*
「結局、土曜出社して企画書あげたんだって?」
月曜に出社したら、先輩に声をかけられた。
三つ上の先輩は実直で面倒見もよく、後輩からも慕われる、典型的な『良い人』だった。今まで、先輩のおかげで乗り切れた仕事もたくさんある。
「なんとか通りました」
と言っても、「このレベルの企画書が初めから通らなければ、この先やっていけないぞ」と上司には嫌味を言われていた。
「分かりました」と言えば、「本当に分かってんのか」と凄まれる。いったいどうすればいいのか、謎すぎて仕事よりも疲れる。ときどき自分が、上司を納得させるために存在しているような気がして、ほとほと嫌になってくる。
「なんだ、月曜から暗い顔して。仕事量多ければ回せって、いつも言ってるだろ」
「なんか、しんどいときに優しくされると、すげー心に沁みますね」
冗談ではなくそう思い、気づけば口に出していた。
「惚れるなよ」
「惚れませんって。大体、彼女いるんでしょう?」
「まあ、いないことはない」
仕事ができる上に彼女持ちなんて神さまは不公平だな、と一瞬遠い目になりそうになる。
先輩の首に下がっている社員証を見て、ふいに『彼女』のことを思った。
もしかして先輩なら、ここで働いていた彼女を知っているかもしれない、と。
「あの、前にこの会社を辞めた女性って知ってたりします?」
僕が尋ねると、先輩はいぶかしげな顔をした。
「そんな曖昧な情報で分かるか。だいたい名前はなんていうんだよ」
そこで僕は、彼女の名前すら知らない事実に思いあたった。
呆然とする僕を見て、先輩は鼻で笑ってみせる。
「辞めてくやつなんて、いっぱいいるよ。この業界で本当に残れるのは一握りだ。寝ぼけたこと言ってないで、ちゃんと仕事しろよ?」
先輩にそう言われても、僕はその後、しばらく集中することができなかった。
彼女は僕にハッキリと「復讐したい人がいるんです」と告げたのだ。その相手はおそらく、この会社のなかにいる。彼女が『自分を見失う』原因をつくった人物が。誰かの悪意に心を踏みにじられた経験が、今も彼女の瞳を悲しみで濁らせているのなら、その思いを晴らしたい。
いつのまにか、そこまで思ってることを自覚した後、僕は彼女の名前どころか連絡先も入手していないことに気づいた。でも、心配はしていなかった。なぜか僕のなかには、「また会える」という確信があった。彼女は、僕に復讐を「手伝ってほしい」と言ったのだから。
その声を頭の内側で再生し続けているうちに――僕は以前、どこで彼女の声を聞いたのか思いだした。
*
「また、土曜出社ですか」
会社から出てくる僕を待っていたかのように、彼女は突然現れた。
彼女の服装も変わらない。ここで出会うということは、勤務先が近いんだろうか。色んな考えが一瞬のうちに頭のなかに去来して、最後は「また会えた」という単純な喜びに集約される。自然と口元がゆるんでいた。自分で思っていた以上に、僕は彼女との再会を心待ちにしていたのだ。
聞きたいことがたくさんあった。確かめたいことも。でも、いざ彼女を前にすると、言葉がうまく浮かばない。
「元気でしたか」
そんな台詞が口をつく。
僕の言葉に彼女は、ただ曖昧にうなずいた。連絡先も知らない。それどころか名前もまだ教えてもらっていないのに、再会を期待していた自分自身がおかしかった。
本当は、次に会えたら仕事を辞めた原因や、「自分を見失った理由」をちゃんと聞こうと思っていた。「復讐したい相手」のことも。でも、その前に無性に自分のことを語りたくて、僕は口を開いていた。
「一年前、僕は自殺しようとしたんです」
彼女は黙ったまま、話の続きをうながした。
僕たちは、前と同じ公園にむかって歩き始めた。
高く澄んだ水色の空が、遠いビル群を煙らせていた。紅葉した落ち葉が道の端を彩ったまま、時おり風に舞いあがる。一度話し始めたら、言葉は自然にあふれてきた。
「入社して数カ月経った頃、毎日の仕事をこなすうちに、追いつめられていったんです。今も追いつめられたりはするけど、あのときはもっとギリギリだった」
