目論見通り、視界を覆っている黒い靄が、徐々に薄まってきた。
「やった……!」
後ろを振り返るようにして歩を止める。
瞬間、追ってきた"念"が、再び私を取り囲んだ。
「もう……っ!」
即座に足を動かす。走ればまた、"念"は薄らいできた。
(子狐ちゃんは!?)
がらんどうな石畳を駆けまわりながら、視線だけを手元に落とす。
白い身体は未だ力なく目を閉じ横たえたままだけれど、ぽてりと丸みを帯びたそのお腹は先ほどよりも穏やかに上下している。
――よかった。
そう、安堵を覚えたのも束の間。
「考えたな。だが、いつまでもそうしてはいられまい」
「――っ!」
そんなの、私が一番わかってる。
開いた口からいくら酸素を取り込もうと、痛む胸はますます圧迫されて、ちっとも楽にならない。
少しずつ曇りゆく視界。こんなにも無理やり足を動かしているのに、速度が落ちてきているのだと嫌でもわかる。
喉が渇く。足があつい。
浮かんだ汗が額を、背を、つたい流れ落ちていく。
(なにか、他の手を考えないと……っ!)
「もう、良いではないか」
呆れを含んだ声が耳をさす。
「その狐は所詮、式のひとつ。いくら愛くるしい見目をしていようと、それは仮初の器だ。実体のないモノのために、なぜそこまで身を費やす」
流れる視界の端で、壱袈が首を傾げる。
「それとも、それほどまでに己の無力を認めたくはないと?」
「――そんなの、とっくに知ってる!」
「ならば、そこまでにその狐が気に入ったのか? ならばそのひとつが破れたとて、また雅弥に新しい式を望めば――」
「それじゃだめ!」
そうじゃない。
雅弥の"式"である子狐ちゃんが、他にもいるのなんて知っている。
けれど今、この掌に乗っているのは、この子。
汗ばむ皮膚から伝わってくる微かな重みも、柔らかな毛並みも、細くか細い吐息だって。
全部全部、この子のもの。
「――っ」
視界が黒にのまれていく。足が重い。肺が張り裂けそう。
でも、止まりたくない。止まるもんか。
こんなにも、ほんの一瞬で握りつぶせてしまいそうな無防備な身体を、この子は"私"に預けてくれているのだから。
滲む涙を汗と一緒に腕で拭う。
大丈夫。しぶとさには、自信がある。
(なにか、"念"を引き剥がす、別の方法……!)
考えろ。考えなきゃ。なんとしても、守りたいんだから。
ううん。この子は絶対に、私が守ってみせる。
だって――。
「わたしが一緒にあげまんじゅう食べたのは、この子なの……っ!」
刹那。リン、と軽やかな音がした。
引かれるようにして視線を下げる。と、スマホと共にポケットに入っていたはずの鈴が飛び出ていて、駆ける振動に合わせて跳ねている。
それだけじゃない。
「光って――?」
はっと脳裏に思考が弾ける。
"念"はヒトの陰の気。壱袈はそう言っていた。だから同じ"陰"である自分は、祓えずに散らすのだと。
いつだかの雅弥とカグラちゃんの言葉が駆け抜ける。
――この鈴には、お祖母ちゃんの"護り"の気が込められている。
「……っ!」
イチかバチか。立ち止まりスマホをポケットから引き抜いた私は、鈴を掌に乗せ光を子狐ちゃんの鼻先に寄せた。
そうだ。しかもこの鈴は、カグラちゃんの力を分けてもらった"護り"の子。
神は陽。なら――!
「お願いっ! この子を守りたいの!」
力を貸して……っ!
