拒絶されているのだと微塵も気付いていない態度に、全身全霊で引いていると、
「っ、孝彰さん!?」
驚愕の中に、歓喜の混ざる声。
うわあ、とますます顔を強張せて視線を遣ると、会議室から戻ってきた高倉さんが感動に瞳をうるませて、口元に両手を当てている。
(よりによって最悪のタイミングで……)
「お久しぶりです……っ」と頬を紅潮させながら、足早に近づいて来る高倉さん。
けれども孝彰さんははて、といった風に首を傾げて、
「えーと、キミは……?」
「高倉です。高倉里沙。三年前、新宿のホテルでランチをした……!」
「ああー、うん。そうそう、高倉さんね、はいはい」
(いや絶対忘れてるでしょ、その反応)
あまりにおざなりな返事に、ちょっとだけ同情心が疼く。
だって、高倉さんはつい私に嫌がらせをしてしまうくらい、ずっと想っていたのに。
うっかり風邪をひいてしまいそうなくらいの温度差がある。
「で、俺になんか用? いま取り込中なんだけど」
「なんの用って……」
突き放すような物言いに、高倉さんがピタリと足を止めた。
……うん、これはさすがにショックだよね。
まあでも、これで目が覚めてくれれば、高倉さんの嫌がらせもお終いに――。
「っ、運命です」
「……はい?」
思わず呆けた声を出したのは私。
けれど高倉さんは一瞥もせず、すさまじい勢いで孝彰さんの片手を握りしめ、
「ご縁がなかったのだと、何度も忘れようとしました。けれどどう足掻いても、ずっと心に残っていて……。どこかでもう一度、奇跡が起きてくれればって願っていました。そうしたら、こうしてまた会えたんです。これはもう、運命の糸が引き寄せてくれたのだとしか思えません……!」
濡れた瞳で切なげに見つめ上げる高倉さん。
月九俳優さながらの迫力に、私は唖然としながらも淡い期待を抱いた。
これはもしかして、もしかすると孝彰さんもぐらっときてその手を握り返すんじゃあ……?
けれども悲しいかな、彼は「……あのですね」と眉根を寄せ、握りこめられていた自身の手を半ば強引に引き抜き、
「何を勘違いしているのかわかりませけど、俺は彩愛さん会いに来たのであって、アナタにはこれっぽっちも興味ないんですよ。その、運命糸? とやらが繋がっているのは俺じゃないんで、他を当たってください」
「そんな……っ」
悲痛の面持ちで絶句する高倉さんの背後。
私は視線を落として、腹立たしさに双眸を細める。
(あいっかわらず人の気持ち考えないなあ……)
断るにしたって、もう少し言い方ってモンがあるでしょうが。
(……なんか、面倒になってきた)
別に、高倉さんを擁護するつもりは一切ない。
けれどこれは、あんまりすぎる。
彼を傷つけないようにと、これまで言葉を選んでいた自分が馬鹿みたい。
(……部長にはもうやっちゃったし、いいか)
腹をくくった私はもう隠すことなく息をついて、笑みを消す。
と、私の変化に気付いた孝彰さんが、
「ああ、ごめんね? なんか、邪魔が入っちゃって。場所かえて話そっか」
「帰ってください。そして金輪際、二度と私に関わらないでください」
「……え、と? 彩愛さん?」
「既に何度もお断りしましたよね。というか、そもそも食事の件だって、私は部長に騙されただけで一切望んでないんです」
「そう、だけどさ。あの時だって、楽しかったでしょ?」
「いえ、まったく。退屈で退屈で、早く帰りたくてたまりませんでした。孝彰さんの話もろくに聞いていません。まあ、貴方様は一人で気持ちよーくお喋りされていて、非常に楽しそうでしたけども」
孝彰さんが「なっ!?」と目を見張る。
その顔にはプライドを傷つけられた怒りも混ざっていたけれど、私は構うことなく言葉を続けた。
「ですから、私にとって、はじめっから"あり得ない"お見合い……まあ、お見合いって気持ちもさらさらなかったんですけど、ともかく孝彰さんとお付き合いする気は微塵もありません。なんなら今後、お仕事でない限りは一切関わることのない生活を望んでいますので、恋人探しでしたら他を当たってください」
