「お前、この企画書で本当に良いと思ってんのか」
 そう恫喝すると、相手はたいていふてくされた顔をする。
 そのこと自体が問題なのではない。誰だって自分の仕事を頭から否定されたら業腹だろう。一番の問題は、不満を態度に表してしまうほど幼稚な心根で、社会人になっても甘えた輩が心の底から大倉は嫌いだった。いつまで経っても仕事を覚えず、他人に頼ってばかりのやつも。
「今はどちらかというと、褒めて伸ばす時代ですよ。パワハラとかうるさいですし」
 ふいに、飲みの席で言われたことを苦々しく思いだす。仕事ができるやつだった。確か、西川(にしかわ)という名前だった。

 実際、入社して数カ月足らずで辞める新人は多かった。
 でも、そのすべてを「パワハラだ」と決めつけられるのは心外だった。新人を鍛えるのが大倉の役目だったのだ。仕事は待ってくれない。納期も。
 特に営業職は、利益率を上げることが至上目的のようなものだ。どれだけきつくても、折れずに仕事をする人間だけが、数字を残すことができる。
 結局、やるか、やらないか。その二択でしかないのだ。甘いことばかり言っていられない。業績を残せなければ、いずれは会社の存続に関わる。自分の身を守るためにも、営業利益は必要だ。会社が潰れるか、社員が耐えきれずに辞めるか、その危うい境界を大倉は何度も目にしてきた。

 必要とされる人材を早く育てあげるためにも、大倉は厳しく部下にあたった。そうするのは、自分もそうやって過去に鍛えられたからだ。
「契約が取れるまで帰るな」まだ若手だったとき、そう言われたこともある。
さすがに今は、そこまでしない。最近の若者は精神の核が弱い、と大倉は常々思っていた。入社して数カ月も経てば、仕事は徐々に覚えられる。それでも日々の激務のはてに、ドロップアウトするやつもいる。真面目なやつほど潰れやすい。それは重々知っていても、大倉は手をゆるめなかった。
 大倉にしてみれば、あの程度の叱責で潰れてしまうようでは、この業界でずっとやっていけると思えなかった。

「ちょっと良いですか」
 デスク前で声をかけてきたのは、斎藤という社員だった。
「聞きたいことがあって」
 なんだ、その話し方は、と言いたくなるのをぐっとこらえる。
 怒気をまき散らすことが癖になっている自覚はあった。「それだから相手が委縮して仕事が円滑に進まなくなる」と、人事に言われたばかりだった。
 そんなこと知るか、と大倉は頭のなかで唾を吐く。
「なんだ」
樋口(ひぐち)詩子(うたこ)という女性社員を知っていますか」
 斎藤の口から出てきたのは、予想外の言葉だった。
「二年前まで、ここで働いていた人なんですけど」
「それを知って、どうするつもりだ」
 斎藤は何も答えない。胸に苦いものが残る。
 その社員を大倉は、疑いようもなく知っていた。忘れられるはずもない。
 あれは、大倉の手落ちだった。少なくとも、会社側はそう考えたようだった。直接の教育担当ではなかったものの、当時の上司だったからだ。でも、大倉は自分が間違っていると思えなかった。否、思いたくもなかった。会社は、彼女の存在をすべて「なかったこと」にした。不都合なことはすべて消される。それが世の常と知っていても、気分の良いことじゃない。悟られぬ程度に息をつく。そんなこと探ってないで仕事しろ、と大倉は言って背を向ける。

『お前は消えるなよ』
 らしくもなく、そう声をかけようとして口をつぐんだ。そんなことが言いたいわけじゃない。
『この社会で自滅せず、生きていくすべを身につけろ』
 どれも全部、戯れ言だ。
 途端に、大倉は何を言えばいいのか分からなくなる。
『簡単に潰れるなよ』
 そんな言葉が最後に浮かんだ。
(お前が言うな、と言われそうだな)
 そう思い、口の端に失笑が浮かぶ。
 斎藤はいつのまにか、フロアから姿を消していた。