ちらりと目をやると、ちょうど食事を載せたトレーを持ってやって来た三人組の若い女子社員が楽しげに会話に盛り上がっている。
確か、経理部で見かけたことがある人達のような気がする。
「さっき、営業第一の相澤係長とエレベーターで一緒になっちゃった」
「えー、いいな。私も一本待てばよかった」
「ボタン押して、『お先にどうぞ』って。ああいう気遣い、素敵だよね。相澤スマイル見たから、午後も頑張れそう!」
「私も営業第一に行って部下になりたいー!」
「わかる。すっごく優しく指導してくれそう」
きゃーと三人が声を合わせたように黄色い声を上げる。
陽茉莉はその会話を聞きながら内心で思う。
あなた達、あの人の猫かぶりを知らないでしょうと。
あの爽やかな笑顔からは想像できないけど、容赦ないですよ?
「今日も相澤さん、すごい人気だね」
「ふーん」
「そりゃあ放っておかないよね。若いし、仕事できて将来有望だし、おまけにモデルみたいなイケメンだもん。『営業第一に行きたい、部下になりたい』だってよ。陽茉莉、社内の女子から羨望されるポジションだね」
若菜が囁くように口の横に手を当てると、にやりと笑う。
陽茉莉はフォークを持つ手を止めると、げんなりとした表情で呟いた。
「ほんっと、変わって差し上げたいわ」
◇ ◇ ◇
アレーズコーポレーションは創業二十五年の、準大手の総合リラクゼーション企業だ。
企業理念は『最高のリラクゼーションを提供し、人々の生活に潤いを』と掲げており、入浴剤や各種マッサージ用品などのリラクゼーショングッズ販売から、子会社のエステサロン経営まで幅広い事業展開をしている。
そして、陽茉莉の所属する営業第一部はリラクゼーショングッズの法人営業を担当していた。
「新山、ちょっといいか?」
パソコンに向かって明日訪問予定の営業先の資料を作成していると、不意に声をかけられた。
振り返ると、そこにいたのは陽茉莉の上司である、係長の相澤礼也だ。
整髪料で自然に整えられた短いストレートヘア、こちらを見つめるのは焦げ茶かかった切れ長の瞳、高い鼻梁はご先祖様に外国の方の血でも混じっているのかと思うほどだ。おまけに身長も一八〇センチ近く、まさにモデル体型である。
「今日の四時半に訪問予定のブライダルサロンに持って行く予定の資料だけど──」
多くの女性社員を虜にする爽やかさを振りまきながら喋り始めた相澤に、陽茉莉はすぐに嫌な予感がした。
「──ってことで、ちょっと気になるから、直してくれる?」
相澤は印刷した陽茉莉作成の資料を差し出す。受け取って一枚開くと、めまいがしそうなほど赤字が書き込まれていた。
「でも、後二時間──」
「二時間か。うん、新山なら大丈夫だよ」
相澤が口元に微笑みを浮かべ、にこりと笑う。
他の女性社員なら頬を染める神ショットだが、今の陽茉莉には鬼の微笑みにしか見えない。
(お昼の時間を後ろにずらしてまで、必死で作ったのに……。鬼!)