愛想笑いゼロ。
ぴしゃりと言い切った私に、孝彰さんはわかりやすく焦燥を浮かべた。
「なにが……っ、俺のなにがそんなに気に入らないんだ? よく考えてみてくれ、俺につりあうのはキミしか、キミに相応しい男は俺しかいないだろう?」
「いや、ですからね……そもそもその"つりあう"って発想からして理解できな――」
「ならなんだ。キミほどの美人が生涯パートナーもつくらず、こんなしけた会社で使いつぶされる人生を選ぶのか? 違うだろ? 美しい服に靴やバッグ、アクセサリーだって、キミの美しさの為ならなんでも買ってあげるさ。食事だって質が上がるし、ジムでもヨガでもエステでも、好きなだけ時間をかけられる。そうしてキミは一生美しく、幸せな人生を手に入れる。俺の"妻"として。なあ、夢のようなチャンスじゃないか」
……ここまでくると、これまでのストーカー達の方がマシに思えてくる。
(なんか、頭が痛くなってきた)
推測するに、こちら側がなんとか理解してもらおうといくら説明を重ねたところで、結局は向こうの都合の良い返事をするまでは、永遠にこうした押し問答が続くのだろう。
周囲の社員はみんな息を潜めて、好奇の目を向けてくるだけ。
良い晒しモノ。ほんと、最悪。
「……ともかく、何を言われたところで私の気持ちは変わりませんので。お引き取りください。もっと"つりあう"方が、他にいらっしゃいますから」
「ちょっと、彩愛さん!」
引き止める声に胸中で「もう無理!」と叫びながら、席を立った私はフロアを飛び出て、足早に廊下端の女性用化粧室に逃げ込んだ。
(さすがにここまでは追ってこないでしょ……)
パウダーコーナーの棚に手をついて、はあとため息ひとつ。
あの人はもう、出て行ってくれただろうか。
粘られていたら嫌だな……と戻り時間を思案すべく腕時計を確認する。刹那、
「――ちょっと! どういうつもりよ!」
「!」
鬼の形相で飛び込んできたのは、高倉さんだ。
走ってきたみたいで息があがっているけれど、本人はそんなの物ともせず、
「孝彰さんに向かってなんなのあの言い方! ちょっと顔がいいからって、調子乗ってるんじゃないわよ!」
「ちょっ、ちょっと落ち着いてください……! たしかに失礼な言い方しましたけど、そうでもしないと分かってもらえないからで……」
「なに? 今度は諦めてもらえないイイ女アピール? ふざけんじゃないわよ。アンタみたいな腹黒、その顔がなければ孝彰さんだって騙されずに……!」
はあ? 騙す? どっちが!
騙されたのは私なんですけど!
けれども言い返したところで、火に油を注ぐだけになるのは目に見えている。
私はぐっと拳を握って耐え、「あの、訊きたいんですけど」と続く罵倒に割り入り、
「高倉さんも、酷い言われようでしたよね? なのになんでまだ、そうして孝彰さんの肩を持つんですか?」
「好きだからよ!」
間髪入れずに叫んだ高倉さんは、ぐっと苦痛に耐えるように顔を歪めて、
「好きなんだから、仕方ないでしょ。私に……私に、アンタの顔があれば良かったのに……!」
涙の滲んだ恨みがましい目で私を睨み上げ、高倉さんはさっと踵を返して出て行ってしまった。
絨毯を走るくぐもったヒール音が、遠ざかっていく。
ふと、視線を上げると、鏡の中には取り残された私の姿。
「……私の顔があれば、ねえ」
これまで何回、この言葉を聞いたっけ。
数えるのも、めんどくさい。
私はそっと鏡に手を伸ばして、こちらを見つめる頬に触れた。冷たい。
他人は皆、いろいろな言葉でこの顔を称賛して羨むけれど、それはこの顔であるが故の苦労を知らないから、気軽に言えるんだと思う。
この顔を世界で一番愛しているのは、私。
でも同じだけ、憎んでもいる。
