「ええと、それじゃあなんか、人違いをされてるっぽい感じですよね? なら、私はこれで……」

 謎の気配に、理不尽な嫌がらせ。これ以上の面倒事は勘弁してほしい。
 へらりと笑って、立ち去るべく背を向けると、

「……知ろうとするな。知らないままでいろ」

「……へ?」

 なんのこと、と振り向くと、既に男は背を向けていて、私とは反対側の路地へと消えていった。

(……ホントに、なんなんだろ、アイツ)

 もしかして、間違って声をかけちゃった照れ隠しだったとか?
 それなら、うん。言わせておいてあげよう。
 そんなことを考えながら、私はいつもより幾分か軽い心地で家へと急いだ。

***

 迎えた金曜日。今日を乗り切ってしまえば、休日である二日間は悩みの種から解放される。
 ちゃっちゃと終わらせて帰ろうと、驚きの集中力でPCと向き合っていた午後十五時過ぎ。
 事件が起きた。

「へえ、真面目に仕事してんだ? エライね、彩愛さん」

「!?」

 耳元で響いた声に、私は勢いよく視線を向けた。
 息が止まる。デスク横にいたのは、人を小馬鹿にしたようにニヤニヤと笑んで手を振る、ダークグレーのストライプスーツを纏った縁なし眼鏡の男。

「孝彰さん……っ!? どうして」

「うっかり者の親父が重要書類を家に忘れていったらしくてね。わざわざ呼び出されて、届けに来たってワケ。……ってのは、まあ、建前上で」

 不意に伸ばされた掌が、肩にかかる私の髪をひと房、するりと撫でる。

「どうしても彩愛さんに会いたくてさ。俺にここまでさせるなんて、なかなか罪深いよ?」

(しーらーなーいーしーーーーっ!!)

 もう、いっそのこと勘弁してくれと泣き叫んでしまいたい。
 でも出来ない。だって私は、大人だから。

 嫌悪感に強張る頬で無理やり笑みをつくった私は、上体を引いて囚われていた髪を逃がした。
 そのまま自席で出来得る最大限の距離をとる。

「ええと、先日の件は部長にしっかりとお断りのお返事をしたはずですが……?」

「うん、聞いてるよ。けど俺はまた会いたいって思ったし。いくら頼んでも駄目だったって親父が言ってたからさ。やっぱり人づてじゃ、本気度が伝わらないのかなって。だからこうしてわざわざ、俺が直接お誘いに来たってわけ」

 職権乱用。迷惑千万。
 どうしたらそんなに、自分に自信が持てるのだろう。
 ついでに一番大事な相手の気持ちは、まるっと無視ですか。