拝啓、あしながおじさん。

「この奨学金はね、これから先の学費と寮費を全額(まかな)える金額が事務局から出るの。大学に進んでからも引き続き受けられるから、保護者の方のご負担も軽くなるんじゃないかしら。大学の費用は、高校より高額だから」

「はあ……」

 大学進学後も受けられるなら、愛美としては願ったり叶ったりだ。大学の費用まで、〝あしながおじさん〟に出してもらうつもりはなかったから。そこまでしてもらうくらいなら、大学進学を諦める方がマシというものである。

「まあ、一応審査もあるから、申請したからって必ず受けられるものでもないんだけれど。あなたの事情や成績なら、審査に通る確率は高いと思うの。これが申請用紙よ」

 上村先生はそう言って、ローテーブルの上に一枚の書類を置いた。

「あなたが記入する欄だけ埋めてくれたら、あとは事務局から保護者の方のところに直接書類を郵送して、そこに必要事項を記入・捺印(なついん)して送り返して頂くから。それで申請の手続きは完了よ」

「分かりました。――わたしが書くところは……。あの、ペンをお借りしてもいいですか?」

「ええ、どうぞ」

 愛美は上村先生のボールペンを借りて、本人が記入すべき箇所(かしょ)をその場で埋めていく。

「――先生、これで大丈夫ですか?」

「書けた? ……はい、大丈夫。じゃあ、すぐに相川さんの保護者の方宛てに郵送しておくわね」

「先生、このこと……わたしからも伝えておいた方がいいですか? 田中さんに」

 こんなに大事なことを、愛美ひとりで決められるはずがない。学校の事務局から書類が送られるにしても、念のため愛美からもお願いしておいた方がいいと思ったのだ。
 だいいち、〝あしながおじさん〟が「もう自分の援助は必要ないのか」とヘソを曲げないとも限らないし――。

「そうね。それは相川さんに任せるわ。私からの話は以上です」

「はい。先生、失礼します」
 
 ――職員室を後にした愛美は、寮までの帰り道を歩きながら考え込んでいた。

(奨学金……ねぇ。そりゃあ、受けられたらわたしも助かるけど……。おじさまは気を悪くしないのかな……?)

 彼はよかれと思って、厚意で愛美の援助に名乗りを上げたのだ。他に手助けしてくれる人がいないのなら、自分が――と。
 それに水を差されるようなことをされて、「もう援助は打ち切る」と言われてしまったら……?

(もちろん、奨学金でもわたしのお小遣いの分までは出ないから、それはこの先もありがたく受け取るつもりでいるけど)

 今までのようにはいかなくても、お小遣いの分だけでも愛美が甘えてくれたなら、〝あしながおじさん〟も自分のメンツが保てるんだろうか?

「こんなこと、純也さんに相談してもなぁ……」

 彼とは一ヶ月前に連絡先を交換してから、頻繁に電話やメッセージのやり取りを続けている。「困ったときには何でも相談して」とも言ってくれた。
 でも、こればっかりは他人の彼が口出ししていい問題ではない気がする。

「っていっても、もう手続きしちゃってるし。今更『やっぱりやめます』ってワケにもいかないし」

 本校舎から〈双葉寮〉まで帰るには、途中でグラウンドの横を通る。グラウンドでは、さやかが所属する陸上部が練習の真っ最中だった。

「――わあ、さやかちゃん速~い!」

 百メートル走のタイムを測っていた彼女は、十二秒台を叩き出していた。

「暑い中、頑張ってるなぁ」

 本人に聞いた話では、五月の大会でも準優勝したとか。この分だと夏のインターハイへの出場も確実で、今年は夏休み返上かもしれない、とか何とか。

「さやかちゃ~ん! お疲れさま~!」

 愛美は親友の練習のジャマにならないように、その場から大声で声援を送った。すると、タオルで汗を拭きながらさやかが駆け寄ってくる。

「愛美じゃん! さっきの走り、見てくれた?」
「うん! スゴい速かったねー」

 愛美は体育は得意でも苦手でもないけれど(()いて挙げるなら、球技は得意な方ではある)。さやかは体育の授業で、どんな種目も他のコたちの群を抜いている。
 中でも短距離走には、かなりの自信があるようで。

