「君子さんは、手が白くて綺麗ですね」
「ありがとうございます。私は、清子さんの艶やかな黒髪が羨ましいです」
「まあ、お上手ですこと」
 女学校での一幕。
 手が綺麗と褒められたのは、初めてではない。ただ、君子は自分よりも白く綺麗な手を知っているため、あまり素直に喜ぶことができない。その手の主について、覚えていることは少ない。何せ幼い頃に一度触れただけなのだから。
 幼少期に君子は、高熱で床に臥せったことがある。子供心にこのまま死んでしまうのではないかとぼんやりと思っていた。平常であれば、恐ろしいと思うのだろうが、熱に浮かされた頭は、そういうものかと感じるだけだった。
「だれか、いるの?」
 それは、声として発することができたのかどうか、定かではない。ただ、その声を聞き届けたらしい誰かは、君子にゆっくりと近づいてきた。
 母ではない、父ではない。母はあの時弟を身ごもっていたから、私に近づくことができなかった。父は仕事で家にいなかった。では使用人の誰かだろうか。その誰かは君子の手を優しく握る。大丈夫だよとでも言うように。誰かの手というところに安堵し、その手のひんやりとした感触が実に心地よかったことから、君子は心から感謝した。
 ちらりと視界に移ったのは、随分と古めかしい着物を身にまとった少女だった。こんな使用人がいただろうかと思いつつも、その行為に感謝したい気持ちが強く、何とか声を振り絞った。
「ありがとう」
 それだけ言って、そのまま寝入ってしまった。目が覚めると不思議なことに熱はすっかり引いていて。感極まった母は、君子を抱きしめてしばらく離さなかった。
 しばらくして、手を握ってくれた誰かの正体を知りたくて、君子は屋敷の人間に聞いて回ったが、誰も心当たりがないという。母に至っては気味悪がってしまい、この話は口にできなくなってしまった。祖母だけは、意味ありげな顔をした後で「かつて、あなたのお父様もそんなことを言っていました。きっとその方は我が家の守り神ですね」と君子に言って聞かせた。
 そこで、君子は何かを悟った。あれは、人ならざるものだったのだと。悟ったというか、それ以降君子はそういったものの存在を認知する機会が増えた。しかし、誰かにその存在を伝えることはできなかった。