で、千藤さんの奥さまの多恵さんは昔、辺唐院家で家政婦さんとして働いていらっしゃって、家政婦さんをお辞めになる時に純也さんからこの家と土地をプレゼントされて、ご夫婦でこの農園を始められたそうなんです。
まさか、ここに来て純也さんの名前を聞くとは思わなかったんで、わたしは本当にビックリして。「もしかして、純也さんが〝あしながおじさん〟!?」とか思っちゃったりもしたんですけど……。まさか違いますよね? だってそれじゃ、『あしながおじさん』の物語そのままですもんね?
とにかく、自然がいっぱいのここの環境は、山で育ったわたしには居心地がよさそうです。千藤さんご夫妻が、農業のこととか色々教えて下さるそうで、わたしはそれがすごく楽しみです。
おじさま、こんなステキな夏をわたしにプレゼントして下さって本当にありがとうございます! 感謝の気持ちを込めて。 かしこ
七月二十一日 愛美』
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――荷解きをしているうちに、夕方の六時を過ぎていた。
「愛美ちゃん、ゴハンにしましょう!」
多恵さんが二階の部屋まで、愛美を呼びに来た。
「はーい! 今行きます!」
すっかりお腹がペコペコの愛美が一階のダイニングキッチンに下りていくと、キッチンでは多恵さんの他に若い女性も料理の盛り付けをしているところ。
肩にかかるくらいのセミロングの髪をした、身長百六十センチくらいの女性。――彼女が佳織さんだろうか?
「――あの、わたしも何かお手伝いしましょうか?」
愛美が声をかけると、多恵さんがニコニコと指示を出してくれた。
「あらそう? じゃあ、盛り付けたサラダとスプーンとフォークをテーブルまで運んでもらえる? ――佳織ちゃん、食器のある場所、愛美ちゃんに教えてあげて」
「はい、おかみさん」
〝佳織ちゃん〟と呼ばれたその女性が、快く返事をした。
「愛美ちゃん、食器棚はコレ。スプーンは左の引き出し、フォークは真ん中ね」
「はい。――えっと、平川佳織さん……ですよね? 天野さんとお付き合いしてるっていう」
人数分のカトラリーを取り出しながら、愛美がそれとなく訊いてみると。
「……んもう。あの人ってば、もう愛美ちゃんに喋っちゃったんだ?」
佳織さんは、顔を真っ赤に染めてそう言った。どうやら、天野さんの話は本当らしい。
「あたしと彼の関係は、ご主人とおかみさんには内緒なの。……まあ、気づいてらっしゃるかもしれないけど。彼はあたしより三つ年上なんだけど、農業に対する姿勢とか、そういうところがステキだなって思ったんだ」
「それで恋しちゃったんですね。天野さんも、佳織さんも」
佳織さんは照れながらも、「うん」と頷いた。
「恋する気持ちだけは、誰にも止められないからね。――愛美ちゃんは、好きな人いるの?」
「……はい。実は、純也さんなんです。ここの元の持ち主だった」
「えっ!? そうなの? うーん、そっか。頑張ってね」
「はいっ!」
まさかこの場で、ガールズトークが盛り上がるとは。愛美は佳織さんのことを、この短時間で身近に感じられるようになった。
「――さて、早く夕飯の支度終えないと。テーブルでウチの腹ペコどもが騒ぎ出しちゃうね」
「そうですね。じゃあサラダとコレ、お盆に載せて運びます」
「うん、お願い」
****
――夕食のメニューは夏野菜たっぷりのカレーライスとサラダ、デザートにはこの農園の果樹園で採れたフルーツ入りのヨーグルト。
そして、農業が初体験の愛美のおかしな質問によって、とても賑やかで楽しい食卓となった。
「――多恵さん。昔の純也さんのお話、もっと聞かせてもらえませんか?」