「でしょ? この分だと、マジで今年は夏休み返上かも。あ~、キャンプ行きたかったなぁ」

 インターハイに出られそうなことは嬉しいけれど、そのために夏休みの楽しみを諦めなければならない。――さやかは複雑そうだ。

「仕方ないよ。部活の方が大事だもんね」

「まあね……。ところで愛美、今帰り? ちょっと遅くない?」

 部活に出なかったわりには、帰りが遅いんじゃないかと、さやかは首を傾げた。

「うん。あの後ね、上村先生に呼ばれて職員室に行ってたから。大事な話があるって」

「〝大事な話〟? ってナニ?」

 さやかは今すぐにでも、その話の内容を知りたがったけれど。

「うん……。でもさやかちゃん、今部活中でしょ? ジャマしちゃ悪いから、寮に帰ってきてから話すよ。珠莉ちゃんも一緒に聞いてもらいたいし。――そろそろ練習に戻って」

「分かった。じゃあ、また後で!」

 さやかは愛美にチャッと手を上げ、来た時と同じく駆け足で他の部員たちのところへ戻っていった。

****

「――えっ、『奨学金申し込め』って?」

 その日の夕食後、愛美は部屋の共有スペースのテーブルで、担任の上村先生から聞かされた話をさやかと珠莉に話して聞かせた。

「うん。っていうか、その場で申請書も書いた。わたしが書かなきゃいけないところだけ、だけど」

「書いた、って……。愛美さんはそれでいいんですの?」

 珠莉は、愛美が自分の意思ではなく先生から無理強いされて書いたのでは、と心配しているようだけれど。

「うん、いいの。わたしもね、おじさまの負担がこれで軽くなるならいいかな、って思ってたし。いつかお金返すことになっても、その金額が少なくなった方が気がラクだから」
「お金……、返すつもりなんだ?」

「うん。おじさまは望んでないと思うけど、わたしはできたらそうしたい」

 愛美の意思は固い。元々自立心が強い彼女にとって、経済面で〝あしながおじさん〟に依存している今の状況では「自立している」ということにはならないのだ。
 もし彼がその返済分を受け取らなくても、愛美は返そうとすることだけで気持ちの上では自立できると思う。

「それにね、奨学金は大学に上がってからも受け続けてられるんだって。大学の費用まで、おじさまに出してもらうつもりはないから」

「それじゃあ、あなたも私たちと一緒に大学に進むつもりなのね?」

「うん。そのことも含めて、おじさまには手紙出してきたけど。さすがにこんな大事なこと、わたし一人じゃ決めらんないから」

 愛美はまだ未成年だから、自分の意思だけでは決められないこともまだまだたくさんある。そういう点では、彼女は〝カゴの中の鳥〟と同じなのかもしれない。

「おじさまが賛成して下さるかどうかは分かんないけどね。一応おじさまが保護者だから、筋は通さないと」

「律儀だねぇ、アンタ。何も進学のことまでいちいちお伺い立てなくても、自分で決めたらいいんじゃないの?」

「それじゃダメだと思ったの。誰か、大人の意見が聞きたくて。……でも、誰に相談していいか分かんないから」

「でしたら、純也叔父さまに相談なさったらどうかしら?」

「えっ、純也さんに!? どうして?」

 何の脈絡もなく、この話の流れで出てくるはずのない人の名前が珠莉の口から飛び出したので、愛美は面食らった。

「ええと……、そうそう! 叔父さまは愛美さんにとって、いちばん身近な大人でしょう? きっと喜んで相談に乗って下さいますわ。愛美さんの役に立てるなら、って」

「そ、そう……かな」

 珠莉は何だか、取って付けたような理由を言ったような気がするけれど……。他に相談相手がいないので、今は彼女の提案に乗っかるしかない。
「じゃあ……、電話してみる」

 愛美は二人のいる前でスマホを出して、純也さんの番号をコールしてみた。〝善は急げ〟である。

『――はい』

「純也さん、愛美です。夜遅くにゴメンなさい。今、大丈夫ですか?」

『うーん、大丈夫……ではないかな。ゴメンね、今ちょっと出先で』

 純也さんは声をひそめているらしい。出先ということは、仕事関係の接待か何かだろうか?