きっとこの、相反する葛藤を、他の人は理解しない。
「……そんなに"顔"を変えたいのなら、整形でもすればいいのに」
その覚悟すらないのなら、"もしも私の顔だったら"なんて絵空事、いくら唱えようが無駄ってものだ。
「……今日はローズアロマの入浴剤いれよっかな」
疲れた顔。かわいくない。こんなんじゃテンション駄々下がり。
うん、決めた。今日は美味しいご飯を食べてから帰ろう。
「……あと五分したら、戻ろっかな」
どうか諦めて帰ってくれていますように。
そう願いながら、私は鏡に映る"私"とディナーの相談を始めた。
急なお誘いに快く挙手してくれた友人と有楽町で落ち合い、たっぷりデザートまで楽しんだ私は、いつもよりも話し声の多い総武線快速電車に揺られ、錦糸町駅で降りた。
肩には通勤鞄、手にはローズ香るスクラブとセール品のトップスが入った紙袋が二つ。
一杯だけと含んだ日本酒も手伝って、最高に気分がいい。
「これで普通に帰れれば、言う事なしだったのに」
ぞわりと背に、妙な悪寒。
ああ、やっぱりきちゃった。連日のことで慣れてきてしまったのか、今は恐怖よりも落胆が強い。
毎日毎日、飽きもせずただ着いてきて、本当、一体何が目的なんだか。
(……目的、っていえば)
ふと、昨夜出会った変な男の"忠告"が脳内に過る。
『……知ろうとするな。知らないままでいろ』
あれは、不審者とも捉えられかねない自身のことを指していたのか。
それとも、この姿なく付いてくる、得体の知れない"なにか"のことを言っていたのか。
もし後者ならば、あの男はこの"なにか"の正体を知っているってこと。
(……それなら)
「……霊感ゼロの私なんかに付いてくるより、あの男のほうが、"アナタ"のことわかってくれるんじゃない?」
足は動かしたまま、独り言のように呟く。
当然、夜道は静まり返ったままだし、やっぱり"なにか"も変わらず付いてくる。
(せっかくこっちが"提案"してあげてるのに、無視ですか)
たぶんこの時私は、昼間の襲撃によるストレスと、お酒の力も相まって気が大きくなっていたんだと思う。
こっちの話など聞いてもいない、理不尽な"嫌がらせ"を続ける"なにか"に、ここ最近の悩みの種が重なって、
「まさか、"アナタ"も私の顔目当てだなんて言わないでしょうね?」
嘲笑交じりに吐き出した、その時だった。
「――嬉しい。まさか、気付いて頂けるとは」
「っ!」
ぞわりと粟立つ肌。
衝撃に足が止まる。というか、止めざるを得なかった。
前方、十メートルほど先の街頭下に、ぼんやりと浮かぶ女性の立ち姿。
白布に紅色の花が描かれた着物を纏い、真っ黒な髪を芸妓さんのように結い上げている。
光を避けるようにして俯く彼女の顔は見えない。
なのに私は瞬時に、"違う"と感じた。
――あれは、人間じゃない。
「……そう、お顔。とても美しくて、愛らしいお顔」
氷を滑るビー玉みたいに、薄く澄んだ声。
けれど"声"のはずなのに、空間を通して届いるというよりは、直接鼓膜に響いているような違和感がある。
俯く女はカラリと下駄を鳴らして、一歩一歩、近づいてきた。
「そのお顔は数多のお相手を魅了するのでしょう? そのお顔があれば、もう、悲しむことなんてない」
まるで、金縛り。
直感が危険信号をこれでもかと鳴らすのに、硬直する身体は動かない。
(まずいまずいまずいってこれ……っ!)
逃げなきゃ、逃げないと――!
「……私のお願い、きいてはくださいませんか」
気付けば眼前まで迫っていた女が、妙に白い指で私の頬をするりと撫でた。
伏せられていた顔が上がる。
「――貴女様のお顔を、私に貸してくださいな」
「きっ……!」
ぬっと向けられた"顔"のない面に、悲鳴が洩れる。はずだった。
私の声がご近所の平和な夜を一変しなかったのは、音をせき止めるようにして"なにか"が私の口を塞いだから。
手、だ。どうして、誰の?