満員電車で物のように運ばれる日常を繰り返しながら、心がゆっくりと壊死していくような感覚にとらわれた。報われない現実に、ずっと足踏みを続けていた。上司の声がずっと頭にこびりついて離れなかった。
「お前程度のやつはいくらでもいる」「やる気がないなら来なくてもいい」「せめて給料に見合うだけの仕事をしろ」「仕事は一度で覚えろ」「身だしなみがなってない。たとえ寝ていなくても会議で眠そうにするな」
どれだけ理不尽な言葉でも、反抗することはできなかった。叱責は執拗でいつまでも続き、「自分は不要な存在だ」と思い知らされるばかりだった。
(この日々を乗りこえた先にいったい、何があるっていうんだろう)
暗い地下鉄のホームで電車がすべりこんできたとき、自然と足が吸い寄せられた。
(あと一歩、踏みだせば楽になれる)
息苦しいような圧迫感が胸を押さえつけていた。
――あのとき。
「行っちゃだめっていう声が、聞こえたような気がしたんです」
切実な声に、耳が惹かれた。
無視することができなかった。
僕が、今も彼女を見過ごせないでいる理由。
「最初は空耳だと思った。でも、今こうして話しているからこそ分かる」
僕はまっすぐ彼女を見つめる。
今にも揺らいで消えそうな輪郭をとらえるかのように。
「あれは、君だったんだろう?」
彼女は視線をそらさなかった。今にも涙があふれそうな悲しみを湛えた目をしていた。
最初からずっと――今も、彼女は絶望し続けていて、僕とシンクロするようにこの世界のなかにいる。
「――そう」
彼女は最後にうなずいた。
僕にはまだもうひとつ、確かめたいことがあった。
「君が復讐したい相手は、もしかして『大倉豪』という人?」
僕は入社当時から新人を怒鳴り続けている直属の上司の名を言った。あの人のパワハラが原因で辞めた同期だっている。彼女があいつの手にかかって精神的に潰れても、無理はないような気がしたのだ。
彼女はもう一度僕を見て、泣きそうな顔のまま首を振った。
「結局、土曜出社して企画書あげたんだって?」
月曜に出社したら、先輩に声をかけられた。
三つ上の先輩は実直で面倒見もよく、後輩からも慕われる、典型的な『良い人』だった。今まで、先輩のおかげで乗り切れた仕事もたくさんある。
「なんとか通りました」
と言っても、「このレベルの企画書が初めから通らなければ、この先やっていけないぞ」と上司には嫌味を言われていた。
「分かりました」と言えば、「本当に分かってんのか」と凄まれる。いったいどうすればいいのか、謎すぎて仕事よりも疲れる。ときどき自分が、上司を納得させるために存在しているような気がして、ほとほと嫌になってくる。
「なんだ、月曜から暗い顔して。仕事量多ければ回せって、いつも言ってるだろ」
「なんか、しんどいときに優しくされると、すげー心に沁みますね」
冗談ではなくそう思い、気づけば口に出していた。
「惚れるなよ」
「惚れませんって。大体、彼女いるんでしょう?」
「まあ、いないことはない」
仕事ができる上に彼女持ちなんて神さまは不公平だな、と一瞬遠い目になりそうになる。
先輩の首に下がっている社員証を見て、ふいに『彼女』のことを思った。
もしかして先輩なら、ここで働いていた彼女を知っているかもしれない、と。
「あの、前にこの会社を辞めた女性って知ってたりします?」
僕が尋ねると、先輩はいぶかしげな顔をした。
「そんな曖昧な情報で分かるか。だいたい名前はなんていうんだよ」
そこで僕は、彼女の名前すら知らない事実に思いあたった。
呆然とする僕を見て、先輩は鼻で笑ってみせる。
「辞めてくやつなんて、いっぱいいるよ。この業界で本当に残れるのは一握りだ。寝ぼけたこと言ってないで、ちゃんと仕事しろよ?」
先輩にそう言われても、僕はその後、しばらく集中することができなかった。
彼女は僕にハッキリと「復讐したい人がいるんです」と告げたのだ。その相手はおそらく、この会社のなかにいる。彼女が『自分を見失う』原因をつくった人物が。誰かの悪意に心を踏みにじられた経験が、今も彼女の瞳を悲しみで濁らせているのなら、その思いを晴らしたい。
