霧ノ宮(きりのみや)家の屋敷は、空と地のどちらにもなじまずに建っている。
 山間の村の奥というわけではなく、海辺に孤立しているわけでもない。車で走れば半刻で、前の時代には都であった街まで出られる。
 ただそこは、いつも霧が湧き立つ土地だった。来訪者が目をこらした白い世界の先から、旧時代の屋敷が見下ろしていた。
 容助(ようすけ)は車から降りて、喉に入り込む冷気に口をつぐんだ。
 遅れて反対側から降りた友人は、容助の横に並んで屋敷を見上げる。
「新しい時代の始まりに父が建て替えたそうだが、霧ノ宮家は昔からここに居を構えているんだよ」
 彼の父は、流行りの洋館など関心がなかったのだろう。レンガもガラスも取り入れることはなく、光も風も拒むような黒い漆喰(しっくい)で壁を塗り固めていた。
 ここからは見えないが、本邸の奥には離れも点在すると聞く。けれど一族が集まって暮らしているのではないそうだ。
 彼の両親はすでに亡くなり、ここに住むのは彼の姉と彼女に付き従う家僕(かぼく)の二人だけ。
「おかえりなさいませ、清良(きよら)さま」
 声が聞こえるまで、容助はそこに人が住んでいるのを疑っていた。白昼夢から覚めたように目を瞬かせる。
 容助が目を向けた先で一礼した家僕は、黒髪を後ろで束ねた、藍一色の(つむぎ)姿の男だった。背が高く、色白で、作り物めいた目鼻立ちをしていた。
 宵闇のような色の瞳がわずかに笑んだことに気づいたとき、容助は恐れるようで、一方で安心したような、表と裏が合わない感情を抱いた。
「ただいま、イジマ」
 清良が呼んだそれは苗字で、彼は清良の父親違いの兄に当たる。
 母が結婚前に当時の家僕との間にもうけた彼を、清良は兄とは呼ばないが、蔑んでいるのとは違う。
「友人ができたら連れてくる約束だったね。覚えている?」
「もちろんでございます」
 イジマに任せておけば何も心配いらない。清良が彼のことを話す声音は閉塞的なほど親しげで、かえって兄弟より強い絆で結ばれているように感じていた。
 イジマが容助に目を戻したとき、彼は家僕らしい控えめな微笑みを浮かべていた。一瞬抱いた恐れは霧の中に溶けたようで、容助も微笑み返した。
「ご到着をお待ちしておりました。こちらへ」
 イジマは一礼すると、先に立って歩き出した。
 街では桜が満開の季節だというのに、この屋敷に華やいだ花の姿は見えなかった。
 庭師を家に入れたことがないというのは本当なのだろう。木々は剪定らしいものもされておらず、手入れが行き届いた庭とはいえない。
 ただ辺りに満ちる霧が恵みを与えているのか、霊木のような(たちばな)がうねりながら育ち、実をつけていた。
 容助は清良と並んで庭を歩いて、ふと庭先に目を留める。
 けぶる霧雨の中、点在する飛び石を五つほど数えた先で、女性が(せり)を摘んでいた。
 少年と見間違えるような短い髪で、小さな体を籠目(かごめ)模様の着物が包んでいた。女性と見て取れたのは、その線の細さと、芹を摘む手運びのたおやかさだった。
 絹のような黒髪が細かな霧をまとい、少しずつ大気に溶けていきそうに見えた。
 引き留めないと、行ってしまう。そんな錯覚を抱いたとき、容助は足を止めていた。
 彼女は会釈をして、そのまま呼吸を詰めている気配がした。
 迷うときの癖なのか、頬で切りそろえた髪を指で遊び、小さな唇を噛んだのが見えた。
 ふいに彼女は困ったように容助を見上げた。透けるような色白の肌はか弱そうだったが、瞳は宵闇のように静として息づいていた。
 容助が帽子を取って会釈を返すと、彼女はぎこちなく笑った。
 遠からず彼女に引き寄せられていくのは、初めて会ったときからわかっていた。
 その年の春も、深い霧が満ちていた。




 春に(あきら)と出会って以来、夏と秋がめぐり、冬がやって来るのが待ち遠しかった。
 両手で数えきれないほどの来訪を重ねた頃、容助は晶に薔薇の植木を贈った。
「あなたの暮らしを乱すつもりはありません。ただ、ここはあまりに静かすぎるのではと思うのです」
 霧ノ宮家の庭にはどこにも花を植えた形跡がない。育たないのだと晶は言っていた。
 その頃には清良が同席してはいるが、三人で茶菓をつまみながら午後を過ごすことも多かった。
