4、
粗末な板切れに「チョーク農場」と書かれた看板が道端に立っている。
丘陵地帯と深い森の境目あたり、まだ開拓をはじめて1年にも満たないこの小さな農場が、バルカンとアンナの目的地だ。
広さは4.7haほど、周囲を低い生け垣に囲まれた農場は作物ごとに10つほど区画分けされており、畑の真ん中には小川も流れている。アンナが馬車の上に立って生垣越しに100mほど先を見ると、農具小屋ほどの大きさしかない小さな農場の母屋と、その周囲にニワトリが5羽ほど放し飼いされているのが見えた。
求人情報を読んで想像はついていたが、のんびりとした雰囲気で素敵な農場だなとアンナは改めて思い、バルカンはどう思ってるだろうと隣に座る彼を横目で見たが、特に何も感じていないようだった。
二人が母屋についたとき、ちょうど作物の買い付けに来た商人と、農場の主人であるチョーク・エルヴィンが話をしているところだった。
「チョーク爺さん、この大きさじゃ、大した値は付けられないよ」
「そう言わんで、もう少し高くならんか? 確かに小ぶりじゃが、味は悪くないぞ」
「いや、これ以上の値は付けられないよ。嫌なら他を当たってくれ」
「分かった。それなら仕方ない…」
商談が終わり、商人は野菜の入った木箱を荷馬車に積んで「また来週」と言って帰っていった。それを見送ると、チョークは頭に巻いたねじり鉢巻きを正しながら、二人のほうに近づいてきて言った。
「待たせてすまんね。わしがこの農場の主、チョーク・エルヴィンじゃ」
「こんにちは、ボーデ聖殿のアンナ・ボーデベルグです。こちらの方は…」
「はじめましてエルヴィンさん。バルカン・ハミルカルと申します」
チョークは、お辞儀をしたバルカンの体を起こし、「チョークさんで構わんよ。しかし、ハミルカルさん、あんたまさか、あの”券聖バルカン“かね?」と言って、握手を求めた。
「はい。ただ、そのような通り名を頂いてはおりますが、恐れ多い未熟な身でございますので、私の事はバルカンとお呼びください」
「やはりそうか! 一目見たときから只者ではないと思っていたが、まさかそんな御方がウチの仕事に興味をもってくれるとはなぁ。」と握手したまま、バルカンの肩をたたき微笑んだ。
「チョークさん、聖殿の伝書鳩でご連絡をさせてもらいましたが、今日はバルカンさんの業務体験をよろしくお願いします」
「ああ、分かっておるとも。しかし、あんた方、馬車旅で疲れておらんのか?」
「わたしは今すぐ働けますよ」と腕を回すバルカンの言葉に、アンナは食い気味で「わたしは見学で」と言った。
===
バルカンは、チョークの指示に沿って、淡々と農場の仕事をこなしていった。
種まき前の畑を耕し、井戸から汲んだ水を作物に撒き、薪を割る。
アンナは、それを遠くから眺めながら、バルカンの鍛え抜かれた肉体ならば、どれも容易い仕事なのだろうと思った。
しかし、なぜバルカンがこの仕事を希望したのだろう。
ここに来るまでの馬車での会話からしても、バルカンは冒険者の仕事にまだまだ未練があるようだったし、現に畑仕事をしている今も、破邪の爪は付けたままだった。
「つぎは、儂と一緒にあの畑の雑草をむしってもらっていいかね」とチョークが声かけた。
「はい」
小さい農場とはいってもそれなりの広さがあり、普段はチョークしかいないので、あちこちの畑には雑草が茂っていた。チョークは「独りきりじゃ、まったく追いつかんのじゃ」と言いながら、バルカンの近くに腰を下ろして一緒に草をむしりはじめた。
二人ともしばらくのあいだ黙って草をむしっていたが、チョークが立ち上がり「イタタタ」と腰を伸ばすと、黙々と草むしりを続けるバルカンに声をかけた
「ところで、バルカンさん、アンタどうしてウチの仕事に興味を思ったんじゃ?」
「冒険者も一般の仕事につくように法令が出たもので」
「それなら、農家じゃなくてもいいし、割のいい仕事なら沢山あるじゃろう?」
「確かにそうですね…」
言い淀むバルカンにチョークは言った。