そう、叫んだその時。
「なん、と……っ!?」
壱袈の驚愕が轟く。
私はというと、声も出せずにいた。
鈴から発された淡い光。それは私の掌どころか全身を包みこみ、まるで"念"との間に薄い膜が出来たよう。
「こ、れは……?」
やっとのことで、戸惑いを零した刹那。
力なく伏せられていた耳がピクリと動き、子狐ちゃんの瞼がゆっくりと開かれた。
「子狐ちゃん……!」
歓喜の声を上げる私に、子狐ちゃんが顔を起こしてキュウと鳴く。
そのまま上体を起こそうと前足を踏ん張るも、まだ力が入らないのか、ずるりと滑り伏せてしまった。
「あ、まだ無理しちゃダメだって……!」
キュウンと鳴くその声は、なんだか申し訳なさそう。
けれども見上げる顔はすっかり元の様相で、先ほどまでの苦し気な姿は消え失せている。
「……っ、よか、ったあ……」
安堵に力が抜け、私はぺたりと石畳に膝をついた。
鼻の奥がツンと痛い。
荒い息はまだ整わないし、弛緩するままこの場に倒れこんでしまいたい。
けど。
「いやはや、これはこれは実に見事」
「……っ、壱袈!」
黒く重なる"念"の向こう側から、上機嫌に手を打つ音がする。
「彩愛、俺はその方を少し見くびっていたようだ。それだけの"念"を抱え陰の気に染まらぬばかりか、"護り"を育て、その身に纏うとは」
しかしな、と壱袈は諭すように囁き、
「そこまでしても、その方を追う"念"は変わらず仕舞いだ。その身体は、もはや支えるだけで精一杯であろう?」
もう、諦めろ。
その言葉と共に、"念"を突き破るようにして壱袈の腕が現れる。
「この手を取れ、彩愛。俺が救い出してやろう。ヒトにしては、実に良く奮闘した」
「…………」
あやかしは簡単に嘘をつく。耳にタコができるほど繰り返された雅弥の忠告が、脳裏を過る。
けれどきっと。私がその手をとったなら、壱袈は"念"を散らし、助けてくれる。
そんな直感にも似た確信に、私は視線を自身の掌に落とした。
上体を起こし、毛を逆立てて壱袈を威嚇する子狐ちゃん。鈴はその傍らで、淡い光を送り続けている。
(……この光だって、いつまで続くか)
この鈴の"護り"が消えれば、子狐ちゃんは再び苦しむことになる。
わかってる。ここで諦めて、壱袈に"助けて"もらうのが一番なんだって。
――けれど。
その手を取ってしまったら。
きっともう、雅弥の隣は許されない。
「……っ、悪いけど」
ジンジンと熱く痺れる両足を叱咤して、ゆらりと立ち上がる。
心配げに見上げてくる子狐ちゃんに、「ごめんね、もう少し付き合って」と苦笑を向け、私は決意に"念"の外を睨めつけた。
「助けてもらうのは、最後の最後にさせて!」
傾けた上体と左脚でバランスを取り、右脚で勢いよく蹴り上げる。
即座に退いた壱袈の手。"念"がざわざわと忙しくうごめきはじめた。
「"念"が風で散らせるなら……っ!」
もう一度、おろした右脚で蹴り上げる。
と、光る足先の軌道を描くようにして、"念"の壁に白い跡が浮かんだ。
向こう側が見える。
(やっぱり……っ!)
今、私の身体は鈴の"護り"――つまり、陽の気が覆っている。
なら、きっと。
「キックボクシング……っ、始めておいてよかった!」
(感謝するわよ、高倉さん!)
手ごたえに口角を上げ、私は再び右、今度は左と周囲の"念"目がけて宙を蹴り上げていく。
祓えているのか、散らしているのか。細かいことはよくわからない。
けれども蹴り上げるたびに"念"は、薄く、少なくなっていく。
(――いけるっ!)
息が上がる。腕も足も、きっととっくに限界を迎えている。
なのに不思議と辛くはない。どころか思考は妙に冴え冴えとして、ちょっとした興奮状態に陥っている。
もしかしたら。これでやっと雅弥に守られるだけの"お荷物"じゃなくて、"戦力"としてその隣に並び立てるかもしれないって歓喜が勝っているからで――。
(これで、ラスト……っ!)
