少しずつ少しずつ、崩れていく抹茶パフェ。
郭くんは悲し気な瞳で、手を止めた。
「……俺はこの家が好きなんだって、あの人が言ったんだ。死んじゃった奥さんと過ごした、娘が孫を連れてときどき帰ってくるあの家が、自分の"居場所"なんだって。……すごく、急で。どうしたのって訊いたら、自分ももう、そう長くはないだろうからって、笑ってた」
郭くんの持つスプーンが、小さく揺れる。
「……初めて、あの人がいなくなるってことを考えた。すっごく苦しくて、怖かった。あの人は僕に、せっかく見つけた"家"なのに、残してやれなくてごめんなって、謝った。自分が死んだら、ここは無くなるだろうからって。……その時、気が付いたんだ。僕が本当に"居心地がいい"って思ってたのは、あの家じゃなくって、あの人自身なんだって」
丸まった手の甲に、ほたりと雫が落ちた。
「……あの人が、大好きだった。あの人の"居場所"を守っていれば、いつか、帰ってきてくれるかもしれないって……そう、思ったんだ。肉体はなくても、ほんの、一瞬だけでも。僕は、僕は……っ」
ただ、と。絞り出すような声が、心をかたどる。
「もういちど、あの人に、会いたかったんだ。会って、"ありがとう"って……"大好き"って、伝えたかった」
ボロボロと涙を落としながら、郭くんは未練を振り切るようにして、パフェを口に運ぶ。
――魂だけでもいい。もう一度、ほんの一目だけでも、会えたなら。
私達は。残されてしまった者は。
一体いつまで、ありもしない"もしも"を願い続けてしまうのだろう。
それでも耐え難い胸の痛みを誤魔化して、治癒を時間に委ねて。
意地でも前を向くと決めたのは、自分自身だから。
「……次に会えた時に、ちゃんと伝えないとね」
絶対の保証なんてない、いつかの再会を夢見て告げると、郭くんは「……うん」と力強く頷いた。
ズボンのポケットからあのハンカチを取り出して、乱雑に目元を拭うと、ダージリンを口に含む。
そしてまた、残り僅かとなったパフェを口に。
「……あの家を出て、よかった。だって、こんなに美味しいモノがあるんだって、知れたから」
呟く言葉は、まだ、自身の選択を"正しかった"としたいがための、言い聞かせなのかもしれない。
だからこそ私は、わざと軽い調子で「でしょでしょ?」と笑んで見せる。
「けどね、このパフェだけで満足してちゃダメよ。だって『忘れ傘』のスイーツは、他のもすんごく美味しんだから」
だからね、と。
私はもう一つの再会を胸に描きながら、
「今回は、渉さんと雅弥の"おもてなし"だったでしょ? 今度ここで会えた時は、私が郭くんにご馳走してあげる」
「……いいの?」
「もちろん! あ、でもその代わり、私の話し相手になってもらうから、その覚悟で」
ね、とちょっと意地悪っぽく両目を細めた私の対面で、雅弥が「アンタはまた……」と額を抑える。
私は何を今更、と首を傾げて、
「だって雅弥、ハンカチ返してもらうってだけでも、二人で勝手に会うなって言うでしょ?」
「当たり前だ。アンタはあやかしに抗う術を持たないだろう。そればかりか、そいつらに対して考えが甘すぎる。俺がいてこの有様では、俺の目の届かない場でうっかり連れ去れてもおかしくは……」
「え? 隠世って、"見える"ってだけの私でも行けるの?」
「……昔から、ヒトが隠世に来ることは、あるよ。連れてこられたり、紛れ込んじゃったり、理由はいろいろだけど」
でも、と。
郭くんは悲し気に眉根を寄せて、
「隠世の空気は、ヒトにはあまり、良くないから。あやかしと"契り"を結ばないと、そう長くは、いられない」
