日が昇り、お昼時も過ぎた頃、ふたりの軍人がミルクホールを訪れた。入り口のドアを開けると、馴染みの給仕がふたりに声を掛ける。
「あら、治さんに潔さん、いらっしゃい」
「よう、舞子さん。席は空いてる?」
治が声を掛けてきた舞子にそう訊ねると、舞子は奥の方を指して案内する。
「あちらの席が空いております。ピアノも近いですし、いかがですか?」
その言葉に、治がちらりと潔に目をやる。どうやら潔はあの席でいいようだ。ふたりは舞子に連れられ、ピアノのすぐ側に有る丸いテーブル席に座る。それから、治はパンとミルクを、潔はカステラで羊羹を挟んだものとミルクを注文する。いつも通りの内容だ。
舞子がかしこまりました。と言って頭を下げてから、ふと潔にこう言った。
「よかったら潔さん、お品物を持ってくるまでまたピアノでも弾いてくださいませんか?」
それを聞いて潔はにこりと笑って返す。
「はい。またお借りしますね」
被っていた帽子をテーブルの上に置き、潔はピアノの準備をする。ピアノの蓋と鍵盤を開けて、少し低い椅子に腰掛ける。ペダルに足をかけ、指で鍵盤を少し押してから、少し考える素振りをして、力強く奏で始めた。
細かい音が押し寄せるように溢れ、響く低音は荘厳だ。心の昂ぶりを感じさせるその曲を聴いて、メニューを持ってきた舞子がほうっと溜息をつく。
「あのひとはいつもすごい曲を弾くけれど、今回は何かしら」
その呟きに、治が受け取ったミルクをひとくち飲んで答える。
「ベートーベンの月光、第三楽章」
「なるほどねぇ」
その曲の名を舞子が知っているかどうかはわからないけれども、それはそれとして置いておいた治は腰の鞄から煙管と燐寸と刻み煙草を取り出す。いつものように刻み煙草を指で丸め、煙管の雁首に詰め込み、口の端で咥えて燐寸で火を付ける。一服ふかして誰もいない所に煙を吹く治に、舞子がくすくすと笑う。
「本当に、治さんは煙草がお好きね」
「まぁね。あいつは苦手みたいだけど」
ちらりと潔に視線を送って治がそう答えると、舞子はにこにこしたまま軽く頭を下げてその場を離れた。
治が煙管をふかしながら潔の演奏を聴く。いつの間にかこんなに演奏の腕が良くなった物だと思いながら、吸い終わった煙草の灰をテーブルの上にある灰皿に落とした。
しばらくすると、演奏が終わった潔がテーブルに戻り、椅子に座ってごく上機嫌といった様子でカステラをかじる。全くもって食いしん坊なものだと治が思っていると、横からすっと、小さなクッキーが四枚乗ったお皿が差し出された。
「舞子さん、これは?」
カステラをミルクで流し込んだ潔がそう訊ねると、舞子は厨房の近くにいる店長を指してこう答えた。
「店長が演奏のお礼にって」
「なるほど、それはありがたいです」
潔は店長の方にぺこりと頭を下げ、それからクッキーに手を着ける。それを見ながら治は、これは自分も食べて良いのだろうかと少し悩む。
そうしていると、店の入り口の方から声が掛かった。
「おやまぁ、治さんに潔さんじゃあないですか」
その声に振り向くと、そこには何かを包んだ風呂敷を持った小柄な男が立っていた。
「おう、桐次がこんな所にいるなんて珍しいな」
「よかったら一緒にいかがですか?」
治と潔にそう声を掛けられた男、桐次は、そそくさとふたりの座っているテーブルに近づき、なるべく音を立てないようにしながら席に着いた。
「いやはや、仕事の時以外で会うのは珍しいですこと」
風呂敷を膝の上に置いてそう言った桐次は、お品書きを見てすぐ側にいた舞子に注文を伝える。頼んだのは煎茶と饅頭のようだ。
注文を受けた舞子は不思議そうな顔をして厨房の方へ向かう。おそらく、治と潔の知り合いというものに初めて会って、その知り合いが想像とは違う印象だったから驚いているのだろう。
ふと、桐次がふたりに訊ねる。
「ところで、そのミルクというものはどんな味がするんですかね?」
その問いに、潔が答える。
「桐次さんも頼んでみればいいじゃないですか」
すると、桐次は着物の袖で口元を隠して言う。
「いやぁね、私はそういう、慣れないものに挑戦する思い切りというのがいまいちでねぇ」
「なるほど」
そんな話をしている間に、桐次が注文したものも運ばれてきた。お待たせ致しましたと舞子が桐次の前に煎茶と饅頭を並べる。それから、治にこう訊ねた。
「治さん、この方はどう言う知り合いなんですか?」
その問いに、治だけでなく潔も、桐次も悩む素振りを見せる。それから、治がにっと笑ってこう答えた。
「浅草の行きつけの店の人だよ」
すると、舞子は口元をお盆で隠して目を丸くする。
「あらあら、そうでしたか。なるほどー……」
そう言いながらそそくさと席を離れてしまったけれども、舞子がどんなことを考えたのか、治達には知るよしもない。
「もう少し他に言い方はなかったんですかねぇ」
溜息をついた桐次がそうぼやくと、治は噛み殺した笑いを漏らすばかり。一方、カステラとクッキーを囓るのに夢中になっていた潔は、どうやら話をよく聞いていなかったようできょとんとしている。
「まぁ、知らなくていいことも沢山あるさ」