眼前で濃く固まるひとつを狙い、感覚のままに右膝を振り上げた。
瞬間。
「――"薄紫"」
「!?」
蹴り上げた軌道の、すぐ真下。
同じ"念"を裂く、銀の切っ先。真っ黒な着物姿の青年。金の美しい拵。
俯く顔が微かに上がり、長い前髪の隙間から、夜を灯した瞳が私をとらえた。
「ま、さや……?」
零れた名に、彼はぎゅっと眉根を寄せ、
「……遅くなった。すまない」
心底悔いた、悲痛な面持ち。
私は衝動に「そっ――」と口を開き、
「そっちじゃないでしょ謝るなら! もうーっ! この"念"ラストだったんだからね!? 私が全部ケリつけたかったのに! 来るならもうちょっと遅く来てよ!」
「な……っ! 俺は早くアンタを助けようと必死に……!」
「分かってるけど! そこはありがとうだけど! でも違うんだってば……っ! 私だってせっかく"念"をなんかいい感じに消せてたんだから、最後まで私が――」
刹那、視界が揺れた。
違う。座り込んでしまったらしい。雅弥が「おいっ!」と焦った顔で手を伸ばす。
「あー……、ううん。ごめん、大丈夫。ちょっと、やっぱり限界だったみたい」
感覚のない足に視線を落とす。と、細かく震え、先ほどまでの光はすっかり消え去っている。
――残念。
そう思った途端、どっと疲労が襲ってきた。
私は子狐ちゃんと鈴が落ちないようにと、なけなしの神経を遣りながら、両腕を石畳に落とす。
「……これのどこが大丈夫なんだ」
呻くようにして見下ろしてくる雅弥に、
「どこがって……子狐ちゃんも私も無事でしょ」
「だから、狐はともかくアンタはどこがっ……いや」
雅弥は怒りを抑えるようにして言葉を切ると、
「……高等な"狭間"は、招かれなければ簡単には見つからない。俺がここに辿り着いたのは、その式が導になったからだ」
雅弥が片膝を石畳について、その視線を私に合わせる。
珍しく慈しむような眼で子狐ちゃんを見遣ったかと思うと、再び私に向いて、
「……よく、ソイツを守ってくれた」
「――っ!」
安堵と感謝の滲む、柔い顔。
そうそうお目にかかれない、色のさした表情に思わず言葉をのんだ、刹那。
「――くっはは! そうかそうか。俺はてっきり、雅弥が"松"なのだと思っていたのだがなあ」
「……壱袈っ」
瞬時に頬を硬直させ、怒りを滲ませた雅弥が立ち上がる。
口元に手をやりながら歩み寄る壱袈は、その眼光だけで切裂けそうな雅弥の睨みにも一切動じない。
「思っていたよりも遅かったな、雅弥」
雅弥は"薄紫"を構えずとも、握る右手に力を込めて、
「"狭間"に連れこむなど聞いてない」
「だが、連れ込まぬとも言っていまい」
「隠世警備隊の隊長でありながら、法度を破るのか」
「とんでもない。俺が隠世法度を破るわけがなかろう」
雅弥が苛立ち交じりに奥歯を噛む。
「コイツに"念"を……っ、ヒトに危害を与えたのにか」
「ふむ。どうやら誤解があるようだな」
心外だとでもいう風にして、壱袈は肩を竦める。
「彩愛との和やかな散歩の最中、淀みとなりかけた"念"を見つけたのでな。休暇中とはいえ、俺は隠世警備隊の長。参拝客に危害の及ばぬ"狭間"にて職務を全うしようとしたのだが、"ついうっかり"手が滑り、念をひと束散らし損ねた」
(つ、ついうっかり……!?)
うっかりどころか、しっかり狙ってきたくせに!?
もしかして聞き間違えた? なんて唖然としていると、にこやかな壱袈の双眸とかち合った。
「彩愛は"見える"ヒトだ。故にはぐれた"念"に気づかれてしまってなあ。彩愛は"念"に捕らわれながらも、その身を呈し、必死に手助けしてくれたのだ」
「なっ……」
(なんて嘘を平然と!?)
抗議しようと口を開く。けど、
「なあ、彩愛。事実、俺は何度も"念"からその方を救い出そうと尽力したな。悲しきかな、終いまでこの手を取ってはもらえなんだが」
「うぐっ……」
嘘ではない。確かに壱袈の助けを拒み続けたのは、私のほう。
けどそれは、代わりにあやかし事から手を引けって脅してきたからで……。
(あ、あれ? でもよくよく考えたら、今のこの状況って同意しなかった私の自業自得……?)