「近頃西洋から輸入したこの花は冬も越します。ひとまず植木として鑑賞いただくだけでも」
「強い花なのですね」
 晶は決して(あら)い物言いをする女性ではなかったが、この時は子どもように口の端を下げて薔薇を見た。
 容助が心配そうに眉を寄せると、晶は首を横に振る。
「お気持ちは、何よりうれしくいただいています。ただ少し、ここに来てはかわいそうに思うだけなのです」
 晶は窓の外に枝を伸ばす橘を見上げた。
「あの橘のように、この地の霧の中でしか生きられないものとは違います。本来なら陽射しの中で伸び伸びと咲くのではないでしょうか」
 一度目を伏せて、晶は穏やかに問いかけた。
「近頃事業はいかがですか」
 晶が意図的に話題を変えたのは容助にも伝わっていたから、無理に花の話題を続けようとはしなかった。
 港に日々行き交う商船のこと、取引が成功したときの興奮、清良と今も時々学生の頃のように馬鹿な失敗談で盛り上がってしまうことなど、容助が苦笑しながら言うと、晶は思わずといったように笑った。
「弟によくしてくださって、本当に感謝しています」
 晶は安心したような微笑に落ち着いて言った。
「心配で仕方がなかったのです。両親が亡くなってから自分がしっかりしなければとがんばっていたのは知っていますけど、無理をしていたでしょう。優しい子ですから、私に助けを求めてはくれませんでしたけど」
「姉さん」
「そうでしょうね」
 とがめるように言いかけた清良に、容助も苦笑をこぼして同意する。
「いつでも商店に様子を見にいらしてください。ご案内しますよ」
 容助の提案に、晶はまた子どものように頼りなげな表情をした。
 容助がその反応に次の言葉を探していると、壁際に控えていたイジマが近寄って、何か晶に耳打ちする。
「そろそろ……。お話の途中でごめんなさいね。あまり長く座っているのに慣れないものですから」
 晶は青白い顔でわびると、イジマに連れられてそっと退出していった。
 残った容助と清良は、学院の頃のように二人冷たい珈琲を飲む。
 容助がカップを置くと、彼が何か大事な話を始める気配を感じたのだろう。清良が目を上げて容助を見た。
「西の都に拠を移そうと思う」
 容助が父から受け継いだ事業を成功させることができたのは、共に事業を営む清良の力のおかげだった。
 ただ清良を信頼するのは、一見違う話をする中ににじんだ容助の本音を拾ってくれる、清良の(さと)さを好んでいるからだった。
 清良は今回もすぐに容助の意図を察したようだった。他の友人なら怒るかもしれない提案を、一つ返事で受け止めた。
「代わりに僕が本社を守ればいいんだね」
「すまない。任せるのは君が適任なんだ」
 清良はその有能さに似合わず、霧ノ宮家の近くであればどこででも勤めると言っていた。その彼から唯一の希望を取り上げるようなことをする容助に、清良はその上品さで何の不満も口にしなかった。
 容助はふと清良の目を見た。顔かたちそのものよりも、どこにも粗さがなく、優しく人を見る仕草が彼女とよく似ていた。
 清良は容助の引け目のような感情に気づいたのか、先に口を開いた。
「気にしないでくれ。社長の君が決めることだ。西洋から花を取り寄せて携える勇気は、僕にない君の良さだよ」
 清良は容助が持参した鉢植えに目を細めて言う。容助は眉を上げた。
「彼女を不快にさせただろうか?」
「いや、君の持つ生命力をうらやましく感じたんだろう」
 容助が友人の言葉を理解できないでいると、清良は苦笑を返した。
「僕と姉は古い時代の人間でね。二人だけだったらとうに滅びていたと思う」
 清良の父は伯爵でありながら事業家の性を持っていて、新しい時代に変わったのを機に次々と商いを始めたと聞く。清良は父親以上に早くから事業に携わったのに、彼にはまるで事業家の我欲が備わっていなかった。
「でも、イジマが同意するかは確認していいかな」
 姉ではなくその異父兄の同意と口にしたのは、容助も予想していた。
 幼少の頃に亡くした彼らの両親の代わりに、霧ノ宮家を切り盛りしてきた家僕、それがイジマ。
 それは番人のようで支配者のようにも聞こえるのは、容助が晶に抱く感情のせいだと今は理解している。
