今宵、狼神様と契約夫婦になりまして(WEB版)

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「今いる場所からは、何が見える?」
「えーっと、目の前にグローバルタウン港って名前のマンションがあります」

 陽茉莉はちょうど目の前にあった、見るからに高級そうなマンションのエントランスに書いてあった文字を読み上げる。

「わかった。ちょうど裏手だな。その通りからコンビニの看板が見えないか? そこで待っていてくれたら俺が行く」

 通りの進行方向に目を向けると、確かに数百メートル先にコンビニの看板が光っているのが見えた。

「わかりました」

 陽茉莉はスマホの通話を切ると、そのコンビニに向かって歩き始める。
 そのとき、ゾクッとするような寒気がした。

「イイノガイル。モラッチャオウ」

 ヒヒッという笑い声と共に、すぐ近くから聞こえる声。

(この声って……)

 さび付いた蝶番のようにぎこちなく首を回すと、ガリガリに痩せた小人のような男がいた。目がぎょろりと浮き出ており、側頭部には角のような不自然な膨らみ。こちらをまっすぐに見つめて爛々と目を光らせている。

(これ、人間じゃない!)

 すぐにそう気付いた陽茉莉は、走り出す。

(そうだ、お守り!)

 走りながらも慌てて鞄を探っていると、後ろからドンと衝撃を受けた。陽茉莉はその拍子に前に倒れた。

 ──カランカラン。

 弾みで手に持っていたスマートフォンが投げ出され、数メートル先に弾き飛ばされる。

「ツカマエタ」
「ひっ!」

 咄嗟に立ち上がろうと上半身を起こしたタイミングで、にたりと笑う小男が足首を掴む。

 恐怖のあまり声が出ない。

(怖い! 誰か!)

 頭を抱えてぎゅっと目を瞑ったそのとき、どこかから「新山!」と叫ぶ声が聞こえた。

 ぎゅっと体を包み込まれるような感覚。
季節外れの強い風が吹き、「ギャー」と悲鳴が聞こえた。

「新山! 新山! 大丈夫か!?」

 力強く両肩を揺さぶられ、陽茉莉は恐る恐る目を開ける。

「え? 係長?」

 そこには、心配そうに顔を覗き込む上司の相澤がいた。
 珍しく焦ったような様子で、髪の毛も少し乱れている。

 陽茉莉はきょろきょろと辺りを見渡した。

(あれ? あのおかしな化け物は……)

 いつの間にか、陽茉莉に迫ってきた異形のものはいなくなっていた。
 目の前にいるのは相澤だけだ。

「立てるか? 怪我しているな」

 怪我をしていると聞いてふと足を見ると、膝から血が出ていた。恐怖のあまりにほどんど痛みを感じなかったが、さっき転んだときに擦りむいたようだ。

「大した怪我じゃないんで、大丈夫です」

 陽茉莉はそう告げると、慌てて立ち上がろうとする。

 ところがだ。

(あ、あれ……?)

 おかしい。足に力が入らない。

「どうした? 痛むのか?」

 陽茉莉は心配げに問いかけてくる相澤を見上げる。

「…………。すいません。腰が抜けて動けません……」

 その瞬間、相澤の瞳が大きく見開いた。


◆◆    4


 消毒液の独特の匂いが、スンと鼻孔を掠める。

「ちょっと染みるけど我慢して」
「はい」

 次の瞬間、飛び上がりそうな痛みが走る。
 この『ちょっと染みるけど──』って下り、小さな頃からよく聞くけれどちょっとだった試しがない。

「はい。できたよ」
「何から何まで、本当にすみません……」

 陽茉莉は立ち上がって絆創膏のごみを捨てている相澤に、謝罪する。
 腰を抜かした陽茉莉のことを、相澤はおんぶして自宅まで連れて帰った。書類を渡したら用事は済むのでタクシーを拾ってくれと頼んだが、却下されたのだ。

「動けない部下を放置するような鬼畜だと思われているなら、結構ショックなんだが?」
「はい、すいません」

 ぎろりと睨まれると、それ以上反論できるわけもなく。
 そして、こうして傷の手当てまでしてもらったわけである。

(それにしても、いいところに住んでるなー)

 相澤がお茶を用意してくれるというので、待っている間に陽茉莉は室内をきょろきょろと見回す。

 モダンスタイリッシュスタイルというのだろうか。
 目寸で十五畳程度のリビングダイニングの壁には大型テレビ、家具はメタリック調のシンプルなもので統一されている。窓際には観葉植物が置かれていた。

 全体の間取りはわからないが、どう見てもひとり暮らしの男性には広すぎるように見えた。陽茉莉が知る限り、相澤は独身のはずだ。

(彼女さんと一緒に住んでいるのかな? でも、それだと今鉢合わせすると誤解を──)

 グラスを持った相澤がキッチンから戻ってきて、陽茉莉の前にあるガラス張りのローテーブルにトンと置く。

「あの、係長。ありがとうございます。私、これをいただいたら帰りますね」

 陽茉莉は出されたグラスを手に取ると、それを一気に飲み干す。上司の痴情のもつれに巻き込まれるとか、まっぴらごめんだ。
 立ち上がろうとすると、「待て」と相澤に留められた。

「今日みたいなこと、よくあるのか?」
「え?」

 陽茉莉は何のことかと、相澤を見返す。

「邪鬼に襲われていただろう?」

 相澤の言葉に、陽茉莉はハッと息を呑む。
 あの不思議な人ならざる者達は、陽茉莉以外には見えない。
 ずっとそう思っていただけに、陽茉莉は驚いた。

『邪鬼』というのはよくわからないが、きっとあの化け物のことを指しているのだと予想はついた。

「係長、あのお化けが見えたんですか?」
「もちろん。さっきのあれを退治したのは俺だ」
「退治……。係長は陰陽師かなんかなんですか?」
「陰陽師ではないが、似たようなことをしている」

 陽茉莉はまじまじと相澤の顔を見つめる。
 陰陽師なんて、漫画とドラマでしか見たことがないのに、似たようなことをしている?