「もしもアンタがここで本気で働きたいのなら、本当の理由を聞かせてもらいたいんじゃ。あんたも、もしも誰かが弟子にしてほしいと言ってきたら、その理由を聞くじゃろ?」
「…はい」
バルカンは手を止めて、少しのあいだ考えてから、話しはじめた。
「正直に言いますと、農家でなくてもよかったのです」
「ほお」
「私は、若い頃から長く武闘家として生きてきました。そして、死ぬまで武闘家でいるつもりだったのです。それが、ある日突然、武闘家でいることができなくなってしまった」
バルカンは拳の爪を眺めながら続けた。
「自分より巨大で強力な魔物たちと戦うことや、人々の命を守ることを、私は自分の生きがいとしていました。それが突然魔物たちがいなくなり、生きがいのない日々が永遠に続くと思った時、全てがどうでもよくなってしまったのです。」
チョークは黙って、バルカンを見つめた。
「それで、何も考えなくていい、ただ体を動かすだけの仕事でいいと考えたのが、こちらの農場を希望した理由です。世間では拳聖などと呼ばれておりますが、わたしは弱い男なのです」と、抜いた雑草を手にしたまま、うなだれた。
チョークは、手袋を外し、ねじり鉢巻きをとると、バルカンに声をかけた。
「そろそろ、休憩にするかの」
===
「これ、ウチでとれたカボチャ」と言ってチョークが大きな木皿いっぱいに出してきたカボチャの煮物を食べながら、3人は母屋の前のベンチで休憩をとった。
アンナは、素朴なおいしさに感激していくつも手を伸ばしたが、ふと、バルカンが一口も食べていないことに気づき、何気ない調子で問いかけた。
「バルカンさん、農場のお仕事やってみてどうですか? こちらに転職されますか?」
「ん、ああ」
バルカンの、心ここにあらずといった気のない返事に心配になったアンナは、わざと明るい声で、周囲を見渡しながら言った。
「こんなにのんびりとした、自然に囲まれた落ち着いた環境でのお仕事、とってもいいと思いますよ。私が転職したいくらいです」
するとチョークが、それを制して言った。
「お嬢さん、それはちょっと違うな」
「え?」
「バルカンさんも勘違いしているようじゃったが、ここの仕事はのんびりもしておらんし、落ち着いてもおらんぞ」
バルカンとアンナは、顔を見合わせた。
「今日は天気も良く、とても陽気がいい日だからそう感じるかもしれんが、こんな日ばかりじゃない。畑が水浸しになるほどの大雨が降ることもあれば、作物をすべて吹き飛ばすような風が吹くこともある。深い雪が何日も降り続く事だってある」と、チョークはお茶をすすり、空を見上げて言った。
「しかもそれが、前触れもなしに突然起こるんじゃ」
アンナも穏やかに晴れ渡った青い空を見上げたが、急に空や周りの風景の中に目に見えない暴力的な敵意が潜んでいるよう感じられてきた。バルカンも同じ気持ちだった。
「そんな時は、どうするのですか?」アンナがそう尋ねると、チョークは
「戦うしかないのぉ。もちろん、その準備と覚悟はいつもしておくことじゃ」と、さも当たり前のことといった軽い調子で答え、続けて言った。
「なあ、バルカンさん。あんたさっき、魔物と戦うことや人の命を守ることが生きがいだったと言っておったが、農家も同じじゃ。ただ、農家が戦っているバケモノは、天気や、雑草や害虫のような自然そのものじゃ。そして守っているものは、畑に育つ何千何万という作物の命なんじゃ」
その言葉に、バルカンはハッとした様子でチョークを見つめた。
そして、自分を見つめるバルカンに向かって、チョークは空を指さして言った。
「バルカンさん、こんな馬鹿でかい相手と戦ったことはあるかね?」
「いえ。ありません」
チョークは畑を指さした。
「独りでいっぺんに何万もの命の世話をしたことがあるかね?」
「いえ、ありません」
それを聞いたチョークは、カボチャの盛られた木皿をバルカンに向かった差出しながら、にっこりと笑って言った。
「じゃあ、それをアンタの新しい生きがいにしてみるのはどうかね?」