「俺から話す」
 容助の言葉は、もしかしたら清良の抱く異父兄への敬愛を傷つけたかもしれない。
 ただ清良がそれに怒るような小さな心の持ち主であったなら、ずっと前に容助と分かたれていただろう。
 清良はカップの水面を見下ろして、そこに映る自分を少し見たようだった。
 清良は笑って、その変化に戸惑った容助に言った。
「それでいい。姉もそれを望むと思う」
 宵闇に似た瞳を伏せて、清良はうなずいた。
「昔から姉さんの思うことはよくわかるんだ」
 窓を糸のような雨が濡らして、少しずつ現世を溶かしていくようだった。



 
 街で雪が降る頃になっても、霧ノ宮家は(ゆう)とした霧に満ちていた。
 訪れた容助がイジマに話を持ち掛けると、彼はいつもの客間ではなく、庭を見渡せる小さな茶室に容助を通した。
 イジマが茶器を取って自ら給仕を始めようとすると、容助はそれを制した。
「いいんだ。あなたは私の家僕ではない」
 容助の言葉に、イジマは納得したようには見えなかった。命じられたときのように慎ましやかに茶器を引き寄せ、元通りに置いた。
 開け放った障子の向こうにのぞく庭を、晶と清良が渡っていく。もう異性の姉弟が並んで散歩をする年頃ではないのに、それが休日の二人の習慣らしかった。
 容助は向かいのイジマに目を移して、彼が晶たちをみつめるまなざしに目を留めた。清良に嫉妬さえした容助には理解できなくて当然なのかもしれないが、イジマのまなざしは恐れを抱かせるほど静かだった。
 家僕であり異父兄である、その複雑な立場でどうしてそのようにみつめることができるのか。容助はそれが愛だと言われれば、言い返せない気がした。
「晶さんに結婚を申し込む」
 容助が切り出したとき、イジマの反応は清良のときとは違った。
 困ったように同意を告げた清良とは対照的に、イジマは遠い世界を懐かしむように目を伏せて、何も答えなかった。
「あなたは晶さんの兄だ。あなたは認めてくれるか」
 家僕は答えるべきにあらずと断ることも、彼はできたのだろう。
 イジマは庭を見やって小さく息をつくと、衣ずれの音もなく腰を上げる。
「少し出ませんか」
 容助は彼の意図がわからないまま、一息遅れて立ち上がった。
 庭に出て白い世界を歩くのは、思っていたより快かった。初めて来たときは冷たく感じた霧は、通ううちに容助の体になじんでいた。
 雪のように足跡が残るわけではないが、晶と清良が先に歩いた気配が残っているかのように、イジマは迷いなく足を進める。
 容助だけなら迷っていただろう庭の中は、イジマにとっては目を閉じても歩くことができるものらしい。まもなくして、彼は橘の木の下で足を止めた。
「昔、ここから発たれた御方がいらっしゃいました」
 大鷹のように枝を広げる橘はめったに出会えるものではない。冬枯れの季節に色がほとんど消えていても、古い神のようにイジマたちを見下ろしていた。
「私はここでお待ちしていました。お帰りになるのを望みながら、現世に解き放たれ、自由に生きてくださるのも望んでいました」
 霧の中で、イジマの声が震えた。平静に見える彼にもそのような感情があったのだと、容助には意外に思えた。
「変わらない時代をごらんになりますか」
 ふいに容助は、橘の木の向こうで子どもが遊ぶ声を聞いた気がした。
 恐れの感情は一瞬で、すぐにそれは懐かしさに変わった。よく知っている。少年の頃の容助自身の声だった。
 そこに重なるもう一つの声は、晶の幼い頃のものだと確信があった。知っているはずもないのに、それ以外のものとはとても思えなかった。
 次第に子どもたちは成長し、無邪気な遊び声は絶えた。代わりにたくさんの人々が辺りで見守っている気配がした。
「宮、井嶌(いじま)の君に姫宮を降嫁(こうか)なさいませ。ほら、あのように影のように寄り添って」
 人々は扇の下で声をひそめるようにさざめきあう。
「霧の向こうからいらした姫は、やはり同じ世からおいでになった方と一緒になるのがお幸せなのです」
 そうだろうか。私たちは同じ世でめぐりあい、兄妹のように片時も離れずに育った。
 永遠ではなくとも、永遠を誓って過ごしたのに?