「へえ……ってことは、私がもし連れていかれちゃった場合は、急いで戻ってくるか、そのあやかしとなんとしても"契り"? とやらを結べばいいってことね!」
理解した! と手を打った私に、「だから、どうしてアンタはそう考えが斜め上なんだ……!」と憤る雅弥の声。
「だって、注意すべき事項があるのなら、ちゃんと対応策を知っておかないとだし」
「そもそもまず最優先事項として、危険事に足を突っ込まないよう、振る舞いを正してだな……!」
「だから郭くんとも、『忘れ傘』で会おうって話してるんじゃない。郭くんが私を襲ったり連れ去ったりするとは思えないけど、そうやって雅弥の胃がキリキリしちゃうでしょ?」
「俺の胃の心配をするのなら、あやかしや神と"約束"を結ぶのを止めろ」
「それは無理。だって私の人生は、私が選んでいくモノだし。私がしたいって思ったら、止められるのは私だけなんだから」
「……じゃじゃ馬め」
歯噛みするような罵倒も、「私をコントロールしたいのなら、上手く乗りこなしてくださーい」と受け流してみせる。
だってお葉都ちゃんの顔造りも、カグラちゃんの事情も、郭くんとのいつかの再会も。
相手があやかしだとか神だとかなんて関係なく、全部、私が大切にしたい"約束"だから。
「……確かに、あなたは少し、危ないかもしれない」
「へ?」
「……これ」
郭くんはそう言って、自身の耳元に手を滑らせた。
その耳を飾っていたピアスを外し、私へと差し出す。
「……これには、僕の妖力が込められているんだ。あまり強くはないけれど、少しだけ、あなたを守れるかもしれない」
もらって、と告げる郭くんに、私は戸惑いながら、
「そんな大事なモノ、本当に私に渡しちゃっていいの?」
「……うん。あなたに、受け取ってほしい。……僕もまた、ここであなたと会いたいから」
向けられた笑みに微かな願いを見つけてしまって、私はその強い瞳に背を押されつつ「ありがとう」と受け取ろうとした。
刹那。
「本当に渡すつもりか」
「!」
硬い声に、上げた手を止める。
見れば雅弥は見定めるような双眸で、郭くんをまっすぐに見据えていた。
口を挟めない。そんな空気を感じ取った私は、場合によってはすぐに助け舟をだそうと準備をしながら、心配を手に郭くんを見遣る。
けれど郭くんはひるむことなく、決意を帯びた表情で「うん」と頷き、
「……渡しても、いい?」
「……害することが目的でないのなら、俺に止める権利はない」
「……ありがとう」
ロールケーキを一口放り込んだ雅弥は複雑そうに顔をしかめているけども、どうやら話はまとまったみたい。
再び私へと向き直った郭くんから、今度こそ「ありがとう」とピアスを受け取った。
淡い雫のようなそれは、光の角度によって、透明にも青色にも見える。
――綺麗。
私は右耳のピアスを外して、さっそくと受け取ったそれを耳に。
「どう? 似合ってるでしょ?」
髪を退け尋ねた私に、「……うん。よく、なじんでる」と郭くん。
私はそうでしょそうでしょと満足に頷いて、
「それにしても、私がちょっと危ないってどういう意味?」
郭くんは苦笑交じりに口角を上げる。
「……あなたは、そのままでいて。僕は今のあなたに、助られたから」
郭くんはそっと手を伸ばして、私の耳につけたピアスに触れた。
「……次はきっと、僕があなたを守る」
それはまるで、未来での再会を誓うかのような。
だから私もこの先を祈って、「ピアス、大事にするね」と笑みを返した。
共に願いを乗せた舌状に残る、抹茶の渋みと苺の甘さ。
彼の誠心が込められたピアスが、"次"を叶えるまでの支えになってくれたなら。
「……そろそろ、終いだ」