「あっ、お仕事ですか? お忙しい時にゴメンなさい。後でかけ直した方がいいですよね?」

『いや、僕一人抜けたところで、何の支障もないから。――それよりどうしたの?』

「えっ? えーっと……」

 純也さんも忙しいようだし、あまり長話はできない。愛美は簡潔に要点だけを伝えることにした。

「……実は、純也さんに相談に乗って頂きたいことがあって。電話じゃ長くなりそうなんで、ホントは会ってお話ししたいんですけど。何とか時間作って頂けませんか?」

 電話の向こうで純也さんが「う~~ん」と唸り、十数秒が過ぎた。

『そうだなぁ……、しばらく仕事が立て込んでるからちょっと。でも、夏には休暇取って、多恵さんのところの農園に行けそうだから、その時でもいいかな? ちょっと先になるけど』

「はい、大丈夫です! 急ぎの相談じゃないから。――いつごろになりそうですか? 休暇」

 この夏は、純也さんと一緒に過ごせる! それだけで、愛美の胸は躍るようだった。

『まだハッキリとは分からないな。また僕から連絡するよ』

「分かりました。じゃあ、連絡待ってますね。失礼します」

 愛美は丁寧にそう言って、通話終了の赤いボタンをタップした。
 今すぐには相談に乗ってもらえなかったけれど、電話で純也さんの声を聞けて、しかも夏休みには彼と一緒に過ごせると分かっただけでも、愛美の気持ちは少し楽になった――。

****

 ――その数週間後。すでに七月に入っていたある日。

「相川さん、ちょっと」

 短縮授業期間のため、午前の授業を終えて帰り支度をしていた愛美は、上村先生に手招きされた。

「――先生? どうしたんですか?」

「あなたの保護者の方から、今さっき奨学金の申請書が送り返されてきたそうよ」

「えっ、そうなんですか? それで、必要事項は――」

 もしも白紙で(愛美が埋めたところ以外は、という意味で)戻ってきたのなら、〝あしながおじさん〟は愛美が奨学金を受けることに反対。キチンと書かれていたのなら、反対はされなかったということなのだけれど。

「キチンと埋められていたそうよ。というわけで、奨学金の申請はこれで無事に終わり。審査の結果は夏休み中に分かるはずだから、事務局からあなたに直接連絡があると思うわよ」

「そうですか……。分かりました。知らせて下さってありがとうございます」

 愛美は半信半疑ながらも、担任の先生にお礼を言った。

(おじさま、反対しなかったんだ。――あれ? でも『あしながおじさん』のお話の中では……)

 あの物語の中では、ジュディが奨学金を受けることに〝あしながおじさん〟は猛反対で、何度も何度もグダグダと文句を書き連ねた手紙を秘書に出させていた。――あれは、彼女が自分の手を離れるのがイヤでやったことだと思うのだけれど……。

(じゃあ、わたしの方のおじさまには、わたしの自立を後押ししたいって気持ちがあるってことなのかな?)

「――ところで、今日は午後から文芸部の活動があるけど。相川さんは出られる?」

 上村先生は、今度は文芸部顧問の顔になって愛美に訊ねた。

「はい、出るつもりです。この夏に、ちょっと応募してみたい文芸コンテストがあって。その構想を練ろうかな、って」

「そうなの? その年で公募にまでチャレンジするなんて、さすが小説家志望はダテじゃないわね」
「……はあ。でも、他の部員の人たちもそうなんじゃないですか? みんな書くのは好きみたいだし」

「そんなことないわよ。ほんの趣味程度にやってる子がほとんどね。プロの作家を目指してる子の方が珍しいくらいよ」

 今年入ったばかりの一年生はまだどうか分からないけれど、二年生から上の部員はみんな文才がある。前年、部の主催で行われた短編小説コンテストでも、愛美以外の入選者はみんな文芸部の部員だった。

「文才があるからって、みんながみんなプロを目指してるわけじゃないの。お家の事情とか、色々あるんだから」

 例えば医者の家系に育ったら、自分も医学の道に進むことが決められているとか。経営者の一族だったら、後継者にふさわしい婚約者(〝フィアンセ〟と言った方が正しいかもしれないけれど)がすでに決められているとか。
 愛美は施設育ちだし、両親のこともよく覚えていないけれど、珠莉を見てきているから何となく分かる。

「そうですよね……。お嬢さまって大変なんだなぁ。――じゃあ先生、失礼します」

 愛美は上村先生に挨拶をして、スクールバッグを提げて寮までの道を急いだ。――要するに、お腹がグーグー鳴っていたのだ。

「あ~、お腹すいたぁ。今日のお昼って何だっけ」

 〈双葉寮〉の食堂のメニューは、朝昼夕とそれぞれ日替わりなのだ。好きなメニューが当たった日はハッピーだけれど、キライなものや苦手なメニューが出た日は一日ブルーでたまらなくなる。