「井嶌の君は宮の忠実な臣下ではありませぬか」
 春は過ぎ、夏と秋はめぐり、冬がやって来る。何度季節がめぐっても、無邪気に遊んでいた時は戻ってこない。
 夜、大人になった少女は迷子のような足取りで、橘の下に漂う霧の中へ向かっていく。
「姫君は宮の御為(おんため)に発たれたのです。そのようにご自分を責めぬよう」
 私のせいなのだ。私が現世で成就できぬ夢を描いたから。
 霧は深く白く、どこにもたどり着くことのないままのしかかる。
 宵の頃、霧なのか生きたものなのかもわからない何かが訪れて言った。
「姫君は幽世(ゆうせい)の霧の中。私の弟が、今しばらく姫をお引き留めしているでしょう」
 手を差し伸べるような優しい声で、それは言った。
「長い旅に発つ準備はよろしいですか。霧ノ宮」
 容助は宵闇の色の瞳で霧の中をみつめて、遠い昔の自分の心に耳を澄ませていた。





 一つともした灯りの側で、イジマは晶の髪を梳かしていた。
 晶は鏡台の前に座って、鏡の先に揺れる灯りをみつめていた。
「ごらんください。このように美しい花嫁はおられません」
 晶は問うように鏡の向こうの自分に首を傾げた。
 湯あみの後に髪が張り付いた襟首は赤くなっている。イジマがすぐに乾かしてくれなければ発疹の元になるほど、晶の肌は昔から弱かった。
 イジマは晶の髪に指を通しながら優しく言った。
「絹のような御髪でいらっしゃる。首が座る前からイジマが大切に整えて参りました」
 晶の髪は、肌を痛めないようにとイジマが常に短く切りそろえていた。女性としては短すぎて、晶は幼い頃泣いたこともあった。
 晶の髪を整え終えると、イジマは彼女を自分の方に向けて座らせた。
「私たちはいついつまでも同じときを歩いてきましたね」
 イジマは兄と僕の感情がないまぜになったような目で晶をみつめて言う。
「私はあなたが望むのなら寂しくはない。新しい時も、あなたを包む霧となってみつめていましょう」
 晶の頬を包みながら、イジマは問いかけた。
「あの方をお迎えしますか、姫」
 イジマの問いに、晶は小さく震えて、少しずつ表情を変えていった。
 やがて霧の中で静として咲く花のような、確かな笑顔となってうなずく。
「はい」
 イジマは彼女と同じ色の瞳で笑んで、彼女を元通りに鏡の前に座らせた。
 一面の花畑のような白いレースを広げて、晶にまとわせる。
 幼い日から晶の衣はイジマが一人で繕ってきた。積み重ねた時の先に出来上がった、海の向こうの真っ白なドレスは、晶の肌によく映えていた。
 イジマは晶の手を支えながら、霧の満ちる外気に踏み出す。
 庭の一角では薔薇が満開となっていた。遠く離れた国からやってきた異の種は、この地の深い霧でさえ心地よさそうに花開いた。
 白の燕尾服をまとって待っていた容助は、照れたように花嫁に笑いかけた。
 清良が進み出て、異国の言葉で書かれた書をイジマに手渡す。
「これより、霧ノ世において婚礼を始めましょう」
 イジマは本を開いて、祝福の言葉を紡いだ。
 彼らは少しずつ変わりながら繰り返す。人の世と幽世が混ざる霧の屋敷に戻って来る。
 それは遠い昔ではなく、新しい時代となった後も続く光景。
 今宵、霧ノ宮家の婚礼が始まる。