いつのまにか、そこまで思ってることを自覚した後、僕は彼女の名前どころか連絡先も入手していないことに気づいた。でも、心配はしていなかった。なぜか僕のなかには、「また会える」という確信があった。彼女は、僕に復讐を「手伝ってほしい」と言ったのだから。
その声を頭の内側で再生し続けているうちに――僕は以前、どこで彼女の声を聞いたのか思いだした。
*
「また、土曜出社ですか」
会社から出てくる僕を待っていたかのように、彼女は突然現れた。
彼女の服装も変わらない。ここで出会うということは、勤務先が近いんだろうか。色んな考えが一瞬のうちに頭のなかに去来して、最後は「また会えた」という単純な喜びに集約される。自然と口元がゆるんでいた。自分で思っていた以上に、僕は彼女との再会を心待ちにしていたのだ。
聞きたいことがたくさんあった。確かめたいことも。でも、いざ彼女を前にすると、言葉がうまく浮かばない。
「元気でしたか」
そんな台詞が口をつく。
僕の言葉に彼女は、ただ曖昧にうなずいた。連絡先も知らない。それどころか名前もまだ教えてもらっていないのに、再会を期待していた自分自身がおかしかった。
本当は、次に会えたら仕事を辞めた原因や、「自分を見失った理由」をちゃんと聞こうと思っていた。「復讐したい相手」のことも。でも、その前に無性に自分のことを語りたくて、僕は口を開いていた。
「一年前、僕は自殺しようとしたんです」
彼女は黙ったまま、話の続きをうながした。
僕たちは、前と同じ公園にむかって歩き始めた。
高く澄んだ水色の空が、遠いビル群を煙らせていた。紅葉した落ち葉が道の端を彩ったまま、時おり風に舞いあがる。一度話し始めたら、言葉は自然にあふれてきた。
「入社して数カ月経った頃、毎日の仕事をこなすうちに、追いつめられていったんです。今も追いつめられたりはするけど、あのときはもっとギリギリだった」
満員電車で物のように運ばれる日常を繰り返しながら、心がゆっくりと壊死していくような感覚にとらわれた。報われない現実に、ずっと足踏みを続けていた。上司の声がずっと頭にこびりついて離れなかった。
「お前程度のやつはいくらでもいる」「やる気がないなら来なくてもいい」「せめて給料に見合うだけの仕事をしろ」「仕事は一度で覚えろ」「身だしなみがなってない。たとえ寝ていなくても会議で眠そうにするな」
どれだけ理不尽な言葉でも、反抗することはできなかった。叱責は執拗でいつまでも続き、「自分は不要な存在だ」と思い知らされるばかりだった。
(この日々を乗りこえた先にいったい、何があるっていうんだろう)
暗い地下鉄のホームで電車がすべりこんできたとき、自然と足が吸い寄せられた。
(あと一歩、踏みだせば楽になれる)
息苦しいような圧迫感が胸を押さえつけていた。
――あのとき。
「行っちゃだめっていう声が、聞こえたような気がしたんです」
切実な声に、耳が惹かれた。
無視することができなかった。
僕が、今も彼女を見過ごせないでいる理由。
「最初は空耳だと思った。でも、今こうして話しているからこそ分かる」
僕はまっすぐ彼女を見つめる。
今にも揺らいで消えそうな輪郭をとらえるかのように。
「あれは、君だったんだろう?」
彼女は視線をそらさなかった。今にも涙があふれそうな悲しみを湛えた目をしていた。
最初からずっと――今も、彼女は絶望し続けていて、僕とシンクロするようにこの世界のなかにいる。
「――そう」
彼女は最後にうなずいた。
僕にはまだもうひとつ、確かめたいことがあった。
「君が復讐したい相手は、もしかして『大倉豪』という人?」
僕は入社当時から新人を怒鳴り続けている直属の上司の名を言った。あの人のパワハラが原因で辞めた同期だっている。彼女があいつの手にかかって精神的に潰れても、無理はないような気がしたのだ。
彼女はもう一度僕を見て、泣きそうな顔のまま首を振った。