パニックに陥りながらも本能で引き剥がそうとすると、
「……だから、"知ろうとするな"と言っただろう。その頭は空っぽの飾りか?」
「!」
聞き覚えのある声に、顔をひねる。
「あんた、昨日の……!」
「うるさい騒ぐな。人が来たら厄介だ」
解放された掌。押しのけるようにして私の前に歩を進めた男は、私を一瞥もせずに顔のない女を睨み続ける。
――間違いない。昨日のあの男だ。
どうしてここに、とか、あの女の人見えてるの、とか。
言いたいことは色々あったけど、どれも言葉にならない私の眼前で、男は着物の合わせ目から万年筆のようなものを取り出した。
深い、黒とも少し違う色をしたそれは、精密な金の装飾が施されている。
(綺麗な万年筆……って、そうじゃなくて)
それ、なに? と私が尋ねるよりも早く、
「――"薄紫"」
男がそう呟いた次の瞬間、その手元で閃光が弾けた。
眩しさに目がくらむ。瞬きをしたその刹那、男の手にあったはずの万年筆が、美しい刀へと姿を変えた。
「う、そ……」
なに? なにが起こっているの?
夢だと言われれば信じてしまいそうな出来事が、紛れもなく現実で、目の前で起こっている。
へたりこんでしまいそうな膝にぐっと力をこめて、自分の置かれた状況を理解すべく必死に脳をフル回転させていると、男は静かに刀を鞘から抜き出した。
躊躇うことなく、やけに艶やかなその切っ先を、顔のない女に向ける。
(――え、こ、これってヤバいんじゃ……っ)
「ちょっ、ちょっと。そんなもの向けたら危ないじゃない……っ!」
「危ない? 自分が取り込まれそうだったというのに、随分とおめでたい思考だな」
「はあ!?」
「いいか、アレはあやかしだ。『のっぺらぼう』と言えば、アンタにもわかるだろう。そしてこの刀は、『祓え』の力を持つ妖刀だ。……一度関わってしまった以上、仕方ない。俺は俺の仕事をする」
「し、ごとって……」
男は刀を構えたまま、眼だけを私を寄こし、
「俺は、祓い屋だ」
「はらいや……?」
呆然と繰り返した私の声に重なるようにして、「ひっ」と怯えた悲鳴が聞こえた。
顔のない――のっぺらぼうの女だ。
恐れるように身体を震わせたかと思うと、「ちっ、違います……!」と両膝を折って地に脚をついた。
「取り込もうだなんて、そんな滅相もございません……! 私はただ、あの方のお顔をお借りしたかっただけで……!」
「奪うつもりだったんだろう? それを"取り込む"と言うのだと、隠世で一度は聞いた事が……」
「お願い致しますっ! どうか、話を……!」
のっぺらぼうの女が、祈るようにして手を組み合わせる。
けれども祓い屋だという男は、「御託はいい」と歩を進めると、そのまっさらな面に刀の先を向け、
「"いかなる理由があろうと、ヒトに危害を与えない"。隠世法度にそうあるはずだ。お前は取り決めを破った。よって重罪犯として、大人しく祓われるんだな」
後悔は、勝手にひとりでやってろ。
そう冷たく言い捨てて、「どうか、どうか……!」と繰り返す女を眼下に、男は刀の柄を両手で握り込めた。
――いけない!
