タクシーを降りて、駆け足で階段を下りる。急く気持ちと共に、バーのドアを勢いよく開けた。耳に飛び込んできたジャズと、視界に入る俊君の驚いた顔。そして、カウンターに腰掛けた鈴木君がこちらを向いた。

 僅かな渋滞に巻き込まれたタクシーよりも、東京駅から電車でやってきた鈴木君の方が早くここへ着いていたらしい。
 カツカツと怒ったようにヒールを鳴らして近寄ると、鈴木君は眉根を下げて困ったような顔を向けくる。

「いらっしゃい、スミレちゃん。はい、おしぼり」

 不安と焦りで、どうにも感情のコントロールがきかない私に、俊君がいつも通りに接客してくれる。渡されたおしぼりを握り、ストンと鈴木君の隣に腰かければ涙があふれてきて、そのままおしぼりを目に当てた。いつも通りの鈴木君が目の前にいるという現実に安堵して、感情が決壊する。

「ごめん、望月さん。……心配してくれてたんだよね」
「よかった……。よかった……」

 こぼれ出す言葉は数少なくて。心から安堵した気持ちに、涙がじわりじわりとおしぼりへ染み込んでいった。

 おしぼりを目に当てたまま俯いてしまった肩に、鈴木君の手が優しく触れる。置かれた手が温かい。ちゃんと体温があって、ちゃんと目の前にいる。鈴木君は、目の前にいる。

 洸太の言った通り、鈴木君は元気だった。だから、泣くなんておかしい。なのに、しばらく涙は止まらなくて、二人を困らせてしまった。

 バーだというのに俊君が気を利かせて、温かなハーブティを淹れてくれた。透明な耐熱カップの中で、優しい色をしたハーブティーが柔らかな香りと共に湯気を上げている。
 それをゆっくり口へと運ぶ。温かさと優しい香りが、じんわりと心に染み込んできた。

「ありがとう、俊君」
「連絡くれたのに、返さなくてごめん。ちょっと、取り込んでて……」

 そこで鈴木君が切なげな表情をする。電話が繋がった時と同じように、私は首を横に振った。

「明日から、またいつも通りに出社するから」
「私こそ、ごめん。勝手に、……なんて言うか、慌ててしまって……」

 奏太のことを話した後だから、余計に心がざわついたのだろう。

「望月さんに“大丈夫”って訊かれた時、正直、嬉しかった」

 鈴木君は静かな声で、瞳を優しく三日月にした。

 店に入って私が落ち着いた頃に、バーは少し賑やかさを増していた。テーブル席は埋まり、カウンター席も一組のカップルが座っている。

「ほんと。ごめんね、鈴木君」

 さっき泣いてしまった事を謝ると、「気にしなくていいから」と彼は優しい表情をする。

 カクテルを忙しく作る俊君の姿を一瞥した鈴木君は、静かに口を開いた。

「場所、変えてもいいかな?」

 彼が抱える何かを話すには、今日のここは少し賑やかで、他人との距離が近すぎるのだろう。頷きを返すと、俊君に声をかけて私たちはバーを後にした。

 どこへともなく並んで歩く歩調は、やっぱり私と合っていて。花見をしようと張り切ってくれた、あの時と同じ優しさを感じた。
 違うのは、ワクワクするように上がっていく感情の代わりに、胸の奥を苦しくさせるような何かが待ち構えているということ。救いは、夜が少しだけ暖かさを増していたことだった。

「母親のところへ、行ってたんだ」

 歩きながら、ポツリと鈴木君が言葉を零した。彼に視線を向けると、鈴木君の瞳は夜の色に黒く染まったアスファルトを見ていた。街頭の明かりでできた、自らの影を追い越そうとでもするように、ひたすら足を前に出している。

「父は、僕が中学に入った年に病気で他界していて。母は、元々体が丈夫な方じゃなかったから、父が消えてしまった現実を、うまく受け入れられなくてね。よく体を壊したし、気弱なことばかり言っていたよ。それでも、生活はしていかなくちゃいけない。僕も中学生になったばかりで、社会に出て父のように稼げるわけでもないし。だから、どんなに父のことで気持ちが塞いでいても、母が働かざるを得なくて……」

 語尾が震えていて、躊躇いが窺える。
 次の言葉を探すように、彼の足は自らの影を追いかける。そうしていけば、その先に必ずいい答えがあるとでもいうように。

 月は時々雲に隠れ、ゆっくりと顔を出しては影を際立たせていた。

 少しの間口を閉ざしたあと、再び鈴木君が話だす。

「母は、父に対してとても依存が強くて。全てを父に頼り切りで。そんなんだからか、父が居なくなってから、母は少しずつ壊れてしまったんだ」

 壊れてしまった……。

 その言い方は、まるでおもちゃでも壊れてしまったような物言いだけれど、そんな風に話すことで抱える辛さを誤魔化している気がした。

「初めは、母の言っていることや、やることがわからなかった。父はもういないのに、食卓には三人分の食事が並んでた。誰もいない部屋で、アルバムを見ながらまるで父と話しているように会話もしていた。父のスーツを、何度もクリーニングへ出すこともあったし。ひたすら電話の前で、父からの連絡を待っていたこともある――――」