粗末な板切れに「チョーク農場」と書かれた看板が道端に立っている。
丘陵地帯と深い森の境目あたり、まだ開拓をはじめて1年にも満たないこの小さな農場が、バルカンとアンナの目的地だ。
広さは4.7haほど、周囲を低い生け垣に囲まれた農場は作物ごとに10つほど区画分けされており、畑の真ん中には小川も流れている。アンナが馬車の上に立って生垣越しに100mほど先を見ると、農具小屋ほどの大きさしかない小さな農場の母屋と、その周囲にニワトリが5羽ほど放し飼いされているのが見えた。
求人情報を読んで想像はついていたが、のんびりとした雰囲気で素敵な農場だなとアンナは改めて思い、バルカンはどう思ってるだろうと隣に座る彼を横目で見たが、特に何も感じていないようだった。
二人が母屋についたとき、ちょうど作物の買い付けに来た商人と、農場の主人であるチョーク・エルヴィンが話をしているところだった。
「チョーク爺さん、この大きさじゃ、大した値は付けられないよ」
「そう言わんで、もう少し高くならんか? 確かに小ぶりじゃが、味は悪くないぞ」
「いや、これ以上の値は付けられないよ。嫌なら他を当たってくれ」
「分かった。それなら仕方ない…」
商談が終わり、商人は野菜の入った木箱を荷馬車に積んで「また来週」と言って帰っていった。それを見送ると、チョークは頭に巻いたねじり鉢巻きを正しながら、二人のほうに近づいてきて言った。
「待たせてすまんね。わしがこの農場の主、チョーク・エルヴィンじゃ」
「こんにちは、ボーデ聖殿のアンナ・ボーデベルグです。こちらの方は…」
「はじめましてエルヴィンさん。バルカン・ハミルカルと申します」
チョークは、お辞儀をしたバルカンの体を起こし、「チョークさんで構わんよ。しかし、ハミルカルさん、あんたまさか、あの”券聖バルカン“かね?」と言って、握手を求めた。
「はい。ただ、そのような通り名を頂いてはおりますが、恐れ多い未熟な身でございますので、私の事はバルカンとお呼びください」
「やはりそうか! 一目見たときから只者ではないと思っていたが、まさかそんな御方がウチの仕事に興味をもってくれるとはなぁ。」と握手したまま、バルカンの肩をたたき微笑んだ。
「チョークさん、聖殿の伝書鳩でご連絡をさせてもらいましたが、今日はバルカンさんの業務体験をよろしくお願いします」
「ああ、分かっておるとも。しかし、あんた方、馬車旅で疲れておらんのか?」
「わたしは今すぐ働けますよ」と腕を回すバルカンの言葉に、アンナは食い気味で「わたしは見学で」と言った。
===
バルカンは、チョークの指示に沿って、淡々と農場の仕事をこなしていった。
種まき前の畑を耕し、井戸から汲んだ水を作物に撒き、薪を割る。
アンナは、それを遠くから眺めながら、バルカンの鍛え抜かれた肉体ならば、どれも容易い仕事なのだろうと思った。
しかし、なぜバルカンがこの仕事を希望したのだろう。
ここに来るまでの馬車での会話からしても、バルカンは冒険者の仕事にまだまだ未練があるようだったし、現に畑仕事をしている今も、破邪の爪は付けたままだった。
「つぎは、儂と一緒にあの畑の雑草をむしってもらっていいかね」とチョークが声かけた。
「はい」
小さい農場とはいってもそれなりの広さがあり、普段はチョークしかいないので、あちこちの畑には雑草が茂っていた。チョークは「独りきりじゃ、まったく追いつかんのじゃ」と言いながら、バルカンの近くに腰を下ろして一緒に草をむしりはじめた。
二人ともしばらくのあいだ黙って草をむしっていたが、チョークが立ち上がり「イタタタ」と腰を伸ばすと、黙々と草むしりを続けるバルカンに声をかけた
「ところで、バルカンさん、アンタどうしてウチの仕事に興味を思ったんじゃ?」
「冒険者も一般の仕事につくように法令が出たもので」
「それなら、農家じゃなくてもいいし、割のいい仕事なら沢山あるじゃろう?」
「確かにそうですね…」
言い淀むバルカンにチョークは言った。