私は咄嗟に駆け出し、男の腕にしがみつく。
「ちょっと、待ってよ!」
「……邪魔だ」
「そりゃそーでしょうね、邪魔してるんだから!」
「……離せ。逃げられたら厄介だ」
「嫌よ」
「なに?」
私はぐっと顎を上げ、男を睨めつける。
「だって、私が手を離したら、あんた、そののっぺらぼうを斬るんでしょ」
「……斬り捨てなければ、"祓え"ないからな」
――本気だ。
悟った私は、ますます腕に力を込める。
「ってことは、その"祓う"ってのは命を奪うってことなんでしょ? だったらちゃんと話を聞いてあげなさいよ。あんなに違うって、お願いしてるじゃない」
「……あやかしは、簡単に嘘をつく。ヒトを謀り、惑わすのも上手い。話しなど聞いたところで時間を無駄するか、逃げられるかのどちらかで」
「はいはい、そんだけ猜疑心が強けりゃアンタは騙されないでしょ」
ポンポンとその腕を軽く叩いて腕を放した私は、「ねえ」とのっぺらぼうを見遣り、
「私の顔を借りたいって言ってたけど、どうやって借りるつもりだったの?」
途端、のっぺらぼうは「それは……っ!」と食い気味に、
「私達あやかしは元々"化ける"能力を持たない種族でも、学べば姿をヒトに変える"化け術"を会得できます。その術を使った際に貴女様のお顔をお借りしたく、こうしてお願いに参ったのです」
「え、すごい。そんなこと出来るんだ」
ていうか、あやかしって皆が皆、化けれるワケじゃないんだ……。
初めて知ったあやかし事情に思わず感心の声を上げると、すかさず背後から、「でたらめだ」と厳しい声が飛んでくる。
「え? 嘘なの?」
男は眉間の皺をますます深くして、
「……確かに"化け術"を会得するあやかしは多い。あやかしが異質として迫害され、現世から追われるようになってからは、特にな。だが――」
男は睨むようにしてのっぺらぼうへと視線を投げ、
「オマエ達『のっぺらぼう』は、未だにほとんどが"化け術"を必要としていないだろう。なんてったって、アンタんとこの長は娘を人間の男に取られて以来、現世を嫌悪しているからな」
「へえ、詳しいのね……。それってやっぱり祓い屋だから?」
「……色々あるんだ。アンタには関係ない」
向けた刀はそのままに、男がぷいとそっぽを向く。
すると、のっぺらぼうは弱々しく「……ええ、その通りでございます」と首肯し、
「私達のっぺらぼうは古くより"顔がない"ことを美徳とし、誇りとする風潮が根強く残っております。ゆえに種族間……『のっぺらぼう』同士で婚姻関係を結ぶ場合が多く、私もまた、父によってあるのっぺらぼうとの縁談を用意されておりました」
――縁談。すなわち、お見合い。
似た境遇に同情心が湧き、「……望まない縁談を、無理やり?」と尋ねると、
「いいえ。自分で良いお相手に巡り会わない限り、いつかはそういう日が来るのだと、ずっと、わかっていましたから」
女は苦笑するような声で、首を振った。
「私達は顔がないため、声や仕草で感情を表現し、相手の個を量ります。そのため自ずと嘘には敏感になるのですが、お相手の方は、それはそれは誠実でお優しい方でした。父はたいそう気に入り、私もまた、そのお方と巡り会えた幸運に感謝したのですが……言葉を、逢瀬を重ねるにつれ、些細な違和感に気が付きました。まるで、何かを振り切るべく、必死に私を好こうとしているように思えたのです」
話す彼女は少しだけ顔を伏せ、「そこで、身を引いておけばよかったのです」と呟いた。
「色恋に疎かった私は、彼が私を"妻"とするべく、今のうちに多くを知ろうとしてくださっているのだと、自分のいいように理由をつけておりました。己の未熟さに気が付いたのは、縁談から三か月が経とうとしていた、ある日の夕暮れのことでございます。申し訳ないと、あの方は突然、我が家の門前で頭を下げられたのです。やはりこの縁談は受けられないと。どうしても添い遂げたい相手がいるのだと、あの方はおっしゃりました。父は激怒し、金輪際、何があろうと姿を見せるなと追い出しましたが、私の心中には悲しみよりも、別の想いが強く宿っておりました。あのお方が振り切ろうとしても叶わなかった、唯一のお相手を知りたい。……今思えば、嫉妬、だったのかもしれません」
彼女は一度空を仰ぐと、再び顎を落とし、