多恵さんと佳織さんと一緒に、食後の洗いものの片付けを手伝いながら、愛美は多恵さんに頼んでみた。
「えっ、坊っちゃんの話?」
「はい。わたし、大人になってからの純也さんのことしか知らないから。もっとあの人のこと知りたいんです。多恵さんなら色々ご存じなんじゃないかと思って」
好きな人のことなら、何でも知りたい。そして、ここには昔のあの人のことをよく知っていそうな元家政婦さんがいる。
「いいわよ。じゃあ、ここが片付いたら私について来てちょうだいな」
「いいんですか? ありがとうございます!」
多恵さんは愛美の頼みを快諾してくれた。彼女に聞こえないように、佳織が声をひそめて愛美にささやく。
「よかったね、愛美ちゃん。純也坊っちゃんのお話、聞かせてもらえて」
「はい。――あ、このお皿、どこにしまったらいいですか?」
愛美は張り切って、水切りが終わったカレー皿を取り上げた。
****
――愛美が多恵さんに連れられて来たのは、この家の屋根裏部屋だった。
「純也坊っちゃんはね、子供のころ喘息を患ってらして。十一歳くらいの頃の夏に、ここでご静養なさってたの。私も一緒にここに滞在して、坊っちゃんのお世話をしてたのよ」
「えっ? 喘息……」
つい最近会った純也さんからは、そんな様子は感じ取れなかったけれど。
「今はもう何ともないそうよ。それに、発作さえ起きなければ、普段はお元気そうだったし。冒険好きのお子さんでね、ほとんど毎日外を走り回ってらしたわ。それで、泥だらけになって帰ってらしたの」
「へえ……、そうなんですか。子供らしいお子さんだったんですね。……っていうのもヘンな言い方ですけど」
愛美の言い方は、ある意味的を射ていたのかもしれない。
お金持ちのお坊っちゃん、それもあの辺唐院家の子息なら、もっとツンケンしていて大人びている子供でもおかしくなかったはずなのに。珠莉を知っているから、余計にそう思うのだろうか。
「そうね。正義感もお強かったし、それでいていたずらっ子なところもおありだったわ。でも、そこが憎めないのよ。私も、母親になったみたいな気持ちで坊っちゃんのお世話をさせて頂いてたわ」
「フフフッ。多恵さん、純也さんが可愛くて仕方なかったんですね」
愛美は微笑ましくその話を聞いていた。これが実の母親だったら、なんという親バカだろうか。
(なんか、今でもここに純也さんがいそうな感じがする。それも、無邪気な子供時代の)
――泥んこになるまで遊びまわって、帰ってきたら多恵さんに「お腹すいたー! おやつま~だ~?」とねだっている純也少年の姿が、愛美の脳裏に浮かんだ。
「中学を卒業されてからは、ここにはあまり来られなくなったんだけど。最近はきっと、お仕事がお忙しいのかしらねえ」
「そうですか……。でも、連絡は来るんでしょう?」
彼はきっと、情に厚い人のはず。昔お世話になった恩人に連絡をしないわけがない。
「ええ。毎年、夏になるとお電話を下さるわよ。でも今年はまだだわね」
「そうなんですか。――多恵さん、色々教えて下さってありがとうございました」
これだけ話を聞かせてもらえれば、愛美は満足だ。彼の幼い頃を知ったおかげで、彼のことをもっと好きになれる気がしたから。
「いえいえ、どういたしまして。――ねえ愛美ちゃん、もしかして坊っちゃんに恋してるんじゃないの?」
「……はい。でも、どうして分かったんですか?」
「フフッ。だって、私もオンナだもの。この年齢になってもね」
多恵さんにも、愛美の彼への恋心はバレバレだったらしい。自分では、うまく隠していたつもりだったのだけれど。
(は~~~~、もうヤダヤダ! なんでこんなにダダ漏れなの!?)