最近、ちょっとした事情があって夜もよく眠れない。睡眠不足も相まって疲れが溜まっている。
(午前中の苦労はなんだったの)
陽茉莉はがっくりと項垂れて、肩を落としたのだった。
その晩、陽茉莉は通勤途中にある行きつけのバー『ハーフムーン』に立ち寄った。マスター兼ママであるオネエの『潤ちゃん』がひとりで切り盛りしている、こぢんまりとした店だ。
ドアを開けると、最初に目に入るのは暖色のアンティークランプ。ほんのりと照らされた薄暗い店内から、「いらっしゃいませ」と明るい声がした。
「こんばんは」
「あら、陽茉莉ちゃん。いつもありがとうね」
潤ちゃんは陽茉莉の顔を見ると、にっこりと微笑む。
ここは陽茉莉がまだ社会人一年目のとき、『仕事ができる大人な女は行きつけのバーがある』という謎の理論により偶然立ち寄った場所だ。ちなみにソースは大学のときの友人である。
今思えば本当に馬鹿げた理論だけれど、何の前知識もなしに飛び込んだこの店を陽茉莉は思いのほか気に入った。一週間に一度のペースで訪れており、今では本当に行きつけになっている。
「はい、どうぞ」
全部で六席しかないカウンターのひとつに座ると、いつものようにジントニックが差し出される
「潤ちゃん、ありがとう」
「どういたしまして」
陽茉莉はグラスを手に取ると、それを一口飲む。切り立てのライムと上にちょこんと乗ったミントの爽やかな香りが口の中いっぱいに広がった。
「今日はどうしたの?」
カウンター越しに、潤ちゃんがこちらを見つめる。
「んー。またいつもと一緒。頑張って作った資料なのに、猫かぶりに指摘されて一瞬で最初っからやり直しみたいな」
陽茉莉は昼間の出来事を潤ちゃんに話す。ちなみに、『猫かぶり』とは陽茉莉が相澤に付けたあだ名だ。
すごく人当たりがよくて優しそうなのに、仕事を指導する態度はめちゃくちゃストイックで容赦ないのだ。付き合わされるこちらは堪ったものではない。
さらに、お客様や社内の他部と意見が対立したりしてどんなに怒っていても、表面上は穏やかに笑みを浮かべる。けれど、終わった後に「これだから無能な奴は……」と呟いているを陽茉莉は知っている。
まさに『猫かぶり』である。
じっと話を聞いていた潤ちゃんは「困ったわねえ」と呟く。
「全部作り終える前に、途中で確認を入れたらいいんじゃない? これでいいですかって」
「途中で? うーん」
陽茉莉は言葉を濁す。
ただでさえダメ出しが多くてストレスフルなのに、途中でもごちゃごちゃ言われたら嫌だな、と思ってしまう。
でも、確かに今回の件も、途中で一度でも確認しておけば、無駄な作業は格段に減ったはずだ。
「考えてみる」
小さな声でそう答えた陽茉莉を見つめる潤ちゃんは、真っ赤な口紅が塗られた唇に弧を描く。
「陽茉莉ちゃん、入社何年目になったっけ?」
「入社? えーっと、四年目です。でも、営業は一年目」
「そう。じゃあ、わからないことがあっても当たり前の時期なんだから。あんまり難しく考えなくっていいのよ」
「うん、そうだよね。ありがと」
元気づけられた陽茉莉ははにかんだ笑顔で頷く。
きっと明日もなんだかんだあるんだろうなーとは思うけれど、愚痴をこぼしたら気分はだいぶすっきりした。
◆◆ 2
その日、陽茉莉は営業先から直帰した。最寄り駅で電車を降りて時計を確認すると、まだ午後六時だった。
「今日は早く帰れたし、自炊にしようかなー」
駅前のスーパーで材料を物色して、携帯エコバッグに詰めて肩に掛ける。
家に向かい歩く道は、閑静な住宅街だ。
「ケケケ」
途中、ふと耳障りな声が聞こえた気がして陽茉莉はハッとする。
慌てて周囲を警戒するように見回したが、何も見えなかった。
「イイノミツケタ」
今度は間違いなく聞こえ、ご機嫌だった気分は一瞬にして凍り付いた。
(ああっ、もう! またなの?)
陽茉莉は慌てて鞄の中を探る。そして、手探りで探し当てた古ぼけた小さなお守りを、ぎゅっと手に握りしめた。
(大丈夫、大丈夫。お守りがあるんだから)
陽茉莉は手に握りしめた古ぼけたお守りを胸に寄せ、自分にそう言い聞かせた。