そう言って治は、刻み煙草を煙管に詰め込んだ。
「あら、治さんに潔さん、いらっしゃい」
「よう、舞子さん。席は空いてる?」
治が声を掛けてきた舞子にそう訊ねると、舞子は奥の方を指して案内する。
「あちらの席が空いております。ピアノも近いですし、いかがですか?」
その言葉に、治がちらりと潔に目をやる。どうやら潔はあの席でいいようだ。ふたりは舞子に連れられ、ピアノのすぐ側に有る丸いテーブル席に座る。それから、治はパンとミルクを、潔はカステラで羊羹を挟んだものとミルクを注文する。いつも通りの内容だ。
舞子がかしこまりました。と言って頭を下げてから、ふと潔にこう言った。
「よかったら潔さん、お品物を持ってくるまでまたピアノでも弾いてくださいませんか?」
それを聞いて潔はにこりと笑って返す。
「はい。またお借りしますね」
被っていた帽子をテーブルの上に置き、潔はピアノの準備をする。ピアノの蓋と鍵盤を開けて、少し低い椅子に腰掛ける。ペダルに足をかけ、指で鍵盤を少し押してから、少し考える素振りをして、力強く奏で始めた。
細かい音が押し寄せるように溢れ、響く低音は荘厳だ。心の昂ぶりを感じさせるその曲を聴いて、メニューを持ってきた舞子がほうっと溜息をつく。
「あのひとはいつもすごい曲を弾くけれど、今回は何かしら」
その呟きに、治が受け取ったミルクをひとくち飲んで答える。
「ベートーベンの月光、第三楽章」
「なるほどねぇ」
その曲の名を舞子が知っているかどうかはわからないけれども、それはそれとして置いておいた治は腰の鞄から煙管と燐寸と刻み煙草を取り出す。いつものように刻み煙草を指で丸め、煙管の雁首に詰め込み、口の端で咥えて燐寸で火を付ける。一服ふかして誰もいない所に煙を吹く治に、舞子がくすくすと笑う。
「本当に、治さんは煙草がお好きね」
「まぁね。あいつは苦手みたいだけど」
ちらりと潔に視線を送って治がそう答えると、舞子はにこにこしたまま軽く頭を下げてその場を離れた。
治が煙管をふかしながら潔の演奏を聴く。いつの間にかこんなに演奏の腕が良くなった物だと思いながら、吸い終わった煙草の灰をテーブルの上にある灰皿に落とした。
しばらくすると、演奏が終わった潔がテーブルに戻り、椅子に座ってごく上機嫌といった様子でカステラをかじる。全くもって食いしん坊なものだと治が思っていると、横からすっと、小さなクッキーが四枚乗ったお皿が差し出された。
「舞子さん、これは?」
カステラをミルクで流し込んだ潔がそう訊ねると、舞子は厨房の近くにいる店長を指してこう答えた。
「店長が演奏のお礼にって」
「なるほど、それはありがたいです」
潔は店長の方にぺこりと頭を下げ、それからクッキーに手を着ける。それを見ながら治は、これは自分も食べて良いのだろうかと少し悩む。
そうしていると、店の入り口の方から声が掛かった。
「おやまぁ、治さんに潔さんじゃあないですか」
その声に振り向くと、そこには何かを包んだ風呂敷を持った小柄な男が立っていた。
「おう、桐次がこんな所にいるなんて珍しいな」
「よかったら一緒にいかがですか?」
治と潔にそう声を掛けられた男、桐次は、そそくさとふたりの座っているテーブルに近づき、なるべく音を立てないようにしながら席に着いた。
「いやはや、仕事の時以外で会うのは珍しいですこと」
風呂敷を膝の上に置いてそう言った桐次は、お品書きを見てすぐ側にいた舞子に注文を伝える。頼んだのは煎茶と饅頭のようだ。
注文を受けた舞子は不思議そうな顔をして厨房の方へ向かう。おそらく、治と潔の知り合いというものに初めて会って、その知り合いが想像とは違う印象だったから驚いているのだろう。
ふと、桐次がふたりに訊ねる。
「ところで、そのミルクというものはどんな味がするんですかね?」
その問いに、潔が答える。
「桐次さんも頼んでみればいいじゃないですか」
すると、桐次は着物の袖で口元を隠して言う。
「いやぁね、私はそういう、慣れないものに挑戦する思い切りというのがいまいちでねぇ」
「なるほど」
そんな話をしている間に、桐次が注文したものも運ばれてきた。お待たせ致しましたと舞子が桐次の前に煎茶と饅頭を並べる。それから、治にこう訊ねた。
「治さん、この方はどう言う知り合いなんですか?」
その問いに、治だけでなく潔も、桐次も悩む素振りを見せる。それから、治がにっと笑ってこう答えた。
「浅草の行きつけの店の人だよ」
すると、舞子は口元をお盆で隠して目を丸くする。
「あらあら、そうでしたか。なるほどー……」
そう言いながらそそくさと席を離れてしまったけれども、舞子がどんなことを考えたのか、治達には知るよしもない。
「もう少し他に言い方はなかったんですかねぇ」
溜息をついた桐次がそうぼやくと、治は噛み殺した笑いを漏らすばかり。一方、カステラとクッキーを囓るのに夢中になっていた潔は、どうやら話をよく聞いていなかったようできょとんとしている。
「まぁ、知らなくていいことも沢山あるさ」
そう言って治は、刻み煙草を煙管に詰め込んだ。