 ……と、昼食メニューのことに意識を飛ばしながら早足で歩いていた愛美のスカートのポケットで、マナーモードにしていたスマホが振動した。

「……電話? 知らない番号だなぁ。誰からだろ?」

 ディスプレイに表示されているのは、まったく見覚えのない携帯の番号。愛美は首を傾げながら、通話ボタンを押した。

「もしもし? 相川ですけど、どちらさまですか?」
『恐れ入りますが、相川愛美さまの携帯でお間違いないでしょうか』

 聞こえてきたのは、穏やかな初老と思しき男性の声。

「はい、そうですけど。……あの」

『失礼。申し遅れました。(わたくし)、田中太郎氏の秘書を務めております、久留島栄吉と申します』

「久留島さん? ……ああ、あなたが! いつも何かとお気遣い頂いてありがとうございます」

 まさか、〝あしながおじさん〟の秘書から電話がかかってくるなんて……! 普段から何かとお世話になっているので、愛美はまず彼にお礼を言った。

『いえいえ。私はただ、ボスの言いつけに従って自分の務めを果たしているだけですので』

「……そうですか」

(なんか腰の低い人だなぁ。「ボス」なんて、おじさまの方がこの人より絶対若いのに。よっぽど慕ってるんだ)

 〝ボス〟という言い方にも、彼の雇い主への愛情というか、信愛が感じられる。

『――ところで愛美お嬢さん、奨学金の申請書についてですが。私のボスがキチンと記入・捺印して学校の事務局に送り返したことは、もうお聞きになっていますか?』

「はい、今さっき伺いました」

『さようでございますか。では、お嬢さんの大学進学にも賛成だということは?』

 そのことは、上村先生からは何も聞いていない。

「いえ、それは伺ってませんけど。なんか意外だったんで、ちょっと驚きました」

『意外、とおっしゃいますのは?』

「わたし、田中さんに反対されると思ってたんです。奨学金のことも、わたしが大学に進むことも。だって、田中さんにしてみたら、『自分はもう、保護者としてお払い箱なのか』って思うかもしれないでしょう? 自分には頼ってくれないのに、大学には進みたいのかって。それって、自分でも勝手だなと思ってるんで」

 将来的に、出してもらったお金を返すつもりだということは、久留島さんにも言わないことにした。それが万が一〝あしながおじさん〟の耳に入って、今の関係がこじれてしまうのはイヤだから。
『いえいえ、そんなことはございませんよ。ボスの一番の望みは、お嬢さんが有意義で充実した学校生活を送られることなんです。奨学金がその役に立つなら、ボスに反対する理由はございません』

「はい……」

『大学へお進みになることもそうでございますよ。お嬢さんが本気で小説家を目指しておいでなのでしたら、ぜひ大学へも進まれるべきだとボスは申しておりました。学費を出す必要がなくなっても、できることは何でもするから、と』

「そうですか。――あの、わたし、奨学金で学費が要らなくなっても、毎月のお小遣いは頂くつもりでいるので」

 奨学金で学費や寮費は賄われても、個人的に必要な細々した生活費などまでは面倒を見てくれない。
 愛美だって今時の女子高生なのだ。欲しいものもそれなりにあるし、趣味に使うお金も必要になる。そうなるとやっぱり、お小遣いは必要不可欠だ。

『さようでございますか! では、ボスにそのように伝えますね。――ところでですね、もうすぐ夏休みでございますが、今年はいかがなさいますか?』

「ああ、それならもう決まってますよ。今年も、長野の千藤農園さんにお世話になろうと思ってます」

『かしこまりました。では、そのようにこちらで手配しておきます。どうぞ、楽しい夏休みをお過ごし下さい』

「ありがとうございます。……あの、一つお訊きしたいことがあるんですけど」

『はい、何でございましょうか?』

 愛美にはずっと気になっていることがあった。自分に好きな人ができたことについて、〝あしながおじさん〟はどう思っているんだろう? と。

「わたし今、好きな人がいるんですけど。そのことで、田中さんはあなたに何かおっしゃってましたか? グチでも何でもいいんですけど」

 世の中の父親は、娘に彼氏ができることが面白くないらしいと聞いたことがあった。
 〝あしながおじさん〟はいわば、愛美の父親代わりである。やっぱり、娘のような愛美に好きな男がいることは面白くないのだろうか?