞳が激情に燃え上がった。鮮烈な輝きだった。彼女は両手を広げ、喉から血を吐くような声をあげた。
「須川先生が憎い、百瀬龍生が憎い、それに何より、神須屋さんが憎い」
神須屋は口を閉ざしている。ただ、その血まみれの独白を黙って受け止めている。
「唯人くんを死に至らしめたあらゆるものが憎い。だけど──」
花彌子の両手がだらりと落ちる。乾き切った目で中空を睨み据えた。
「私には、憎む資格がない。私は唯人くんにとっては何でもない、ただの友人Aだから」
玖条花彌子は、ただ、恋のためにここまで駆けた。そしてその恋を失い、行き場のない憎悪を持て余している。
彼女は顔を歪めて窓の向こうを凝視した。夜空が広がる、今はもう誰もいない景色を。
「須川先生を止めようと思えばきっと止められました。けれどそうしなかった。だからあれは、私の故意です」
部屋が静まり返る。二人の間には静寂だけが横たわり、窓から入り込む風がわずかに空気を掻き回す。
花彌子は顔をこすり、この場を去ろうと踵を返した。
「……それは違う」
その背に低い声が投げられる。彼女は足を止め、顔だけで振り向いた。
「あれは花彌子だけの故意じゃない。──俺たちは共犯者だ」
虚をつかれ、花彌子は口をつぐんだ。神須屋は逃げるのを許さない強さで彼女を見据えていた。
彼女の頬がぎこちなく歪んだ。笑うのに失敗したように。
「神須屋さん、あなたは知っていたんじゃないですか。自分のせいで唯人くんが死んだこと。だからあなたは──」
妙に良かった手回し。唯人が殺害される前日に完了していた百瀬の処分。関係者である花彌子へのおかしなくらい協力的な態度。
神須屋は何も言わなかった。ただタバコを一本取り出して、火をつけた。そういえば、彼が喫煙しているのを初めて見たな、と花彌子は頭の片隅で思う。
煙が吐き出される。それを目で追いながら、神須屋は零した。
「さあな。はじまりはどうであれ、少なくとも今は、お前が俺の探偵で良かったと思ってるさ」
「探偵って」
今度こそ花彌子はふき出した。腹を抱えながら、
「それなら、神須屋さんが私の助手?」
「ああそうだ。なかなかいい働きだっただろ」
「そうですね。ええ、まあ、はい」
ひとしきり笑い、目元に滲んだ涙を拭って、花彌子は今度こそ彼に背を向けた。右手をひらひらと振って、歩き出す。
「さようなら、共犯者の助手さん」
「ああ、お別れだ。俺の探偵で……共犯者さんよ」
──こうして、玖条花彌子の恋は失われた。
14
誰がいなくなっても、日常はおおむね問題なくまわり続ける。
生徒会長には副会長が代理で就任し、花彌子のクラス担任には別の教師が就いた。違うのは、花彌子の隣の席が空っぽなことだけ。これも半年もすれば片付けられるだろう。どこかのサッカー部のエースが飲酒で退学になったのだって、今は盛んに噂されてもやがて忘れ去られる。
そんなふうにして、花彌子の毎日は変わらなかった。きっちりまとめた三つ編みに、目元を隠す丸眼鏡。もちろんスカートは校則通りの膝丈。地味でおとなしい優等生としての日々は、彼女に安らぎを与えていた。
その日も彼女はいつも通りに登校し、授業を受け、帰宅しようとしていた。帰りに本屋に寄るのもいいし、友達を誘ってどこかへ遊びにいくのもいいかもしれない。まどろむような生活の中で、そう呑気に考えていた。
そのとき、スマホが震え、メールの受信を告げる。何気なく開いて、花彌子は手のひらで額を押さえた。
「あんないい感じに別れておいて、また連絡してくるんじゃない!」
差出人は彼女の助手。そして内容は──。
〈了〉