徹は確かに君子の父にもその意向を伝えたようで、縁談は進みつつも退学の話が上がることはなかった。母は時折残念そうな表情をのぞかせたが、徹の方から縁談を白紙にするという話が上がらないことで安心したのか、父に文句を言っている様子はなかった。
 その間も徹は仕事で遠方に向かうことがあったが、こまめに連絡をよこしてきたためそうこうしているうちに、憧れの先輩は卒業し、君子も学び舎を去る日を迎えた。
 晴れて嫁ぐ日も決まり、生家での生活も残り少なくなってきた。弟は生意気な盛りだけれど、おめでとうと言ってくれた。
どういうわけか、この数年ですっかり彼らを目にする機会が減ってしまった。これは、彼らが姿を消したわけではなく、自分自身が認識できなくなってきているのだろうと君子は何となく感じた。確かに彼らの存在は年々危ういものになりつつあるが、古より生きるもの達が急速に消失することなどあり得るはずがない。では何故、感知できないようになってきたのか。上手く説明することはできないが、それが年齢を重ねるということなのだろうと思うことにした。
 君子には一つ気がかりがあった。自分が彼らを認識できなくなる前に、この家を離れる前に、伝えなければならないことがあったのだ。かつて自分を救ってくれた、ずっと見守ってくれた、あの少女にもう一度だけ会いたかった。
 そう願い続けていた甲斐があったのか、彼女がひょっこりと姿を現した。そう願って数日、眠りについていたところに気配を感じ、目が覚めた。そこには、かつて熱に浮かされた中でおぼろげに覚えていた古めかしい着物と同じものを身に着けた少女の姿があった。艶やかな黒髪に滑らかな白い肌。着物から除く丸い綺麗な手。
 あの頃と何も変わらない。今では自分が随分お姉さんになってしまったことに、驚くことはなかった。彼ら彼女らがそういう存在だとは、理解していたから。むしろ、変わらぬ姿で現れたことで、間違いなくあの時の少女だと思うことができた。
「わたしの前に姿を見せてくれてありがとう」
 少女はこくんと頷くだけで、声を発することはない。
「あなたを見ることができなくなる前に、お礼を言いたかったの。あの時助けてくれてありがとう。それと、ずっと、見えない振りしてごめんなさい」
 静かに笑みを浮かべる少女は、やはり何も語らない。それでも、君子は言葉をつなぐ。