そう告げて雅弥が腰を上げたのは、私と郭くんの器が空になり、冷めたダージリンの最後のひとくちを飲み干した時だった。
「あいつらは、耳が早い。あまりのんびりしていると、向こうからきてしまう」
「あいつらって?」
「隠世の警備隊だ」
「っ!」
聞き覚えのある単語に、頬が強張る。
これから郭くんは、自身の罪を背負って、ひとりで向かわなければならない。
いつまで、どんな罰を受けなければならないのか。結局、私は何ひとつ聞けていない。
(気になる、けど……。今くらい、その話は忘れていたいだろうし……)
ためらいに歯噛みする私の緊張を察したのか、
「……そんな顔、しないで」
郭くんは困ったように小さく笑んで、
「ちょっと、怖いけど。僕にはたくさんの"これから"があるから、大丈夫」
「郭くん……」
見ればいつの間にか、上り口にカグラちゃんの姿が。
カグラちゃんは私と目が合うと、宥めるような笑みを浮かべた。
「祠まで、ボクが案内するよ。彩愛ちゃんも一緒においで」
カグラちゃんに誘われるまま、私も郭くんと共に立ち上がり、靴をはく。
先を歩く郭くんの迷いのない背に、私もしっかり送り出してあげなきゃと鼓舞していたその時、
「……あれ?」
背にあった雅弥の気配に、違和感。
振り返ると、雅弥はカグラちゃんの進む厨房横の通路ではなく、右方に伸びる厨房の出入口へと繋がる廊下へ行き先を変えている。
「雅弥はいかないの?」
私の問いに、雅弥が歩を止め肩越しに振り返る。
「……必要なモノがある。先に行っていろ」
「あ、うん……」
頷いて、急いでカグラちゃんと郭くんの背を追う。
普段立ち入ることのない、暖簾に遮られた通路の奥。その果てにあったのは、勝手口に似た簡素な扉だった。
上部のスモークガラスには白いレースのカーテンがかかっていて、外の明かりを柔らかく受け止めている。
「ここから外に出れるんだよ」
カグラちゃんが銀色のドアノブを掴んで、回し開けた。
その庭はけして広いとはいえないけど、私の住むマンションの一室よりは、面積がある。
ブロック塀に沿うように背の低い木々が並んでいて、その中央に、左右に屋根が広がった朱塗りの小さな祠があった。
土台となっている石も、祠の木肌も、その身に受けた年月に褪せている。
祠へと歩を進めたカグラちゃんは、くるりと回って、
「これがボクの"本来"のお家で、隠世との境界。彩愛ちゃんは見るの、初めてだよね?」
どう? と尋ねられ、私は再び祠に視線を移す。
自然に囲まれた、と言えば聞こえがいいけど、ひっそりと佇む姿は、まるでひとりぼっちのよう。
とはいえ祠自体も古びているだけで苔や汚れはないから、手入れされているのは一目瞭然なのだけど。
"住む"には手がかかりそうで、自分の"家"にするのは、ちょっと御免こうむりたい。
カグラちゃんが一緒だと言うのなら、少し考えちゃうかもしれないけど。
(というか――)
先ほどから胸を打つ高鳴りに、すうと息を吸い込む。
正直、"家"としてどうかってことより、別の"事実"が私の胸を躍らせる。
だって私がいま目にしているのは、神様の家で、隠世との境界なのだから。
「……正直言うと、すっごくドキドキしている。なんか、神聖なモノを前にしているっていうか、この世の神秘に触れているっていうか……」
私は思わず参拝するようにして両手を合わせ、
「これからこういう祠を見かけたら、ちゃんと手を合わせるわね……!」
「あっはは! さっすが彩愛ちゃん。怖がる……はないにしても、同情のひとつはあるかなーって思ってたんだけど、全然だったね!」
あ、しまった。私は慌てて、
