今思えば本当に馬鹿げた理論だけれど、何の前知識もなしに飛び込んだこの店を陽茉莉は思いのほか気に入った。一週間に一度のペースで訪れており、今では本当に行きつけになっている。
「はい、どうぞ」
全部で六席しかないカウンターのひとつに座ると、いつものようにジントニックが差し出される
「潤ちゃん、ありがとう」
「どういたしまして」
陽茉莉はグラスを手に取ると、それを一口飲む。切り立てのライムと上にちょこんと乗ったミントの爽やかな香りが口の中いっぱいに広がった。
「今日はどうしたの?」
カウンター越しに、潤ちゃんがこちらを見つめる。
「んー。またいつもと一緒。頑張って作った資料なのに、猫かぶりに指摘されて一瞬で最初っからやり直しみたいな」
陽茉莉は昼間の出来事を潤ちゃんに話す。ちなみに、『猫かぶり』とは陽茉莉が相澤に付けたあだ名だ。
すごく人当たりがよくて優しそうなのに、仕事を指導する態度はめちゃくちゃストイックで容赦ないのだ。付き合わされるこちらは堪ったものではない。
さらに、お客様や社内の他部と意見が対立したりしてどんなに怒っていても、表面上は穏やかに笑みを浮かべる。けれど、終わった後に「これだから無能な奴は……」と呟いているを陽茉莉は知っている。
まさに『猫かぶり』である。
じっと話を聞いていた潤ちゃんは「困ったわねえ」と呟く。
「全部作り終える前に、途中で確認を入れたらいいんじゃない? これでいいですかって」
「途中で? うーん」
陽茉莉は言葉を濁す。
ただでさえダメ出しが多くてストレスフルなのに、途中でもごちゃごちゃ言われたら嫌だな、と思ってしまう。
でも、確かに今回の件も、途中で一度でも確認しておけば、無駄な作業は格段に減ったはずだ。
「考えてみる」
小さな声でそう答えた陽茉莉を見つめる潤ちゃんは、真っ赤な口紅が塗られた唇に弧を描く。
「陽茉莉ちゃん、入社何年目になったっけ?」
「入社? えーっと、四年目です。でも、営業は一年目」
「そう。じゃあ、わからないことがあっても当たり前の時期なんだから。あんまり難しく考えなくっていいのよ」
「うん、そうだよね。ありがと」
元気づけられた陽茉莉ははにかんだ笑顔で頷く。
きっと明日もなんだかんだあるんだろうなーとは思うけれど、愚痴をこぼしたら気分はだいぶすっきりした。
◆◆ 2
その日、陽茉莉は営業先から直帰した。最寄り駅で電車を降りて時計を確認すると、まだ午後六時だった。
「今日は早く帰れたし、自炊にしようかなー」
駅前のスーパーで材料を物色して、携帯エコバッグに詰めて肩に掛ける。
家に向かい歩く道は、閑静な住宅街だ。
「ケケケ」
途中、ふと耳障りな声が聞こえた気がして陽茉莉はハッとする。
慌てて周囲を警戒するように見回したが、何も見えなかった。
「イイノミツケタ」
今度は間違いなく聞こえ、ご機嫌だった気分は一瞬にして凍り付いた。
(ああっ、もう! またなの?)
陽茉莉は慌てて鞄の中を探る。そして、手探りで探し当てた古ぼけた小さなお守りを、ぎゅっと手に握りしめた。
(大丈夫、大丈夫。お守りがあるんだから)
陽茉莉は手に握りしめた古ぼけたお守りを胸に寄せ、自分にそう言い聞かせた。
◇ ◇ ◇
陽茉莉には昔から、人とは違う不思議なことがあった。それは『人ならざる者が見える』ということだ。
──あれはまだ、幼稚園児の頃だった。
「ねえ、あれは何かな?」
「え?」
公園で遊んでいると、電柱の上に人影を見つけた。
どうやってそこまで登ったのか、落ちるのではないかと心配する陽茉莉をよそに、呑気に座って下を眺めているその子は頭に角の生えた鬼のような姿をしている。
「何もないよ? 陽茉莉ちゃんどうしたの?」
陽茉莉の視線を追ってそちらを眺めた友達がきょとんとした顔をする。
「え?」
陽茉莉は驚いてもう一度そちらを見る。そこにはやっぱり、異形の子供がいた。
必死で説明したけれど友達は首を傾げるばかりで、近くでお喋りをしていたお母さん達は困ったような顔をした。
それからも同じようなことが続いた。
ふとしたときに見かける、髪が長く肌が青白い和装の男性、犬とイノシシを掛け合わせたようなおかしな生き物、角の生えた子供……。けれど、それらは他の人には見えていないのだ。
そして、決定的な事件が起きたのは十歳の頃だった。
ひとりで図書館に本を借りに行った帰り道、ふと「ヒヒッ」と耳障りな嫌な声が背後から聞こえた。ひたひたと後を追いかけてくるような、気味の悪い足音も。
(な、何?)
振り返ってはならない。本能的にそう感じた。
陽茉莉は借りてきたばかりの本を入れた鞄を胸に抱きしめ、足を速める。すると、ひたひたと後を追う足音もそれに合わせるように速まった。
(怖い、逃げないとっ!)
陽茉莉は自宅に向かって走り始める。
その直後、ガシンと背中から何かにのしかかられるような衝撃を受けた陽茉莉は前に倒れた。
「オマエ、イイナ。ホシイナ。ツカマエタ」
ぞっとするような声が背後から聞こえた。
「誰か! 助けて!」
陽茉莉は恐怖のあまり、ぎゅっと目を瞑り半泣きで叫ぶ。
──そのときだ。
視界の端を、シュッと白い何かが横切った。
急に背中から重さが消え、何かが争うような物音。最後に「ギャッ!」という悲鳴が聞こえた。
(な、何が起こったの?)
恐る恐る振り返った陽茉莉は思わず悲鳴を上げた。
(これって、犬? 怪我しているの?)
そこには、一匹の犬がうずくまっていた。
サイズはおばあちゃんの家にいた柴犬と同じ位のサイズだけれど、顔つきが子犬に見えたので、大型犬の子犬なのだと思った。夕陽を浴びた毛並みは輝くオレンジ色に見えるが、元の色は白、もしくは銀だろうか?
(どうしよう。怪我しているのかな?)
その子犬からは、嫌な気配を一切感じない。
どうしても放っておけなくて、陽茉莉は急いで家に帰ると親を連れてもう一度その場に戻った。
犬は前足に怪我をしていた。
陽茉莉は両親と一緒にその犬を近所の動物病院に連れて行って、その子の手当てをしてもらった。明るいところで見ると、とても綺麗な銀色の毛並みだ。
「早く元気になるんだよー」
スーパーで購入した市販品のドッグフードの缶詰をあげたけれど、犬は鼻を寄せただけでプイッと顔を背ける。
「食べないの? じゃあ、これはどう?」
陽茉莉は自分の夕ご飯の唐揚げをひとつ差し出す。
お母さんと陽茉莉で作った、我が家の定番料理だ。
犬は陽茉莉の差し出したそれの匂いをクンクンと嗅ぐと、パクリと囓る。