◆◆ 2
変化はすぐに現れた。
どこからか見られているような、嫌な空気。ハッとして振り返ると、ぽっかりと空いた黒い穴のような虚無な瞳がこちらを物欲しげに見つめていた。
「消えろ」
少し離れた場所から陽茉莉を見守っていた相澤が、いつの間にかその人ならざる者の背後に近付き何かを呟く。風が起こり人ならざる者が苦しみ出したところに祓除札を投げつける。まるで最初からそれに当たることが決まっていたかのように、祓除札は見事に邪気の背中に命中した。
「ギャアア」
耳をつんざくような細い悲鳴と共に、人ならざる者が煙のように消えてゆく。
「やりましたか?」
「いや、今のは陽茉莉の気配に引き付けられて寄ってきた雑魚だ。捜している邪気ではない」
相澤はすぐに首を横に振る。
(違うのか……)
陽茉莉はがっかりすると共に、空恐ろしさを感じた。さっきから、無数の視線を感じるのだ。陽茉莉のことを見つめ、近付くかどうかを思案しているような、そんな視線だった。
(今まで、ここまで視線を感じることなんてなかったのに……)
体は欲しい。けれどどことなくあやかしの気配を感じる陽茉莉に近付いて平気なものだろうか?
そんな警戒しているような視線だ。
「新山ちゃん、大人気だね。ここ最近、急激に神力上がってるんじゃない? 訓練効果かな?」
高塔が呑気に呟きながら、一番近くにいた邪鬼に祓除札を投げる。それも見事に命中し、周囲にいた邪鬼は怯えたように身を隠した。
「ここにはいなさそうだな」
「まだ近くにいるかもしれないから、私、この辺一帯をぐるりと回ってみます」
陽茉莉は辺りを見渡し、まだ歩いていない方向へと歩き始める。
そのとき、ぞくりと冷たいものが背中に走るのを感じた。
「ステキネ。ソノカラダ、ワタシニチョウダイ」
至近距離から、はっきりとそう聞こえた。
陽茉莉はさび付いた蝶番のように、ぎこちなく首を回してそちらを見つめる。道路沿いのツツジの植栽の前には、陽茉莉と同じ位の年頃の女の人が座っていた。
にんまりと笑う顔の半分は血塗れで──。
「ひっ!」
相澤と高塔が捜していたのは、この人だ。
本能的に、すぐにそう感じた。
「ネエ、チョウダイ。ソノカラダガアレバ、カレニアイニイケル」
こんなにはっきりと、しっかりと喋る邪鬼に会うのは初めてだった。それだけに、この人ならざる女性が只者ではないとひしひしと感じる。
「いたぞ!」
高塔が叫ぶ声が聞こえるのと同時に、何かがその女に向かって投げつけられるのが見えた。けれど、女はそれをあざ笑うかのようにひらりと避ける。
「フフフ。ザンネンデシタ」
キャキャッと声を上げてその女が笑う。そして、狙いを定めるように陽茉莉をねっとりと見つめた。
(怖い……)
陽茉莉はぎゅっとショルダーバッグを握りしめ、震える手で中の祓除札に手を伸ばす。
そのときだ。ザッと音がして、女の表情が変わった。ギギギッとぎこちない様子で、女が背後を振り返った。
「残念なのはお前だ。消えろ」
氷のように冷たい口調で、相澤が言う。
女の目が、零れ落ちそうな程に見開かれる。
「ア、ア、ア……。カレニ……」
「お前は既に死んだ人間だ。その男に会いに行くことは許されない。隠世に行くんだ」
「イヤ、イヤー!」
悲痛な叫び声と共に、女の体が霞んでゆく。
陽茉莉はそれを、ただ呆然と見つめた。
「陽茉莉。大丈夫か?」
「う、うん」
陽茉莉は首をこくこくと振る。
「キャアア」
今度は少し離れたほうで嫌な悲鳴が聞こえた。相澤がハッとしたようにそちらを向く。高塔が何かと格闘しているのが見えた。
「ちょっと見てくる。陽茉莉、危ないからここにいて」
「うん。わかった」
陽茉莉は走り去ってゆく相澤の後ろ姿を見つめ、両手で自分の体を包むように抱きしめた。
(相澤係長、いつもこんなことしてるんだ……)
先ほどの消えていった邪鬼達の悲痛な叫び声がまだ耳の奥に残っている。
それがこの世界に住むあやかし達の使命とはいえ、感じる恐怖心は同じだろう。
(それにしても、気味が悪いくらい人が通らないな……)
ここは都心のど真ん中なのにもかかわらず、先ほどから全く通行人を見かけない。周りにお寺が多いことと、既に夜の九時を過ぎていることを考慮しても、奇妙なほどだった。
(人が少ないから、余計に怖いんだよね)
辺りを見回すと、一匹の犬が相澤達が消えた方向の様子を窺っているのが見えた。
銀色の体が、街頭で少しオレンジがかって見える。
(あ。あれ、悠翔君かな?)
「悠翔──」
陽茉莉が呼びかけようとしたそのとき、背後から「すみません」と声をかけられた。
陽茉莉は振り返る。
いつの間にか、そこには三十代前後の男性が立っていた。
「はい、何か?」
陽茉莉はその男性を見上げて首を傾げる。さっきまではいなかったのに、いつの間にこの人はこんな近くに現れたのだろう?
「探し物をしているのですが、見つからないのです。困っているので、貸していただけませんか?」
「貸す? でも、今、私もほとんど何も持っていないんです」
陽茉莉は突然の申し入れに面を食らった。今、陽茉莉は財布とスマホ、ティッシュくらいしか持っていない。
「ああ、それなら大丈夫です。あなたの持っているものなので」
男性はにこりと微笑んだ。
「はあ……」
お金を貸してほしいと言うことだろうか?
確かに、目の前の男性は奇妙なほどに何も持っていなかった。それこそ、鞄のひとつすらも──。