 そこまで話したところで、桜を見たあの公園の入り口にたどり着いていた。二人で人気(ひとけ)のない公園に踏み込み、あの時と同じベンチに並んで腰掛けた。桜はすでに散っていて、緑の葉をつけた枝が暗い空に向かって伸びていた。

「僕という子供を抱えて、生活していかなくちゃならないプレッシャーと。父がいなくなって心細い感情に挟まれた母は、現実を受け入れられなかったんだ……。僕は何とか母の支えになろうとしたけれど、父の代わりになることはできなくて。俊に相談したら、そんなの当然だって言われた……」

 そこで鈴木君が、苦笑いを零して俯いた。

「母が求めていたのは、目の前にいる僕ではなく、父だけだった。生きている僕じゃなく、もう死んでしまった父だけ……。それがとてつもなく悲しくて、悔しかった。けど俊は、誰も父の代わりになることなんて、できるはずないんだから気にするなって。父は父だし。僕は僕だって。何度もそう言ってくれたんだ」

 鈴木君が、膝の上でこぶしを握った。すぐそばにいるのに、力になることができない現実というのは、どれほど自分が無力かを思い知らされる。それが家族なら、なおさらだ……。

 今の鈴木君に、洸太の存在が重なった。洸太も、こんな風に悔しくて悲しい毎日を過ごしてきたのだろうか。奏太の代わりになれない自分を、日々悔やんできたのかもしれない。

「結局、僕が高校生の頃、母は入院することになってしまって。しばらくは、学校と病院の往復が続いてた。担任は、成績が下がっていくのを心配して、親せきを頼りなさいなんて、簡単に言っていたけど。みんな、それぞれに生活があるわけだからね……」

 静かに息を零し、鈴木君が夜空を見上げる。夜の中に浮かびある桜の葉は黒々としていて、昼間に見る新しく芽吹き始めた生命力は欠片もうかがえない。まるで力強さを失ったように、ただそこに存在している、というだけに見えた。

 夜の闇に、貼り付いた黒。生命力よりも無機質さが際立って、まるで感情を殺そうとしている鈴木君と重なる。

「会社を休んだのは、母がね……。自分を傷つけてしまったからなんだ……。初めてのことじゃないんだけど、ここ最近はずっと落ち着いていてそういうことはなかったから、僕も油断してた……」

 地面に向かって零す言葉は力なく、肩も落ちている。

 鈴木君は、今きっと自分を責めている。
 お父さんが亡くなったことも、お母さんのことも、すべて自分のせいだと思っている気がしてならなかった。家族のことだから心配するのは当然だけれど、責めるのは違う。鈴木君が、その責任を感じて心を痛めるのは違う。

「ずっと病室で付きっきりだったから、連絡できなくて……」

 私にまで申し訳ない顔を向けるから、胸が苦しくなった。いつもあんなに穏やかで優しい笑みを見せる鈴木君に、こんな顔させたくない。彼には、笑っていてもらいたい。三日月みたいに目を細めて、陽だまりみたいな笑顔でいて欲しい。

 本当なら、新たな年が始まる季節だ。新入社員が入ってきて、新たな時期を迎えて心躍る季節だ。なのに、隣に座る鈴木君には、そんな明るい未来などないのだとでも言うくらい、彼の肩は落ち背中が丸まっている。

 俊君が言っていた。自分よりも、渉の方がずっと大変な思いをしているって。その意味を知り、不条理な世界は、きっとあちこちに転がっているのだろうと思わざるを得ない。

 洸太が鈴木君に私を近づけないようにしていたのは、きっとこの事実を知っていたからなのだろう。
 奏太のことであんな風になってしまった私の手に負えるはずがないと、洸太なりに気を利かせてくれたのだろう。

 洸太の気持ちはわかる。立場が逆なら、私だって必死に止めていただろう。鈴木君と一緒にいることで相手の心に共感しすぎて悩んで気持ちを沈ませる事は、容易に想像がつくからだ。

 それでも尚、放っておけない。こんな風に話す彼のそばを、離れるなんてできない。眼鏡の奥で本当はいつだって泣いてしまいたいと思っているその瞳を想像すれば、離れるわけにはいかないよ。

 これは、情け?

わからない。わからないけど、今離れたらきっと後悔する。見て見ぬ振りをして、掌の中に握りつぶして隠してしまえるような、そんなことじゃない。

「鈴木君」

 話し終えた鈴木君が、隣に座る私へと悲し気な視線を向けた。
 話してしまったことを後悔しているのか。それとも、話してしまったことで、少しはホッとできているのか。その表情からは、読み取れない。
 ただ、思ったんだ。

「よく頑張ったね」

 鈴木君の頭を引き寄せ、彼を胸に抱き寄せた。
 驚いた彼は僅かに身じろいだけれど、私が頑なに彼を抱きしめ続けて放さないとわかると、ふっと力を抜いた。そして、子供みたいに背中にしがみついたんだ。

 鈴木君の大きな背中に手を当て、何度も彼の背中を撫でた。胸の辺りがほんのり温かみをました時、私は彼の涙を知った。
 鈴木君の涙を、知った――――。