初恋ってこんなものだろうか? 「好き」という気持ちがうまく隠せなくて、思いっきり顔に出ているとか。
(もうちょっとオトナになって、感情をうまく隠すスキルを身につけないと……)
愛美はそう固く決心した。――それはさておき。
「多恵さん、わたしはもうちょっとここに残っててもいいですか? 多恵さんは先に下りて休んで下さい」
愛美は彼女にそう言った。
幼い頃の純也さんと、もう少し〝二人きりで対話〟したくなったのだ。彼の人となりをもっと知りたい。そして持ち前の想像力で、自分なりにその頃の彼のイメージを膨らませたい。
「ええ、どうぞ。じゃあ、私は先に休ませてもらうわね。愛美ちゃん、おやすみなさい」
――多恵さんが下の階に下りていくと、愛美は広い屋根裏部屋の隅から隅まで歩き回ってみた。
「……ん? 何だろ、コレ? 本……かなあ」
手に取ったのは、ホコリを被った小さなテーブルの上に無造作に置かれていた一冊のハードカバーの本。タイトルは聞いたことがないけれど、どうも海外の冒険小説の日本語翻訳版らしい。
表紙を開き、見開きの部分に見つけたおかしな落書きに、愛美は思わず笑ってしまった。
そこには、子供が書きなぐったような字でこう書かれていた。
『この本が迷子になってたら、ちゃんと手をひいてぼくのところに連れて帰ってきてほしいです。辺唐院じゅんや』
「やだ、なにコレ? 可愛い」
ここで静養していた頃に、純也が気に入って読んでいた本らしい。もうページはどこもクタクタだし、あちこちに小さな手形がついている。
「純也さんって、子供の頃から読書好きだったんだ……」
初めて学校で愛美に会った時に、彼は「読書好きだ」と言っていたけれど。その原点がここにあったとは。
この屋根裏に残されている彼の痕跡は、これだけではない。
水鉄砲、飛行機の模型、野球のボールやグローブ……。男の子が外で喜んで遊びそうなものがたくさんある。
(わたしも、子供の頃の純也さんに会ってみたかったな……。そうだ! 今度会った時、ここのこと彼に話してみようかな)
彼はどんな顔をするんだろう? 照れ臭そうにするかな? それとも得意そうに微笑むのかな……?
愛美は本を手にしたまま、自分の部屋に戻った。彼が夢中になって読み耽っていた本。その面白さを共有したいと思った。
――そしてその夜、愛美が昼間に書いた手紙には続きが書き足された。
****
『おじさま、今は夜の九時です。
この手紙は午後に一度書き上げてましたけど、あのあと書きたいことが増えたので少し書き足します。
夕食の後、多恵さんから純也さんの子供の頃のお話を聞かせて頂きました。
彼は昔喘息があって、十一歳くらいの頃にここで静養してたそうです。でも発作が起きない時はお元気だったそうで、ほとんど毎日泥んこになるまで外で遊び回ってたらしいです。
この家の屋根裏には、彼のお気に入りの本や遊び道具がたくさん残ってます。きっと、雨降りで外で遊べない時に、そこで過ごしてたんじゃないかな。
彼は子供の頃から読書好きだったみたい。そして無邪気で素直で、正義感も強かったんだと多恵さんは教えて下さいました。
わたし、彼の幼い頃のことを知って、ますます彼のことが好きになりました。お金持ちの御曹司で青年実業家の純也さんではなく、〝辺唐院純也〟という一人の男性として。決して打算なんかじゃありません!
今度こそ、これで失礼します。おじさま、おやすみなさい。 』
****
――夏休みが始まって約一ヶ月が過ぎた。
愛美も農作業にすっかり慣れ、夏野菜の収穫や採れた野菜での簡単なピクルスの作り方などをマスターした頃。千藤家に一本の電話がかかってきた。
「――はい、千藤でございます」
『もしもし、多恵さん? 僕だよ。純也だよ』
「純也坊っちゃん! お元気そうで何よりです。――あ、今こちらに相川愛美さんがいらしてるんですよ。ちょっと代わりますね」
多恵さんは大はしゃぎで答えたあと、キッチンで手伝いをしていた愛美を手招きした。
「愛美ちゃん、純也坊っちゃんから。ハイ」
リビングで彼女から受話器を受け取った愛美は、嬉しさと緊張半々で電話に出た。
「……も、もしもし。愛美です。あの、お久しぶりです」
何せ、彼と言葉を交わすのは五月以来のことなんだから。
『うん、久しぶり。元気そうだね。そっちでの夏休みは楽しい?』