壱袈が故意に"念"を私に飛ばしたと、確信はあっても証拠はない。
おまけにその"念"によって、傷を受けたわけでも。
私がこうして疲弊しきっているのは、私がただ、壱袈の言葉に頷きたくなくて、それで躍起に――。
「……おい」
低い声に顔を跳ね上げる。
と、雅弥は眉間に不快を刻んで、
「これがアイツのやり方だ。丸め込まれるな」
「え……あ! なんて高度な心理戦……っ」
「ただの詭弁だ。……だが、覆せるだけの材料がない」
苦虫を嚙み潰したような顔で告げる雅弥。
壱袈は満足そうに頷いて、「さて、誤解も解けたところで」と話題を転じる。
「見極めについてだが」
「! もちろん、私の勝ちよね!?」
食いつく勢いで尋ねた私に、壱袈は「勝ち負けを決めていたわけではないのだがな」と小さく噴き出して、
「まあ、良い。ならばその方の勝ちだ、彩愛。今後の身の振り方については、"見えるだけ"ではなくなったその方に委ねよう」
「やった……!」
「ただし、ひとつ条件がある」
壱袈は細めた双眸でついと雅弥を流し見て、
「藤と松」
「…………」
黙したままの雅弥から赤い目が離れ、疑問を浮かべる私に向く。
「"薄紫"とは藤の色。その刀はな、いわば藤なのだ」
「"薄紫"が、藤……?」
「藤の花はひとりでは咲けぬ。巻き付き己の支柱となる、松がなくてはな」
「松……」
そういえばさっき、雅弥が松だとかどうだとか……。
当惑する私の心中を察したように、壱袈がゆったりと頷く。
と、穏やかな苦笑を浮かべ、
「彩愛。俺がその方に告げた言葉に、嘘はない。その方は"何も知らない"だろう? 俺たち隠世警備隊が守るは、あやかしというより、むしろヒトだ。だからこそ俺は、その方が知らぬまま深く踏み込み、傷つく姿を見たくはなかった」
だが、と。壱袈は瞳に憐れを映す。
「その方の想いは、俺が想像するよりも遥かに強い。それこそ、"見えるだけ"ではなくなるほどにな。真実を知ったうえで選ぶといい。美しくも無慈悲な、"薄紫"と雅弥の契約を。それが条件だ」
よいな、雅弥。
佇む雅弥を一瞥して、背を向けた壱袈は宝蔵門へと歩いていく。
「この"狭間"は、その方らが『忘れ傘』に戻るまで繋いでおこう。好きに使うといい」
朱塗りの門前で歩を止めた壱袈が、コツリと靴底を鳴らして振り返る。
物憂げに伏せられた瞼。
「異質を恐れず、あやかしの心をも重んじ、陰と陽とを従える華……か」
これはこれは、と。くっと口角が上がると同時に、黒羽が一枚、私へと向けられた。
あ、と思った瞬間にはくるりと回り、穏やかな風が周囲を取り巻く。
「わっ……!」
浮いた腕から、するりと抜けた打掛。
風に踊るようにして、橙色の宙を泳ぐ。
「はたしてどちらが松となるか。その方らの決断を、心待ちにしているぞ」
辿り着いた打掛を両手で受け止めた壱袈は、その風を纏うようにして、ひらりと肩にかけた。
踵を返す。
「実に楽しき休暇だった。感謝するぞ、彩愛」
愛おし気に綻ぶ、赤い瞳。
「茶を供に語らうは、次にな」
たん、と軽く地を蹴った壱袈の姿が、門を境に消えていく。
ひらめく打掛は、まるで広がる烏羽。
なびく袖が「ばいばい」と、手を振っているように見えた。
風が止む。
残されたのは静寂と、橙を反射する私達。
(……ええ、と)
私はまず、何をしたらいいのだろう。
壱袈から"松"とやらを選ぶ権利を勝ち取ったとはいえ、いまいちよくわかっていない。
おまけに"薄紫"について、雅弥に話してもらわないなのだけど……。
雅弥を見上げる。口を閉ざし門を睨む横顔は、どうにも迷いに強張っているような。
(……そんな思いつめた顔をするくらい、私には話したくない内容なのかな)
ツキン、と痛んだ胸をごまかそうと、咄嗟に首を振る。
何をいまさら。雅弥は初めからずっと、私には"関わるな"と言い続けている。
ちょっと優しくしてもらっただけで、少しは信頼してもらえたのかも、なんて。
私の図々しい、身勝手な期待でしかない。
(ともかく、『忘れ傘』に戻らなきゃ)
心配げに送り出してくれた、カグラちゃんの顔が浮かぶ。
お葉都ちゃんはもう怯えてないだろうか。早く皆で、渉さん渾身のお祝いケーキを食べたい。
空いている左手で石畳をぐっと押して、立ち上がろうと両脚に力をこめる。けど、
「……うっそ」
立てない。どころか、面白いくらい動かない。
笑うべきか、落ち込むべきか……って、そうじゃない。
(これじゃ戻るに戻れないんですけど……っ!)