「逃げるようにして家を移ったというそのお方を、こっそりと探しました。するとそう経たずして、そのお方は現世へ向かったのだと教えてくれる者が出てきました。私はそれまで、一度も現世に赴いたことはありませんでしたが、ただ彼のお相手を知りたい一心で現世に参りました。……こちらに来てすぐに、見つかりました。あのお方は、人間の女性と"ヒト"として生きておられたのです」
「! それって、例の"化け術"ってやつ……?」
尋ねた私に、彼女が「その通りでございます」と頷いた。
やった! と心中で両手を放り投げたのもつかの間、私は疑問に駆られ「え、ちょっと待って」と眉根を寄せた。
「それってあくまで、人間の姿に化けれるって術よね? あやかしって、人間として生きるなんてことができるの?」
あやかし事情に詳しかった男に戸惑いの視線を向けると、彼は億劫そうに息をついてから、
「……ヒトが"そう"だと気づいていないだけで、現世で人間と婚姻関係を結ぶあやかしは昔からいる。ヒトの姿を持ち、ヒトのように細かく外見を変え"老い"を装ってはいるが、長い寿命は変えられず、相手の死後に"失踪"という形で区切りをつけることが多い。俺からすれば所詮ヒトを真似ているだけだが、あやかし達はその行為を、『人間として生きる』と呼んでいるのだろう」
「ふーん、なんだかロマンティックね……」
(こいつ、口も態度悪いけど、なんだかんだ訊けば教えてくれるんだよねえ)
実は律儀な人なのかも。
男から視線を外した私は、降って湧いたひらめきに「あ、もしかして」と再び彼女を見遣る。
「人間の女性にその"お方"を取られて悔しかったから、自分も"化け術"で人間になりたかったってオチだったりする?」
そうだったとしたら、それは彼女にとって幸せとは言い難い提案のように思える。
だって、いくら"人間"の姿を真似たところで、その"お方"とやらが再び彼女のもとに戻ってくるわけでもない。
不安げな声になってしまった私に、彼女は呆気に取られたような素振りをしてから「それが少々、違ったのです」と袖を上げころころと笑った。
「その隣を得たいという感情ではなく、あのお二人を見て、"顔"があることを羨ましいと思ったのです。愛しく見つめ合える目が、じゃれ合える鼻先が、愛に笑み、分かち合える唇が。私には、どれ一つありません」
彼女はそっと、口のない"顔"に指で触れた。
「途端に、私は自身の"顔"が酷く惨めなものに思えてきました。私も"顔"がほしい。隠世に戻ってからもその想いは日に日に増していき、私はとうとう、"化け術"を学ぼうと決めたのです」
ですが、と。彼女は弱々しく首を振る。
「私の場合、そもそもの"顔"がありませんから、化けるにしても、"ヒトとしての顔"を一から造らねばなりません。私は師匠を探す前にと、ヒトとしての"顔"を決めるべく、父の目を盗んで現世に参りました。ですがやはり"顔"のない面が当たり前だった私では、どんな"顔"が良いのかさっぱりわからなかったのです。そうして途方に暮れていたある夜、私の前を、貴女様が通り過ぎました」
少し伏せがちだった彼女の面が、私に向く。
つるりとした曲線が、街頭を反射し青白く艶めいた。
「これまで見た誰よりも美しく、愛らしお顔。そして何より――たっぷりの怨恨を纏った、かぐわしいお顔」
どこかうっとりと告げた彼女の言葉に、思わず「え?」と驚愕が漏れる。
私は咄嗟に自身の頬を両手で包んだ。
「うそ!? 私の顔、怨恨なんてついてるの!?」
「ええ、主に女の嫉妬の気が。それも、お会いする度に濃くなっておりますから、おそらく身近な方のものではいかと。心当たりはございませんか?」
私の"顔"に嫉妬する、身近な女性。
連想ゲームさながら、ぽんと浮かんだ顔。
ああ、うん。私は盛大に溜息を零す。
「あるわ……心当たりどころか、正解引き当てたはず」
「私が言うのもなんですが、恨みつらみといった陰の気は、私達あやかしや"良くないモノ"を惹きつけやすいですから。可能でしたら、お早めに対処された方が良いかと」
「そうなんだ……。ありがと、善処するわ」
「ふふ、あやかしに礼だなんて、お優しいのですね」
着物の袖で無い口元を隠し、彼女が笑う。
きっと顔があったなら、とても優しい微笑みに違いない。