「はい! すごく楽しいし、色々と勉強になってます。千藤さんも多恵さんもよくして下さってるし」
電話に出るまでは緊張していたのに、彼の声を聞いた途端にそれはすぐに解れてしまう。
『そっか、それはよかった。――あのさ、愛美ちゃん。僕は今年の夏も仕事が立て込んでてね。悪いけどそっちには行けそうもないんだ。そう多恵さんに伝えてもらえるかな? 申し訳ないんだけど』
「……はい、お忙しいんじゃ仕方ないですよね。分かりました。伝えておきます。――もう一度、多恵さんに代わりましょうか?」
すぐ側で、多恵さんがまだ話したそうにソワソワと待っている。
『うん、そうしてもらえる? 悪いね』
「いえいえ。――多恵さん、純也さんがもう一度多恵さんに代わってほしいそうです」
愛美は受話器の通話口を押さえ、多恵さんに受話器を差し出したのだった。
――夏休みが終わる一週間前、愛美は〈双葉寮〉に帰ってきた。
「お~い、愛美! お帰り!」
大荷物を引きずって二階の部屋に入ろうとすると、一足先に帰ってきていたさやかが出迎えてくれて、荷物を部屋に入れるのを手伝ってくれた。
「あ、ありがと、さやかちゃん。ただいま」
「どういたしまして。――で、どうだった? 農園での夏休みは。楽しかった?」
さやかはそのまま愛美の部屋に残り、愛美の土産話を聞きたがる。
愛美はベッドに腰かけ、座卓の前に座っているさやかに語りかけた。
「うん、楽しかったよ。農作業とか色々体験させてもらったし、お料理も教えてもらったし。すごく充実した一ヶ月間だった」
「へえ、よかったね」
「うん! いいところだったよー。自然がいっぱいで、空気も澄んでて、夜は星がすごくキレイに見えたの。降ってくるみたいに。あと、お世話になった人たちもみんないい人ばっかりで」
「星がキレイって……。アンタが育った山梨もそうなんじゃないの?」
〝田舎〟という括りでいうなら、長野も山梨もそれほど違わないと思うのだけれど。――ちなみに、ここでいう〝田舎〟とは「〝都会〟に対しての〝田舎〟」という意味である。
「そうかもだけど。ここに入るまでは、星なんてゆっくり見てる余裕なかったもん」
施設にいた頃の愛美は、同室のおチビちゃんたちのお世話に職員さんのお手伝い、学校での勉強に進路問題にと忙しく、心のゆとりなんてなかったのだ。
「あ、そうだ。あのね、わたしがお世話になった農園って、純也さんとご縁があったの。昔は辺唐院家の持ちもので、子供の頃に喘息持ちだった純也さんがそこで療養してたんだって」
彼の喘息が完治したのは、あの土地の空気が澄んでいたからだろう。
「でね、純也さんと電話でちょっとお話できたんだ♪」
「へえ、よかったじゃん。……で? 愛美はますます彼のこと好きになっちゃったんだ?」
「……………………うん」
さやかにからかわれた愛美は、長~い沈黙のあとに頷いて顔を真っ赤に染めた。思いっきり図星だったからである。
(ヤバい! また顔に出ちゃってるよ、わたし! もうホントにスルースキルが欲しいよ……)
純也さんとは電話で話しただけだったけれど、あの時でさえ胸の高鳴りを抑えられなかった。もしも本人と対面して話していたら……と思うと、何だか怖くなる。
ちなみに、あの家の屋根裏で見つけた本は、そのままもらってきた。「愛美ちゃんが気に入ったなら、持ってっていいわよ」と多恵さんが言ってくれたからである。
「――あ、ねえねえ。このノートなに?」
荷解きを手伝い始めたさやかが、愛美のスポーツバッグから一冊のノートを取り上げた。
「ああ、それ? 小説のネタ帳っていうか、メモっていうか。これから小説書くときに参考になりそうなこと、色々と書き溜めてきたの」
「小説? 愛美、小説書くの?」
さやかが小首を傾げる。
(……あ、そういえばさやかちゃんにも珠莉ちゃんにも、まだ話してなかったっけ。わたしが小説家目指してること)
入学してそろそろ五ヶ月になるのに、自分の大事な夢をまだ友達に話していなかったのだ。
「うん。実はわたし、小説家になりたくて。中学時代も文芸部に入っててね、三年生の時は部長もやってたんだよ」
「へえ、そうなんだ? スゴイじゃん! 頑張って! 愛美の書く小説、あたしも読んでみたいなー」
夢とかいうとバカにされるこのご時世に、さやかはバカにすることなく、素直に応援してくれた。
「うん! いつか読ませてあげるよ。わたし、頑張るね!」