キュウンと悲し気な声と共に、右手に微かな反動。視線を落とすと、子狐ちゃんが石畳に飛び降りたらしい。
心配げに耳を伏せ、お座りの体制で私を見上げている。
「ええと、平気よ平気。うん。もうちょっと休んだらすぐに――」
「……だから、どうしてアンタはそう、ひとりで強がるんだ」
「えっ」
近い声に顔を跳ね上げる。
いつの間にか眼前に立っていた雅弥は、先ほどまでの剣呑さを消して、呆れたように息をついた。
「そんなに俺は信用ならないか」
なんだか以前にも、同じセリフを聞いたような。
「まっさか。ていうか、答えをわかってて訊いてるでしょ、それ」
「……そうだな。だがアンタは、いつだって想像の斜め上をいくだろう」
「ウソ、本気で疑ってるの? ならこれからみっちり雅弥への信頼度を言葉にするから。ええとまずは――」
「いい。必要ない」
"薄紫"、と告げて鞘に納めた雅弥は、ペーパーナイフの姿に戻ったそれを帯に挟んだ。
と、しゃがみ込みながら私の腕を引き、自身の肩を寄せて、背に私を引き寄せる。
「え、ちょっ!?」
「……横抱きでは、何かあった時に手が使えないから、こっちにしてくれ」
「違う違う、姫抱きがいいとかそーゆーことじゃなくて!」
「なら、なんだ。歩けないのだろう」
肩越しの視線が、さっさと乗れと告げ来る。
(ええと、まあ、本気で力入らないんだけどね? けどこう、いきなり密着体制ってのも、心の準備がいるというか?)
いや、なんか、他意があるとかそういうことではないんですけど。
雅弥もレスキュー的な意味合いでしかないって、わかっているけども!
ただ記憶にある範囲では、誰かに背負われるのってお父さんが最後だからというか。
「……お、重いかもよ」
混乱に跳ねる心臓を意識しながら、お決まりの常套句を告げると、雅弥は不可解そうに眉根を寄せ、
「成人を背負うのだから、重いに決まっているだろう」
「……そーですね」
あ、うん。そうだよね雅弥はこういうタイプ!
途端にすっと頭が冷え、混乱の糸が解けた。
私は眼前の背中にもたれるように体重を預け、
「んじゃ、よろしくお願いしまーす」
「……やっぱり訳が分からないな、アンタは」
嘆息交じりに私の太もも下に手を回した雅弥が、「揺れるぞ」と呟き立ち上がる。
子狐ちゃんはぴょいんと私の肩に飛び乗ってきた。
誰もいない石畳の上を、雅弥が歩き出す。
「……ごめんね。迷惑かけちゃって」
「……アンタが俺に迷惑をかけなかったことが、一度でもあったか」
「……ですよねえ」
うんうん、このドライな感じ。落ち着く。
二人分の重みに擦れる草履の音が心地よくて、薄く息を吐きだしながら肩を緩める。
宝蔵門をくぐる。
見えた仲見世通りも、店はあれどやはり誰もいない。
「今なら順番待ちなしで、食べ歩きし放題……」
「……店員もいないのだから、買えないしモノも作られないだろう」
「あ、そうじゃん。ざーんねん。せっかくだから"狭間"を堪能していこうかと思ったのに」
「アンタは"狭間"をなんだと……。そもそも、人に背負われておいて、どこまで自由なんだ」
「だって、こんなにも人がいない浅草なんてレア中のレアじゃない。普段は行きたいなーって思っても、けっこう気合入れていかないとだし」
「……それは、そうだが」
珍しく同意する雅弥。
一瞬、驚いたけれど、雅弥は家とはいえ『忘れ傘』に入り浸っている。
しかも言葉はなくとも、渉さんのスイーツを結構気に入っているのは見ていれば明らか。
ホントは浅草グルメだって気になっているのに、常の人混みにもまれるのが億劫で諦めていても、おかしくはない。
(今度『忘れ傘』に行く時は、なにか差し入れ的に買っていってあげようかな……)
そんなことを思案しているうちに、揚げまんじゅうを楽しんだ店前を通り過ぎていた。
そのまま仲見世通りを突っ切るのかと思いきや、雅弥は進行方向を右に変える。雷門を出るのではなく、ここで曲がるらしい。
見えた『伝』の一字を柱に飾る朱塗りの門柱には、「伝法院通」の文字。
その先には同じ色の柱が等間隔に並び、その上部の白い面には、それぞれ異なる筆の文字と絵が描かれている。
黄土色の道。並ぶ店を眺めていると、やっぱり美味しそうな看板に視線がいってしまう。
「……渉さんのお祝いケーキ、ホールだといいんだけど。二切れ……ううん、出来ることなら三切れくらい食べたい」
「……まんじゅうまで食べておいて、どれだけ食べるつもりだ」
(あ、やっぱり知っているんだ)
本当に筒抜けなんだ、などと"式"の凄さを実感しつつ、私は「そうだけど」と抗議の声をあげる。
「走ったり蹴ったり、いつになく身体動かしたから、お腹すいちゃって。エネルギーチャージしなくっちゃ」
ねー、と肩に乗る子狐ちゃんを見遣ると、キュウと鳴いて同意を示してくれる。