「もしもアンタがここで本気で働きたいのなら、本当の理由を聞かせてもらいたいんじゃ。あんたも、もしも誰かが弟子にしてほしいと言ってきたら、その理由を聞くじゃろ?」
「…はい」
バルカンは手を止めて、少しのあいだ考えてから、話しはじめた。
「正直に言いますと、農家でなくてもよかったのです」
「ほお」
「私は、若い頃から長く武闘家として生きてきました。そして、死ぬまで武闘家でいるつもりだったのです。それが、ある日突然、武闘家でいることができなくなってしまった」
バルカンは拳の爪を眺めながら続けた。
「自分より巨大で強力な魔物たちと戦うことや、人々の命を守ることを、私は自分の生きがいとしていました。それが突然魔物たちがいなくなり、生きがいのない日々が永遠に続くと思った時、全てがどうでもよくなってしまったのです。」
チョークは黙って、バルカンを見つめた。
「それで、何も考えなくていい、ただ体を動かすだけの仕事でいいと考えたのが、こちらの農場を希望した理由です。世間では拳聖などと呼ばれておりますが、わたしは弱い男なのです」と、抜いた雑草を手にしたまま、うなだれた。
チョークは、手袋を外し、ねじり鉢巻きをとると、バルカンに声をかけた。
「そろそろ、休憩にするかの」
===
「これ、ウチでとれたカボチャ」と言ってチョークが大きな木皿いっぱいに出してきたカボチャの煮物を食べながら、3人は母屋の前のベンチで休憩をとった。
アンナは、素朴なおいしさに感激していくつも手を伸ばしたが、ふと、バルカンが一口も食べていないことに気づき、何気ない調子で問いかけた。
「バルカンさん、農場のお仕事やってみてどうですか? こちらに転職されますか?」
「ん、ああ」
バルカンの、心ここにあらずといった気のない返事に心配になったアンナは、わざと明るい声で、周囲を見渡しながら言った。
「こんなにのんびりとした、自然に囲まれた落ち着いた環境でのお仕事、とってもいいと思いますよ。私が転職したいくらいです」
するとチョークが、それを制して言った。
「お嬢さん、それはちょっと違うな」
「え?」
「バルカンさんも勘違いしているようじゃったが、ここの仕事はのんびりもしておらんし、落ち着いてもおらんぞ」
バルカンとアンナは、顔を見合わせた。
「今日は天気も良く、とても陽気がいい日だからそう感じるかもしれんが、こんな日ばかりじゃない。畑が水浸しになるほどの大雨が降ることもあれば、作物をすべて吹き飛ばすような風が吹くこともある。深い雪が何日も降り続く事だってある」と、チョークはお茶をすすり、空を見上げて言った。
「しかもそれが、前触れもなしに突然起こるんじゃ」
アンナも穏やかに晴れ渡った青い空を見上げたが、急に空や周りの風景の中に目に見えない暴力的な敵意が潜んでいるよう感じられてきた。バルカンも同じ気持ちだった。
「そんな時は、どうするのですか?」アンナがそう尋ねると、チョークは
「戦うしかないのぉ。もちろん、その準備と覚悟はいつもしておくことじゃ」と、さも当たり前のことといった軽い調子で答え、続けて言った。
「なあ、バルカンさん。あんたさっき、魔物と戦うことや人の命を守ることが生きがいだったと言っておったが、農家も同じじゃ。ただ、農家が戦っているバケモノは、天気や、雑草や害虫のような自然そのものじゃ。そして守っているものは、畑に育つ何千何万という作物の命なんじゃ」
その言葉に、バルカンはハッとした様子でチョークを見つめた。
そして、自分を見つめるバルカンに向かって、チョークは空を指さして言った。
「バルカンさん、こんな馬鹿でかい相手と戦ったことはあるかね?」
「いえ。ありません」
チョークは畑を指さした。
「独りでいっぺんに何万もの命の世話をしたことがあるかね?」
「いえ、ありません」
それを聞いたチョークは、カボチャの盛られた木皿をバルカンに向かった差出しながら、にっこりと笑って言った。
「じゃあ、それをアンタの新しい生きがいにしてみるのはどうかね?」