「ご、ごめんねカグラちゃん! 私ったらつい……!」
「ううん。むしろ、良かったよ。こーんなボロでも、ボクにとったら大事な"居場所"だから」
カグラちゃんは「ああでも」と指先で目尻の涙をぬぐって、
「道端で見つけても、むやみやたらに祈らないほうがいいよ。場所によっては本来居た"神"じゃなくて、良くないモノが憑いちゃってる場合もあるし。仮にちゃーんと"神"だったとしても、変に気に入られちゃうと厄介だしね」
「あ、それってもしかして、連れ去れちゃったり?」
「そうそう。昔から"神隠し"って言葉があるくらいだからねえ。彩愛ちゃんも気を付けないと!」
(……雅弥と郭くんといい、私ってそんなに危なかっしいのかな)
まあでも確かに、私はこんなに綺麗だし。
あやかしや神様がどんな基準で選んでるのかはわからないけど、顔基準なら「一目惚れです!」なんて言われてもおかしくはないかな。
「わかった、気をつける!」
元気よく頷いた私に、「うんうん、ボクも気をつけるね」とカグラちゃん。
(鈴の件といい、私の身の安全まで気にしてれるなんて優しいなあ……)
ほっこりしていると、隣の郭くんが私の袖をくんと引いた。
「……本当に、気を付けてね」
「郭くんまで……気にかけてくれて、ありがとうね」
「……ううん」
なんだか微妙な顔をした郭くんは、カグラちゃんへと視線を向けて、
「……本当に、気を付けて」
「そうだね。ボクも頑張るよ」
交わされる二人の視線に、謎の結託感。
カグラちゃんは「さてと」と祠を見遣って、
「ここから隠世に渡るといいよ。ボクの祠だからね。安全はもちろん保障つき」
パチリと飛ばされたウインクに、郭くんが「……ありがとう」と頭を下げる。
灰色の、淡く輝く瞳が私を見上げた。
「……すごく、楽しかった。こんなに温かい気持ちで、帰れるとは、思わなかった」
呟くように告げた郭くんは、手にしていたハンカチを大切そうに抱きしめる。
「……ハンカチ、絶対に返しにくるから、待っていて」
「うん。ずっと待ってるから、必ずよ」
「……約束」
それはさながら、ゆびきりめいた。
小指だけが上がる左手を掲げた郭くんに、私も小指を立てて「約束、ね」と応じる。刹那。
「"約束"をより強くするな」
「わ、雅弥! びっくりした……」
飛び上がるようにして振り返ると、剣呑に双眸を細めた雅弥の姿。
「それは俺の台詞だ。ったく、ほんの少し目を離しただけでアンタは……カグラ」
鋭い眼光もなんのその。カグラちゃんはころころと笑って、
「これくらい、彩愛ちゃんなら平気だよお。ね、彩愛ちゃん?」
「私? もちろん、約束を破るつもりもないし、言葉に嘘もないし。針千本のめるのかって心配なら無用だけど」
「そうでは……いや、もういい」
雅弥は脱力したように息をついてから、頬を引き締めて郭くんへと視線を流す。
と、おもむろに右腕をつい、と伸ばし、
「……コイツがお前の供をする」
雅弥の袖口から真っ白な子狐が姿を現し、手の甲をててっと駆けると郭くんの肩に降り立った。
くるりと首後ろを回り、反対の肩で腰を落ち着けたその口元には、ストローの吸い口だけを切り取ったような巻物を咥えている。
「俺の名で、書面を持たせる。それがあれば、事実以上の罪を問われることはないだろう」
「え、まって。それって、嘘の罪まで背負わされる可能性があるってこと?」
「言っただろう。あやかしは簡単に嘘をつく、と。現世の、今回の一件を"知った"あやかしが、退屈しのぎにあることないこと吹聴していてもおかしくはない。俺の名がついた書面があれば、そこに書かれた内容だけが事実とされる。……あいつらとは、そういう契約になっている」
