忘れたくない、忘れる筈がないと思っていても、時間というものは気づかない間に『大切な記憶』をもひっそりと連れ去ってしまう。
 覚えがある。だから私は彼に、"大丈夫だよ"なんて言えない。

 ――けれど。

 膝を寄せ、彼と目線を合わせた。
 微かに震える痛ましい掌を、両手で包み込む。

「……この家にこもっていたって、時間は進んでいくの。必死に"思い出"を抱きしめてても、記憶は少しずつ霞んでいく。そうやって少しずつ失くしていって、いつか全部がおぼろげになってしまったら、アナタはきっと、忘れてしまった自分を責めてしまうと思うの。そんなの、悲しすぎる」

 下から覗き込むようにして、少年の顔を伺い見る。
 驚いたようにして顔を跳ね上げた彼に、私は柔く笑んでみせた。

「私ね、後悔のない"お別れ"なんてないんじゃないかなって思ってて。その人が大切であればあるほど、きっとたくさんの"ああしていれば"が出てくる。私だって、考えだしたらキリがないもの。その人との思い出を失うたびに、どうして忘れちゃったんだろうって、自分が嫌になるし」

「……なら、どうしてあなたは、そうやって笑えるの?」

「私はね、忘れてしまった分だけ、"いつか"のお土産話が出来たなって思うことにしてるから」

「……いつかの、お土産話……?」

 そう、お土産話、と。
 首肯した私は言葉を重ねる。

「立ち止まっていたら、失うだけでしょ? でも、進めば進んだだけ、その人の知らない"私の記録"が生まれるから」

「……っ」

「最初は嘘でもいい。自分を騙しながら進んで、ときどき振り返って。そうやって新しく出会っていく"これから"を、いつかまた会えたその時に話してあげたら、大切なその人は喜んでくれないかな?」

 面食らったような丸い眼が、瞬きを繰り返す。
 刹那、少年はくしゃりと顔を歪め、

「……僕は、ここを出る。だって」

 伏せられた瞳から、大粒の涙がポロポロと零れ落ちた。
 それはまるで床を飾る、ビー玉のような。

「あの人は、僕の話が好きだって……っ。楽しそうに笑う僕をみていると、嬉しい気持ちになれるって……そう、言ってくれたから」

 顔を上げた少年の眼に、決意が帯びる。

「僕はこの家じゃなくて、あの人の"嬉しい"を、増やしにいく」

「……そっか。それならこれからいっぱい、話せることを作っていかないとね」

「……うん」

 とうとう袖口で涙を拭い始めた彼に、「これ、使って」とバッグから取り出したハンカチを差し出す。