誰かに催眠術でもかけられたとか?
 いっそ、そうであってほしい。

(鏡みましたか? って、ハンドミラー貸してあげようかな……)

 ヤキモキした左手が、不意に鈴に触れた。瞬間――。

「いたっ――!?」

 チッと走った鋭い痛みに、私は思わず手を跳ね上げた。

「え、静電気……?」

 もう一度触れてみるも、今度は何も起きない。
 なんだ、びっくりしたと息をついたのもつかの間。

「ちょっと、うるさいわよ」

「! すみませ……」

 咄嗟に謝ろうと高倉さんを向いて、息を止めた。
 溢れんばかりの嫌悪に目尻を吊り上げる高倉さんの、肩。
 黒い霧のようなものが、ふよふよと漂っている。

(――なに、あれ)

 衝撃に絶句する私を、どうとらえたのか。
 高倉さんは髪をかき上げ、

「そんなに睨むなんて、私の美しさが、よほど妬ましいのかしら? まさかね。自分のほうが綺麗だって言いたいんでしょ?」

「な……っ、違います!」

「いいのよ。ホラ、言ってごらんなさい? 私は心も美しいから、ええそうでしょうねって、頷いてあげる」

 高倉さんが挑発するように顎先を上げる。
 正体不明の靄は、うようよと形を変え濃さを変えうごめき、まるで意思をもった生物のよう。

(――なんだか、嫌な感じがする)

 お葉都ちゃんに追われていた時とは、また違う。
 なんというか、あれは"良くないモノ"だと、本能が警告を発しているような。

「……すみません、驚かせてしまって。静電気にびっくりしただけです」

 それだけを言って頭を下げた私は、蛇のような眼から自身のモニターへと視線を移した。
 不満を乗せて横顔に突き刺さってくる、射るような視線。けど高倉さんは、沈黙を貫ている。
 私は何でもない風を装って、再び自身のスケジュールを確認する素振りをしつつ、脳だけを必死に働かせた。

(見間違い、なんかじゃない)

 でもおかしい。
 だって私に"見える"のはお葉都ちゃんだけで、霊感も、雅弥のような特別な力もない。
 けれども確かにあの"靄"は存在しているし、おそらく高倉さんも部長も、誰一人として気づいていない。

(どうしよう。ひとまず雅弥に連絡したほうが……って、連絡先きいてないんだった!)

 あああああ、私のバカ!
 無理やりにでも訊いておくんだった!

(――よし)

 無いモノは無い。仕方ない。
 ならばさっさと仕事を片付けて、『忘れ傘』に行く一択!
 
 さくっと思考を切り替えた私は始業を待つことなく、ここ一番の集中力で仕事に取り掛かり始めた。