瀬戸内海は、
『世界の宝石』『東洋の楽園』
と称される。
1950年頃の
島の 事件現場は、
コート・ダジュールに匹敵する
美しい場所だと、
写真で わかる。
その場所に起きた惨劇は、
世界に 類のない
有害産業 廃棄物 不法投棄事件。
通称 豊島事件。
1970年代の 作業期間を
含めれば
事件の 処理は、
未だ 続いていて、
土壌汚染の 浄化処理に 至っては
押しに押して
2025年を 目標だと 説明され
史上最悪の不法投棄事件の
難解さに
ヨミは、背筋が冷えた。
こんな 小さな島。
東京ドーム6個以上の敷地内に
770億円もの投資をしないと
処理できない 産廃量、
93万8000トン
膿のような
黒い汁水が 池溜まり
流れ出て、
悪臭健康被害、喘息の多発。
連日、低温でおこなう
野焼きは
ダイオキシンを 撒き散らし
黒煙を キノコ雲の ように
あげて、
海の向こうの
香川県庁から 見える ほど。
当初
廃棄物 処理の完了 予定は、
2017年で、
県が 回復処理の為 建てた
施設は 撤去の
予定だった という。
しかし、
どんどん 新らしく
発見される 産廃、汚染地下水。
未だ
浄化作業は
ヨミの 目の前で、続いていた。
ガラス張りで作業を見れる
悲しいかな
島で 唯一 近代エレベーターが
ある 処理建物とは 別に、
敷地の中に
ポツンと古びた
2階建ての 建物がある。
豊島住民資料館だ。
住民運動の 記憶を残す
手作りの 資料館は、
逮捕された
産廃業者の 事務所だった。
この資料館で さえ、
2017年の 処理完了と 同時に、
撤去対象だった らしい。
ここには
『剥ぎ取り』があった。
積まれる 廃棄物 壁をつけ
樹脂糊を吹きつけ、
剥ぎ取った
産廃の壁は
18mの 高さになる。
考えれば、東京ドーム 高さ
3分の1を
パンパンにして
6個集めた ゴミ。
その
豊島の 産廃標本だ。
ゴミの標本を作るのに、
970万円かけた。
『剥ぎ取り』は、
原爆ドームを 心に、
近代の 負開発の 悲惨を、
標本した。
『金も能力もない。
あるのは命だけ、
命懸けで、戦った。』
住人運動リーダーの声。
ヨミは思う。
今
車や家電を買い換える。
リサイクル料を払う。
車1台当たり1万円ぐらい?。
それが
当時 廃棄請け負いは、
驚愕の ダスト1トン車
100台当たり 1700円。
始まりは、高度経済成長期。
都市開発や工業化の中
まず
大量の 土砂が
都市や 工業地帯へと 運ばれる。
もちろん
土砂は 大規模 埋め立てには
絶対必要で、欠かせない。
しかも、
豊島の 地中には
ガラスの 原料にもなる
『珪砂←けいさ』も
あった。
コンクリート構造物に
『海砂』は 必要で、
大量に 採取されてしまう。
抉れた 大地に 今度は
近隣工業地帯、
遠くは 首都圏から
大量の廃棄物が 運び埋められた。
県が 責任を認め
撤去が 決まったのは、
2000年。
産廃が 隣の直島に
少しずつ 船で 運び込まれ、
直島製錬所で 溶融処理し、
汚染土壌は
福岡で、
セメント原料化の 処理を
してもらう。
処理事業は
目の前で
多くない 人数で
まさに、ヨミの 目の前で
続く。
住人の 言葉は、まるで
聖書の 格言に 思えた。
『この国は この島に
赤ん坊を捨て、
障害者を捨て、
老人を捨てた。
まだ飽き足らず、
今度はごみを 捨てるのかい?』
『世界の宝石』『東洋の楽園』
と称される。
1950年頃の
島の 事件現場は、
コート・ダジュールに匹敵する
美しい場所だと、
写真で わかる。
その場所に起きた惨劇は、
世界に 類のない
有害産業 廃棄物 不法投棄事件。
通称 豊島事件。
1970年代の 作業期間を
含めれば
事件の 処理は、
未だ 続いていて、
土壌汚染の 浄化処理に 至っては
押しに押して
2025年を 目標だと 説明され
史上最悪の不法投棄事件の
難解さに
ヨミは、背筋が冷えた。
こんな 小さな島。
東京ドーム6個以上の敷地内に
770億円もの投資をしないと
処理できない 産廃量、
93万8000トン
膿のような
黒い汁水が 池溜まり
流れ出て、
悪臭健康被害、喘息の多発。
連日、低温でおこなう
野焼きは
ダイオキシンを 撒き散らし
黒煙を キノコ雲の ように
あげて、
海の向こうの
香川県庁から 見える ほど。
当初
廃棄物 処理の完了 予定は、
2017年で、
県が 回復処理の為 建てた
施設は 撤去の
予定だった という。
しかし、
どんどん 新らしく
発見される 産廃、汚染地下水。
未だ
浄化作業は
ヨミの 目の前で、続いていた。
ガラス張りで作業を見れる
悲しいかな
島で 唯一 近代エレベーターが
ある 処理建物とは 別に、
敷地の中に
ポツンと古びた
2階建ての 建物がある。
豊島住民資料館だ。
住民運動の 記憶を残す
手作りの 資料館は、
逮捕された
産廃業者の 事務所だった。
この資料館で さえ、
2017年の 処理完了と 同時に、
撤去対象だった らしい。
ここには
『剥ぎ取り』があった。
積まれる 廃棄物 壁をつけ
樹脂糊を吹きつけ、
剥ぎ取った
産廃の壁は
18mの 高さになる。
考えれば、東京ドーム 高さ
3分の1を
パンパンにして
6個集めた ゴミ。
その
豊島の 産廃標本だ。
ゴミの標本を作るのに、
970万円かけた。
『剥ぎ取り』は、
原爆ドームを 心に、
近代の 負開発の 悲惨を、
標本した。
『金も能力もない。
あるのは命だけ、
命懸けで、戦った。』
住人運動リーダーの声。
ヨミは思う。
今
車や家電を買い換える。
リサイクル料を払う。
車1台当たり1万円ぐらい?。
それが
当時 廃棄請け負いは、
驚愕の ダスト1トン車
100台当たり 1700円。
始まりは、高度経済成長期。
都市開発や工業化の中
まず
大量の 土砂が
都市や 工業地帯へと 運ばれる。
もちろん
土砂は 大規模 埋め立てには
絶対必要で、欠かせない。
しかも、
豊島の 地中には
ガラスの 原料にもなる
『珪砂←けいさ』も
あった。
コンクリート構造物に
『海砂』は 必要で、
大量に 採取されてしまう。
抉れた 大地に 今度は
近隣工業地帯、
遠くは 首都圏から
大量の廃棄物が 運び埋められた。
県が 責任を認め
撤去が 決まったのは、
2000年。
産廃が 隣の直島に
少しずつ 船で 運び込まれ、
直島製錬所で 溶融処理し、
汚染土壌は
福岡で、
セメント原料化の 処理を
してもらう。
処理事業は
目の前で
多くない 人数で
まさに、ヨミの 目の前で
続く。
住人の 言葉は、まるで
聖書の 格言に 思えた。
『この国は この島に
赤ん坊を捨て、
障害者を捨て、
老人を捨てた。
まだ飽き足らず、
今度はごみを 捨てるのかい?』