つまりこの書面は、郭くんを守ってくれる大事なお手紙ってこと。
理解した私が「ありがと、雅弥。必要なモノって、それのことだったんだ」と告げると、雅弥は一瞬だけ躊躇してから、
「……それと、これも持っていけ」
子狐ちゃんの出てきた袖口とは反対の袖から、雅弥が小さな巾着を取り出す。
翡翠色のそれを戸惑いがちに受け取った郭くんは、ほどなくして何かに気づいたように息を詰め、
「これは、隠世で織られた巾着……?」
「あやかしには鼻の利くヤツが多い。そのハンカチには、ヒトの気配が染みついてるだろう」
「ねえ、その"ヒト"って私のことよね? え? もしかしてなにかマズい?」
「……あやかしには、ヒトを快く思わない連中もいる。隠世の巾着を使えば、ヒトの気配をある程度ごまかせる」
「それって……」
雅弥の用意した、郭くんを守るアイテムその二ってこと。
(私には散々、約束をするなだの甘いだの注意するくせに)
こんなに準備してあげて、一番に"優しい"のは、自分じゃない。
緩みかけた頬に慌てて力を込める。けれど雅弥は目ざとく私を睨んで、
「……言いたいことがあるのなら、聞くが?」
「ちょっと、なんでこんな時に限って乗り気になるの!?」
"優しいじゃん"なんて言葉にしたら、絶対にへそを曲げるくせに……!
言うもんかと無理やり口を噤むも、じりじりと迫る無言の圧。
静かな攻防に、ふふっと笑う声がした。郭くんだ。
「……やっぱりここは、すごく、いいところ」
「でしょでしょ? 戻ってきたアカツキには、ぜひご贔屓を」
「カグラちゃん……抜け目ないわね」
「だってボクは稲荷の眷属だからねー。商売繫盛っだよ」
歌うような調子で紡いだカグラちゃんが、両手を丸めて狐のポーズをとる。
「あ、あざとい……。でもすんっごくカワイイ……!」
「前から思ってたけど、彩愛ちゃんってけっこうボクのこと好きだよねえ」
「だってカワイイには逆らえないもの……!」
「おい。いい加減じゃれついてないで、コイツを隠世へ送れ」
「だって、カグラちゃんが……カグラちゃんがカワイイ……っ!」
「なになに雅弥? ヤキモチ? だいじょーぶだよお。雅弥もちゃーんと、彩愛ちゃんと相性ばっちしだし!」
「カグラ……渉に言って、今夜の油揚げには唐辛子をまぶすからな」
嚇す低い声に、カグラちゃんが「やだやだ! わかったちゃんとやるから!」と血相を変えて首を振る。
(カグラちゃん、唐辛子が苦手なんだ……)
「ホラ、キミは祠の前にきてー!」とキビキビ動きだしたカグラちゃんに応じて、郭くんが楽し気に歩を進めた。
祠前に立つ。途端、郭くんはくるりと振り返り、
「……これ、ありがとう。大事に、使う」
開いた巾着の中に、収められたハンカチ。
紐を引いてしっかりと閉じた郭くんは、深々と頭を下げて、
「……お世話に、なりました」
その瞬間。郭くんの足元が光を帯びた。
――これで、お別れ。
こみ上げてきた哀愁を奥歯ですり潰して、私は「気を付けてね」と笑みを作る。
だって、私たちには"約束"があるのだから。
蛍のような淡い光源が、徐々にその身体を包んでいく。
刹那、郭くんは、どこか申し訳そうに薄く口角を上げて、
「……こんなこと言ったら、怒られるかもだけど。あの家でずっと待ってて、良かった。……あなたたちに、会えたから」
どこからか吹き上げた風が、銀糸の髪を散らした。
悲しみではなく、決意と願いに満ちた真摯な双眸が、私を映してきらめく。
「……必ず戻ってくるから、待っていて。あなたは――彩愛は、いなくならないで」
「!」
祈るような囁きが、押し込めていた感情を刺激する。
――いなくらないで。
そう。ずっと近くにいてほしかった。だって、大好きだったから。
もっと一緒にご飯を食べて、言葉を交わして、いろんな景色を見に行って――置いていかないで、ほしかった。
そんな私の拭いきれない渇望に、郭くんは、気付いていた。
達観したようなことを口にするくせに、心の中ではまだ必死に、大切な人を失った喪失感と戦っているんだって。
「――っ」
溢れた感情が、目尻からこぼれて頬を伝う。
きっといま私は、酷く情けない顔をしているに違いない。
けれども隠すよりも答えたくて、必死に頷く。
「絶対に、待ってる……っ!」
郭くんは、小さく笑った。
幼い少年の顔じゃなくて、子供を宥める大人のような表情で、小指を上げた右手を掲げる。
「……約束、だからね」
「……っ、うん。約束、ね」
この"約束"は、心の糧。
"理由"は重ねれば重ねただけ、この先の世界に未練を与えてくれるから。
私のあげた小指に、郭くんが頷いたその瞬間。光が四散して、郭くんの姿が消えた。
目の前に広がるのは、ちょっと寂しげながらも、緑と朱が美しい庭。
それはいたって"普通"の、今、目の前で起きたことが夢だとも思えるくらいの――。
「……酷い状態だな」
「そう思うなら、ハンカチかティッシュちょうだい。手ぶらできちゃった」
「……今は持ち合わせていない」
「ボク、先にお店戻って用意しておくよ。落ち着いたら戻ってきてね」
「ありがとカグラちゃん……」
閉まる扉の内側に消えた背を見送って、手の内側で簡易的に涙を拭う。
これだけの水分とあっては、化粧も崩れているに違いない。
けれど別に、隠す気は毛頭ない。
だってここには雅弥しかいないし、この人は私の"顔"の良し悪しなんて、微塵も興味ないって分かってるから。
私を前にして、品定めの目を向けてこない人の傍は、気楽で心地いい。
(私がここに居付く一番の理由が自分だなんて、雅弥は夢にも思わないだろうな)
戻ったら、お手洗いを借りないと。ポーチの中身を思い浮かべながら、私は横目で背後を伺う。
雅弥も中に戻るものだと思っていたけど、動く気配はない。
たぶん、私を気にかけてくれているから。
かといって、何を言うでもなくただ黙ってそこに居てくれるってのが、雅弥らしいというか。
私はなんの違和もない祠へと視線を戻し、両腕を開いて伸びをする。
「郭くん、どれくらいしたら戻ってこれるかな」
「……さあな。あやかしとヒトでは、同じ年数でも価値が違う。アンタがその"約束"を覚えているうちに、戻ってこれればいいほうだ」
「そんなに……。まあ私はおばあちゃまになっても美しく! かっこよくいる予定だから、その辺の心配はいらないかな。問題は、それまで『忘れ傘』があるかどうかのほうが……」
「アンタ、老体になっても入り浸るつもりか」
「そういう『条件』をつけたのは雅弥でしょ? 針千本なんてのめないし、"約束"を果たすまで、ちゃーんと付き合ってもらうから」
"夢"なんかで終わらせない。共にした楽しい時間も、胸を締める寂しさも、未来への期待だって。
そんな決意を胸に雅弥を振り返った私は、視界に飛び込んできた光景に息をのんだ。
薄く上がった口角。柔らかく形を変えた眉。
呆れだけではない、淡く穏やかに緩んだ黒い瞳。
「――アンタは、相変わらず自由だな」
染み入るような心地よい声に、うっすらと羨望の欠片。
それを優しい彼の、"この先"への了承と受け取って、私は「ありがとう」と微笑んだ。
「戻るぞ」と背を向けた雅弥が自身の"この先"を思って、秘かに懐の"薄紫"へと触れていたことなど、微塵も気が付かなかった。